言葉というのは生き物で、時代や背景によって使われ方が一変することもある。
これは日本語でも同じ。
例えば非常に良い例えが、形容詞の「やばい」
私の感覚で言えば「やばい」は「不都合である。危険である」なのだが、最近の若者は「このパスタ、マジやばい」とか、ポジティブの「すごい」の意味で使っているようだ。
検索してみると
”「やばい」という語は元々は「具合が悪い様」という意味の「やば」が「いや危ない」などの語と混ざり形容詞化したものである。
「やばい」という語は江戸後期にはすでに存在していた。
「危ない」「都合が悪い」という意味だった「やばい」が1980年代頃に「危ないほど格好が悪い」という意味で使われるようになり、1990年代には逆に「危ないほど格好いい」という意味でも使われるようになった。
そこから「凄い格好いい」という意味にすり変わり、今度は単純に「凄い」という意味でも「やばい」という語は使われるようになった。
そして「やばい」はいい意味にも悪い意味にも使える便利な言葉となり、若者を中心に爆発的に広まった。”
(引用:https://storyinvention.com/30/)
とのこと。
「言葉の乱れ」「誤用」と言ってしまえば簡単だが、言葉というのはその時代背景を写し、日々変化しているのだ。
正誤ではなく、生き物なのだ。
過去から順応して生きて来たし、この先も順応していかないといけない。
しかし、これが外国語だと一筋縄ではいかないものだ。
外国語の辞書を引くとき…
ん?辞書はなんで「引く」?
たくさんの物の中から、ひとつを選んで自分の物にすることを「ひく」という。
だからおみくじを「ひく」という。
たくさんあるおみくじの中から、ひとつを選ぶことが「ひく」なのだとか。
そうか、辞書は「引か」ないといけないのか、妙に納得!!
そう外国語を辞書で引くととかく1番目の意味を選びがちだが、実際は文脈に合わせて引き当てなければいけない。
更に、辞書に有る日本語の意味が、対する外国語と同じニュアンスで使われているのかを見極めるのが大変。
例えば最近読んだこの本
ここにも載っていたし、イタリア語学習者なら大抵最初は違和感を感じるイタリア語のfurbo(フルボ)
辞書を引くと「抜け目のない、ずるがしこい」と載っている。
これだけ見ると、私たち日本人はネガティブなイメージを持ってしまうのだが、実はそうではない。
”日本人からすれば違和感を覚えるかもしれませんが、「フルボ」はどちらかと言えば揶揄が込められた誉め言葉です。フルボは単に「ずる賢い」「抜け目がない」「悪い奴」という意味だけでなく、「あらゆることを疑い、自分の機知を使ってアイデアを得て、自分の責任で立ち回る」といった、多くを包括した意味合いも含まれます。ですから、苦境を巧みな知恵でくぐり抜けた人もやはり「奴はフルボだな」と言われたりもします。”
私もイタリア人に"Sei furba."(女性の為フルバになる)と言われると思わずにやりとした経験がある。
基本「ずる賢い」イタリア人にfurboと言われるのは相当してやったり!
このように言葉というのは一筋縄ではいかない。
だからこそ、イタリア語の場合は、訳者を信用していないわけではないが、読める場合は出来るだけ原文に当たるようにしている。
翻訳者には言語だけでない様々な知識が必要だからこそ、専門以外にも色々な本を読んだり、映像を見たりすることが必要となる。
さて、ここからが今日の本題。
最近ボッティチェリの話題に偏っておりますが、先日そのつながりで話がFilippino Lippi(フィリッピーノ・リッピ)に及んだところ、2011年から12年にかけてローマで開催された”Filippino Lippi e Sandro Botticelli nella Firenze del '400"(15世紀フィレンツェにおけるフィリッピーノ・リッピとサンドロ・ボッティチェッリ展)についても考察が日本語で読めると聞き、早速図書館から借りて来た。
西洋美術研究17号(2013.11)に掲載されている、荒木文果氏の「15世紀フィレンツェにおけるフィリッピーノ・リッピとサンドロ・ボッティチェッリ」展
これを読んでいて、ある一文で引っかかり、昨日一日はこの一単語でつぶれた。
「16世紀に、G・ヴァザーリが『奇抜な(bizzarro)』という言葉を用いて称賛したフィリッピーノの絵画には、<略>」の箇所である。
”bizzarro”を用いて称賛???
bizzarroを辞書で引くと、
<形>1、(思想、態度などが)風変りな、異常な、奇抜な
2、(馬が)癇が強い
3、(古)怒りっぽい
と出ていて、どう見ても称賛の言葉に値しない。
更に、このbizzarroという言葉得てして芸術の世界では「バロック」の代名詞として用いられることが多い。
資料を探したところ、こんな感じ。
16世紀の終わりから、フランス語の形容詞baroque、ポルトガル語のBarrocoは一般的にイタリア語の<stravagante(奇抜な、風変わりな)>や<bizzarro>を表す言葉となった。
18世紀の終わりごろまでには、1600年代の芸術スタイルとして”bizzarro","stravagante"の意味として「バロック」が使われるようになっていた。
「バロック」とはもともと「軽蔑語」つまりネガティブな言葉だった。
そしてこの時代の芸術家たちF. Borromini, G.L. Bernini, Pietro da Cortonaなどの評価も低かった。
この定義の軽蔑的な意味合いが薄まったのは「バロック様式」がフランスのアカデミーの辞書の見出しとなった、19世紀末から20世紀になってから。
それと同時のバロックの芸術家たちの評価も上がってきた。
こういう先入観が有ったから、bizzarroが称賛の言葉に値するとは思えなかったのだが、実はこのbizzarro、バロックより前、マニエリスムの代名詞としても登場していたのだ。
調和と均衡を重んじたそれまでの芸術から脱却した作品
bizzarro(奇抜な), estroso(独創的な), virtuosistico(名人芸的な)な作品がマニエリスムのポジティブな特徴になる。
だからこそ「奇抜」なことがヴァザーリにとってはポジティブだった、bizzarroは称賛だったわけだ。
ちなみに「マニエリスム」自体も軽蔑語。
Luigi Lanzi(ルイジ・ランツィ)が”Storia pittorica dell’ Italia (イタリア絵画の歴史)”(1795-96)で最初にManierismo(マニエリスム)という言葉を使った。
これは軽蔑的にミケランジェロやラファエロのスタイルの模倣者を表し、ローマ略奪以降の芸術の衰退を揶揄している。
元になっている“maniera(マニエラ)”とは、中世末期より使われていた言葉で、「スタイル」「様式」とほぼ同じ意味を持っている。
ヴァザーリもほぼ同じ意味合いで使っていた。
ゴシック様式だって、元は軽蔑語
ヴァザーリ曰く「ゴシックとはnordico(北の), barbarico(野蛮な), capriccioso(奇抜な)と同義語。
ルネサンスのギリシャーローマの古典的な用語とは対立する。」とけなしている。
このパターンも、後に軽蔑的な意味合いを失っていく。
たった数十年で、背景によって意味合いがこんなに変わるとは。
とりあえずすっきりした!!
しかし翻訳って恐ろしいし、外国語が分かるからって但し翻訳が出来ているとは限らない。
肝に銘じましょ!!
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にみるように、
イタリア語のFURBO
は、少し古典的な英語の
clever
に直訳できるようですね。
「少し古典的」と言ったのは、私が英語を学んだのは昔なので、現代の俗語や米語には疎くなっているだろうからです。
いつも有益なコメントありがとうございます。
伊英辞書を引きましたら、その通りでした。
知れば知るほど日本語とロマンス系言語は遠いなぁと感じます。辞書を作る人は大変だっただろうなぁ、と思う反面微妙なニュアンス、自分がどの言葉を当てるかは、あらゆる経験、読書量に反映していると実感しています。