イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

神奈川県立歴史博物館のドーム

2019年01月29日 13時58分18秒 | 日本・史跡

今年のNHK大河ドラマを見ていて、気になったことが有った。
「横浜正金銀行とは、横浜銀行なのだろうか?」
横浜市民としてはなんとなく気になる。だったら調べりゃいいじゃん、と思いながらも忘れていた。
するとグッドタイミング、昨日新聞にその答えが載っていた。
答えははずれ。
横浜正金銀行は、戦前の外国為替専門銀行で明治末の時点で既に20もの海外支店を持っていたという。
東京銀行(現三菱UFJ銀行)の前身だ。

記事の内容がそれだけなら、専門外。
何もここにわざわざ載せる必要はないのだが、この記事美術的にも面白かった。
この横浜正金銀行の本店が、現在の神奈川県立歴史博物館の建物だという。

この辺りは西洋風の建築も多いので、普段はなんの気なしに通り過ぎていたけど…
新聞の記事では「ドームそのものの形のよさでは、日本史の頂点にあると思う」と作家の門井慶喜氏は書いている。
「作家?誰?」と思ったら、この人年始のNHKドラマ「家康、江戸を建てる」の原作者だし、昨年「銀河鉄道の父」で直木賞を受賞した人だった。

記事いわく、この建物を設計したのはなんと江戸旗本家の妻木頼黄(よりなか)という人。
なんと明治時代の建築家三台巨匠の1人だ。

3歳で家督を継いだ頼黄は明治9年(1876年)家屋敷を売却し渡米するも、日本に戻るよう説得され帰国。
1878年、工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学、ジョサイア・コンドルに学ぶ。東京駅を建設した辰野金吾の後輩だ。
1882年、アメリカへの夢は捨てられず、卒業1年前に中途退学し、アメリカのコーネル大学建築学科3年に編入、同大学で学士号を取得したのち、ニューヨークで修行し、3年後には帰国、その後は東京府に勤務。(この頃東京はまだ”都”ではない)
1886年、議院(国会議事堂)建設のための組織である(内閣)臨時建築局に勤め、ドイツに留学し2年後帰国。ドイツまで行って西洋建築を学んだにもかかわらず、議院建築は木造の仮建築で建てられることになり、本建築の建設は見送られた。(引用:Wikipedia)
経歴を見ただけでエリート中のエリートだったことは想像できる。

横浜正金銀行が建てられたのは1904(明治37)年7月、外壁に石材を使用した煉瓦造りで地上3階地下1階建ての建物は、コリント式の重厚な石造彫刻の柱頭飾りをもつ大オーダーと、正面に据えられた巨大なドームが特徴で、ネオ・バロック様式とされる威厳ある外観を構成している。(神奈川県立歴史博物館HPから引用)
ドームは8つの大きな丸窓を備え、その間を急降下するイルカが泳いでいる。尖塔飾りはそれだけで9メートル以上もあるという。

その雄大、優美なドームも1023年(大正12)年9月1日の関東大震災で焼失。
しかし戦後、いや50年前まで修復されていなかった。
それは日本ではドームは単なる装飾であって、本質的には”不要不急”なものであったからだ、と門井氏は言っている。
さもありなん、西洋ならドームは大抵教会のメイン建築で、それは天井の神により近づく重要なものだったが、日本の場合勝手が違う。この建物に宗教は全く関係はない。ドームとはラテン語の「家」を表すdomusから来ている。教会は神の家だ。


1365年Andrea di Buonaiutoによって描かれた、当時はなかったフィレンツェ花の大聖堂のドームは教会にとってドームの存在がどれほど大切だったかを物語っている。
Brunelleschiの案を元にこの絵のごとく大聖堂がドーム覆われるのは1436年のこと。(頂点のランターンは1471年)

横浜正金銀行は1946(昭和21)年に設立された東京銀行に資産・負債を引き継いで解散。
建物はしばらく東京銀行横浜支店として使用されていたが、1964年(昭和39年)に神奈川県が建物を買い取り、建物の増築・改修工事を行い、関東大震災で焼失したドーム屋根の復元を行う。
1967(昭和42年)3月より神奈川県立歴史博物館として、第2の人生を歩んでいる。
更に1969年(昭和44年)、「旧横浜正金銀行本店本館」として国の重要文化財に指定され、1995年(平成7年)には敷地を含め「旧横浜正金銀行本店」として国の史跡に指定された。
古い写真を元に修復されたドームは、悠久の西洋への羨望の思い起こさせる、文明開化横浜のシンボルとして現在も馬車道の入り口に佇んでいる。

参照した新聞記事

2019年1月28日 日本経済新聞朝刊



最新の画像もっと見る

コメントを投稿