また時間が空いてしまいました。
本当は先週のうちにアップできたのに…
実は今ニースにいます。
フィレンツェは雪が降ったらしですが、こちらはやはり過ごし易いです。
寒いですが、寒くないです。
あ~戻るの嫌だな。
さて、この記事なんですが、実は先週木曜日の夜には出来ていたんです。
ところが、丁度アップしようと思った頃、なんとネット回線が切断していたんです。
まぁよくあることなので、翌朝には復活しているだろうと思ってとりあえずワードで保存しておいて寝ました。
ところがなんと復旧したのは今日…らしいです。(連絡は来たけど、まだ確認してないので)
勿論金曜日すぐに電話局には連絡したのですが、うちだけではなく、うちの周辺の回線が故障したらしく、ネットどころか家電も通じませんでした。
まぁ今や、家電が通じなくても携帯が有るので、あまり困りはしませんが、さすがにネットはきつかったですね。
家でネットができるようになって、それほど経っていないはずなのに(と言っても10年以上か)有るのが当たり前。
知らず知らずのうちになくてはないものになっていました。
こんな時、超中心街に住んでいるので、あちこち無料でWifiを使えるのが救いです。
FBにこのこと書いたら、友人が働いてるお店で使っても良いよ、と連絡をくれたり。
ありがたや、ありがたや。
ということでニースでこれをアップする運びとなったわけで、飛行機だと荷物制限が厳しいので滅多にPCは持ってこないのですが、今回はバスで来たのもあって(Firenze-Genova-Nice時間はかかるけど安いし、快適)持ってきて、こうして更新しています。
ぎりぎりで色々調べられなかったのも痛かったのでね。
ということでここからが先週書き上げておいた記事です。
旅立つ前の数日間、何もしていなかったわけではないのですが、色々調べ始めたらきりがなくて。
アナログなので、色々調べても書き出さないと理解できないので、色々書き出してると時間がかかって仕方がない!
そしてちょっと溜まってきたので、小出しにしましょうね。
昨年末から言っていたゴシック傑作に触れたいと思うのですが、その前にそこに描かれた人物について色々調べていました。
その人物はTeodolinda。
Monzaの大聖堂に描かれた彼女の生涯は、イタリアの国際ゴシック様式のフレスコ画で最大のものです。
かつ、最近終わった修復のお陰で、今は非常によい状態で見学することができます。
ここ、大聖堂は入場自由ですが、礼拝堂にはしっかりカーテンが掛かっていて、外から見ることは出来ません。
付属の博物館のチケット売り場でチケットを購入して、入場がガイド付きのみになります。
基本的には予約をした方がいいです。残念ながら電話だけなんですけど。
私の場合、そんなこと知らずに行った1度目は門前払い、ここで「予約してね~」と言われたので、2度目は予約して行きました。
でも実は予約は14時。でも出来れば早めに移動したかったので(あのCastello della Mantaに行った悪天候の時だったので)早く行って「空いてたら入れて欲しい」と頼んだんだんです。だって何故か電話した時空いてたのは午後ばかり。なんかおかしいなぁ、と思ってダメもとで行ってみたんです。すると「小学生の団体と一緒だけど…説明が子供向けになるよ」ということでしたが入れてもらえました。子供たちは「何で中国人がいるの?」とお決まりの一言。こら~全部分かってるぞ。
結果的には説明も子供向けのやさしいものだったので、かえって良かったかもしれません。
2度目に行った時期は午前中ほとんど学生団体が入っていたようなので、予約しないでも私のように無理無理に入り込むことは可能かもしれません。また予約していても来ない人がいれば、入れてもらえる可能性も有ります。
これを見なければMonzaに来た意味ないですよ~
このTeodolinda(テオドリンダ)って一体何者?というところから話を始めましょう。
って色々調べ始めたらかなり遠周りになっちやったなぁ…
395年東西に分裂したローマ帝国。
中でも西ローマ帝国は衰退の一途をたどり、首都もローマからミラノ、ラヴェンナへ。
北からの度重なる“蛮族”の侵攻に弱り切った西ローマ帝国にとどめを刺したのはゲルマン人の傭兵隊長オドアケル。
476年ロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され、”西”ローマ帝国は滅亡しました。
しかしもう1つ残ったローマ帝国、コンスタンティノープルに首都を置く東ローマ帝国は、オスマン帝国に攻略される1453年まで生き延びて行きます。
”蛮族”なんかすごい言葉ですが、イタリア語ではBarbaroと呼ばれるローマ人ではない異民族の総称で、この人たちは基本的にラテン語を話さない、ギリシャーローマの慣習、法律、理念などを持たない人、彼らの話す言葉が「バオバオ」とか「バーバー」とかとにかくそんな風に聞こえたからbarbaroと名付けられたといういわゆる侮蔑語。私たち日本人もbarbariかも。
今回注目したLongobardo(ロンゴバルド族。「ランゴバルド」との表記もあるが、イタリア語の発音を尊重して私は“ロンゴバルド”で統一させていただきます)は、元はゲルマン系の民族で、黒海北方にいたサルマーシア人などの移動に伴い、3世紀後半ごろにはローマ帝国の北や西の国境辺りに住んでいました。
現在ミラノを州都とするLombardia(ロンバルディア州)は元々ロンゴバルド王国の支配領域だったポー川流域一帯で、”ロンゴバルド人の土地”の名残なんだそうです。
またロンゴバルドとは「長い髭」 (lunga barba) からきていて、彼らが長い髭を生やしていたので、こう呼ばれていたという言い伝えもあります。
4世紀末から5世紀にかけて、蛮族のイタリア半島侵入が激しくなります。
人口の増加や気候の変化など理由は様々。
この頃のヨーロッパは、英国の島々はアングロサクソン系、フランク族・ブルグンド族がガリアを、西ゴート族がスペインを、ヴァルダン族がアフリカのローマの属州を支配していました。
イタリアはというと、493年東ゴート族のTeodorico(テオドリック)がRavenna(ラベンナ)を包囲、イタリア王を名乗っていました。
テオドリックは西ローマ帝国滅亡後のイタリア半島のほぼ全域を支配していました。
順風満帆を思わせたテオドリックの治世ですが、大きな問題を抱えていました。
それは東ゴート族は王を筆頭に多くが異端の烙印を押されたアリウス派。
カトリック教徒のGiustiniano I(皇帝ユスティヌス1世)はこれを迫害。
そんなこんなで東ローマとの関係は次第に悪化してゆきます。
それでもテオドリックの存命中は良かったのですが、 後継者に恵まれなかったテオドリックの死後、東ゴート王国は皇帝ユスティニアヌス1世によって553年滅亡に追い込まれてしまいました。
こうして一瞬ですが、再び“ローマ帝国”の手中に戻ったイタリア半島ですが、帝国がペルシャとの戦いで手が離せない隙に、ロンゴバルドのAlboino(アルボイン)の率いるロンゴバルド族の侵入を許してしまいます。
いくらローマがローマ帝国全盛期の面影などなく寂れてしまっていたとしても、多くの蛮族が永遠の都ローマを目指します。
いち早くローマを目指したのはロンゴバルド族だったわけです。
アルボインはFriuli(フリウリ)からイタリア半島を攻め、次第に南下して行きます。
古くはForum Juliiと呼ばれていた場所をCividale(卓越した都市)という名に替え、ロンゴバルド族の最初の拠点に据えました。
アルボインはこの町を甥のGisulfo I(最初のフリウリ公)に任せ、進軍を続けます。
569年にはMediolanum(現Milano)を占領、572年にはTicinum(現Pavia)を占領しここPaviaをロンゴバルド王国の首都としました。
しかし、アルボインの治世は長くは続きません。
572年にアルボインは暗殺されてしまいます。
王位を継いだクレフもわずか2年足らずで暗殺されてしまい、その後ロンゴバルド王国は王を置かず、30以上のDuca(公爵)が独立して支配をする連動政体へと変化しました。
中でも特に有力だったのは中部のSpoletoを支配していたスポレート公国と南のべネヴェント王国でした。
そんなこんなのロンゴバルド王国がとても目障りだった東ローマ帝国は今度はフランク王国と結託して、ロンゴバルド諸公を打倒しようと考えます。
フランク王国はキリスト教徒だったので、東ローマ帝国とは仲良しでした。
流石にフランク王国は手強い。574年ロンゴバルド王国征伐が行われ、この時は貢納と領土の割譲を条件に講和が結ばれます。
574年以来、王を置かずに諸公の合議で統治されて来たロンゴバルド族の間にも、結束の必要性が生まれてきます。
584年ついに王が選出されます。クレフ王の息子Autari(アウタリウス)です。
アウタリウスはロンゴバルド族の期待に応え、ロンゴバルド族の再構成と、イタリアの支配を強固なものにしました。
彼は東ゴート族の王というだけでなく、領土内の全てのローマ人の保護者ともなったことで後の四皇帝内乱の時代(68年6月 - 69年12月)に終止符を打ったTito Flavio Vespasiano(ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス)にあやかってFlavioの名前を与えられたりもしました。585年、588年と2度に渡ってしつこくイタリアに侵入してくる東ローマ帝国とアウタリウス王は貢納を条件に589年改めて講和を結びます。しかし翌590年フランク族は大軍を率いてロンゴバルド王国を攻撃。この時フランク王国は略奪をしただけで退散したらしいですけどね。
アウタリウスの治世、首都Paviaには王国としてもまとまりが見え始めていました、
このアウタリウス王こそTeodolinda(テオドリンダ)の最初の旦那です。
ただアウタリウスは590年、結婚生活わずか1年で亡くなってしまいます。
アウタリウスの死後王位を継いだのはTeodolindaの2番目の夫Agilulfo(アギルルフス)、元はTorinoの公爵でした。
アギルルフス王は591年長年小競り合いが続いていたフランク王国と、毎年の貢納を条件に和解した後、今度はビザンチン領を侵し始めました。
593年にはローマを包囲し、当時教皇だったGregorio Magno(グレゴリウス)と交渉。598年には教皇と講和を結び、ロンゴバルド王国の基盤を万全なものとしました。
アギルルフスも前王アウタリウスに勝るとも劣らぬ優秀な王だったことは明らかで、彼の治世下で王国の統治制度が整備され、ロンゴバルド王国も一国家としての体裁を取るようになりました。
歴史家のPaolo Diaconoは彼の著書『ランゴバルド史』(Historia Langobardorum)で、アギルルフスの治世に実現された平和を称賛しています。
604年Paviaからローマ時代首都として栄えていたミラノ及び夏の首都をMonzaに遷都したり、Gratia Dei rex totius Italiae "全イタリアを治める王が神に感謝いたします"と彫られた王冠を被るなどビザンチン風の儀式が執り行われました。
この冠に描かれた文言より、もはや単なるロンゴバルド王国ではなく、イタリアの王であることを強くアピールしていることは明らかです。
この冠はこの時期の金細工の最高傑作“Corona Ferrea”(ロンゴバルドの鉄王冠)と呼ばれ、それ以降イタリア王の頭上を飾っていました。
神聖ローマ帝国を樹立したカール大帝も、一時期ですがイタリアの王となったナポレオン、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世もこの冠を被ったそうです。
現在はテオドリンダの礼拝堂の中心にある祭壇の中心にものすごく厳重に保管されています。
これを見るためにも礼拝堂に入らないわけには行かないですね。
アギルルフス王の時代は政治だけなく、素晴らしい文化も花開きました。Basilica di San Giovanni (聖ジョバンニ大聖堂)、 Palazzo Reale di Monza(モンツァの王宮)の建築,
そしてなんといっても金細工。Croce di Agilulfo(アギルルフスの十字架), Chioccia con i pulcini(雌鶏とヒナたち), Evangeliario di Teodolinda(テオドリンダの礼拝用福音集)
これらは大聖堂付属の博物館で見ることができます。
テオドリンダとアギルルフスの間にはAdaloaldo(アダロアルドゥス)という息子がいました。
604年、戴冠したのはアダロアルドゥスです。でもアギルルフス王が亡くなった610年、彼はまだ未成年でした。そこで彼が成人するまでは母テオドリンダが摂政として政治を動かすことになりました。
彼女は美しく、教養豊かな女性で市民にも愛されていたので、アギルルフスとテオドリンダの時代王国は繫栄し、豊かな時代を謳歌していました。
バイエルン公爵Garibaldo Iの娘で王家の血を引く王女だったテオドリンダとアウタリウスの結婚は、対フランク王国の為、ロンゴバルド王国とバイエルン公国の結びつきを強固にする目的で行われた政略結婚でした。
彼女の政治的役割はそれだけではなく、カトリック教会が異端として迫害してきたアリアンナ派だったロンゴバルド王国の人々とカトリック教会の関係をうまく行かせること。
テオドリンダはカトリックだったため、グレゴリウス1世との関係も良く、603年アダロアルドゥスはロンゴバルド族の中で最初にカトリックの洗礼を受けたことで、その後多くのロンゴバルドが改宗することになりました。この時期はローマ教会とも友好的な関係が保たれていた。
またテオドーラはBobbioにSan Colombanoが建てた修道院にも援助をしています。
彼女の功績が認められ、後に聖人につぐ地位Besta(列副された人)を与えられています。
そんな平和だったロンゴバルド王国、いやイタリア王国は626年アダロアルドゥスが義兄Arioaldo(アリオアルドゥス)によって殺されたことで、また荒れて行きます。
テオドリンダもこの謀反が起きた翌年死亡し、夫や息子のそばに埋葬されました。
この後のロンゴバルド王国は、と言いますとアリオルドゥスが死ぬと、彼の王妃を娶ったロターリが王に選出されます。ロターリは当方でイスラム教徒と争っているビザンツ帝国の支配の緩みををついて領土を積極的に拡大し、リグーリア、コルシカ、ヴェネツィア周辺部なども636年手中に収めました。
643年にはローマの法律に替わるものとしてラテン語でL’editto di Rotari(ロターリ王の告示)を編纂。ロンゴバルド人の法習慣を採録しました。彼の治世に最盛期を迎えたロンゴバルド王国は、坂道を下って行きます。
653年にはアギロルフィング家のアリベルトゥス1世が王位を継承しますが、彼の死後(661年)2人の息子に王国を分割、内紛が起き、弱体化の一途をたどって行きます。
Langobardia Maior比較的まとまっていた北イタリアとLangobardia Minor公爵が自立して、細切れになっていた南イタリア。
774年教皇の命で動いたカール大帝にPaviaが陥落。最後のロンゴバルド王Desiderio(デシデリウス)は廃され、カール大帝自らロンゴバルド王、つまりイタリア王を兼ねることになりました。
こうしてロンゴバルド王国は実質的に滅亡することになったのです。
いや、正確には南のベネヴェント公国は982年まで存続していましたが、このベネヴェント公国も849年サレルノ公国に分裂したり。900年にはそこから更にカープア公国に分かれたりしました。
ということで、次回になるかなぁ?
それともニースの話が先になるかな?
とりあえずMonzaのテオドリンダの礼拝堂の話はもう少しお待ちくださいね。
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