浜までは海女も蓑着る時雨かな 瓢水
それまでお坊さんの法話などほとんど聴いたことがなかったのですが、3年前から年に2、3回そういう機会に恵まれ聴かせてもらっている。 9月11・12日(日・月)にも 「秋季彼岸・永代経法要」 があり、 冒頭の句 「浜までは海女も蓑着る時雨かな 瓢水」 はその法話の中に出てきた句です。
ん? この句は前にも聞いたことがあるような・・・ と思ったのですが、その句の説明を受けて、句の持つ本当の意味を全然解していなかったことを知ることになりました。
そのときの句がこの
「浜までは海女も蓑着る時雨かな 瓢水」 だったのだそうです。
海の中にもぐってどうせ濡れてしまう海女でも、浜までは濡れないように蓑を着ます。
いつかはこの世とお別れすることになるのだけれど、それまでは精一杯生きる努力をしたいものです。
この句には、そういう瓢水の想いが込められていたのです。
そんな深い意味があったとは!! これを知っただけでもその日一日が大変有意義な日となったと、嬉しくなりました。 どうせこうなんだから・・・ と決め付けてしまうのはマイナス思考にちがいない。 そうかもしれないけど、せっせと懸命に生きる、、、 これは忘れたくない、と思いました。 忘れたくないので、ブログにこうして書き残しておくことにしました ^^。
この句を受けとった修行僧は、 瓢水の気持を知って自分をはじ、 すぐに瓢水のところに取って返したということです。
蔵売って日当たりの良き牡丹かな 瓢水
この句などは説明を聞かなくても、物欲など持ち合わせていない 瓢水 のことが伺える句だとうなづけました。
私達を退屈させないように冗談も交えてのお坊さんのお話は、いつもとても分りやすく、この日もウンウンと頷きながら嬉しく気持のいい一日を過ごさせていただきました。
◆◆◆ .
写真は、先日(09/29)スケッチの合間に撮った
今年の 「彼岸花」 です。
ネットで調べてみるとほかに次のような句もありました。
これらの句については、 『鈴かけの径・滝野瓢水の傑作から』
を参照させていただきました。
句が詠まれた場面について簡単に説明されています。
それぞれの解釈については みな様にお任せいたします 。
蕊だけは曲げぬみちくさ彼岸花 ふじ
◆
いつもお話のはじまる前に、みなさんで阿弥陀経などを30分ぐらい唱和するのですが、 初めの頃、最後まで声を出し続けるのに疲れてしまったのには驚いた。
「こんなことでどうする!」 Puさんやコスモスさんは日頃から、三味線や民謡で気持ちよく発声して鍛えているというのに・・・・(*▽*)!。
声を出すだけなのに、結構な運動量・・・ 東北大教授の川島隆太教授によると、声に出してすらすら読むということは脳にも効果的らしい。 お前は脳の活性化のためにお経を唱えるつもりカイ!><A; まあまあまあ許してたも・・・・(^^)。
こっちおいで~ 仲良くしよう!!
もみくちゃにされて笑顔や曼珠沙華 ふじ
腹筋が鍛えられたのか慣れてきたのか、最近は最後まできっちり声が出せるようになった、 よかったよかった (^_^);ふうう。
お経の内容なんかはもちろん、 舎利弗 と出てきたときだけ 「お弟子さんの名前だ!」
と 頭に浮かぶ程度で、 横に打ってあるルビを懸命に追いかけて 遅れないようにするのが精一杯・・・・ ();あははは
それまでお坊さんの法話などほとんど聴いたことがなかったのですが、3年前から年に2、3回そういう機会に恵まれ聴かせてもらっている。 9月11・12日(日・月)にも 「秋季彼岸・永代経法要」 があり、 冒頭の句 「浜までは海女も蓑着る時雨かな 瓢水」 はその法話の中に出てきた句です。
ん? この句は前にも聞いたことがあるような・・・ と思ったのですが、その句の説明を受けて、句の持つ本当の意味を全然解していなかったことを知ることになりました。
滝 瓢水(たき ひょうすい)は江戸中期の 豪商船問屋の跡取りであったが、風流遊蕩が過ぎて一代で没落させてしまっている 俳人。 無欲・無我の奔放な生き方が評判となり、瓢水のもとを訪ねてくる人々がたくさん居た。 ある日、瓢水が風邪薬を買いに出かけて留守中に訪ねてきた旅の修行僧は、 「薬を求めるなど瓢水も命を惜しがるほどの人物であったか。」 とがっかりして帰って行った。 帰宅してそれを聞いた 瓢水 は、その僧に使いを出して一句をしたためた紙を渡させた。 |
そのときの句がこの
「浜までは海女も蓑着る時雨かな 瓢水」 だったのだそうです。
海の中にもぐってどうせ濡れてしまう海女でも、浜までは濡れないように蓑を着ます。
いつかはこの世とお別れすることになるのだけれど、それまでは精一杯生きる努力をしたいものです。
この句には、そういう瓢水の想いが込められていたのです。
そんな深い意味があったとは!! これを知っただけでもその日一日が大変有意義な日となったと、嬉しくなりました。 どうせこうなんだから・・・ と決め付けてしまうのはマイナス思考にちがいない。 そうかもしれないけど、せっせと懸命に生きる、、、 これは忘れたくない、と思いました。 忘れたくないので、ブログにこうして書き残しておくことにしました ^^。
この句を受けとった修行僧は、 瓢水の気持を知って自分をはじ、 すぐに瓢水のところに取って返したということです。
蔵売って日当たりの良き牡丹かな 瓢水
この句などは説明を聞かなくても、物欲など持ち合わせていない 瓢水 のことが伺える句だとうなづけました。
私達を退屈させないように冗談も交えてのお坊さんのお話は、いつもとても分りやすく、この日もウンウンと頷きながら嬉しく気持のいい一日を過ごさせていただきました。
写真は、先日(09/29)スケッチの合間に撮った
今年の 「彼岸花」 です。
ネットで調べてみるとほかに次のような句もありました。
手にとらでやはり野におけれんげ草 瓢水 さればとて石にふとんも着せられず 瓢水 観ずれば花も葉もなし山の芋 瓢水 本尊は釈迦か阿弥陀か紅葉かな 瓢水 さてはあの月が鳴いたか時鳥 瓢水 |
これらの句については、 『鈴かけの径・滝野瓢水の傑作から』
を参照させていただきました。
句が詠まれた場面について簡単に説明されています。
それぞれの解釈については みな様にお任せいたします 。
蕊だけは曲げぬみちくさ彼岸花 ふじ
◆
いつもお話のはじまる前に、みなさんで阿弥陀経などを30分ぐらい唱和するのですが、 初めの頃、最後まで声を出し続けるのに疲れてしまったのには驚いた。
「こんなことでどうする!」 Puさんやコスモスさんは日頃から、三味線や民謡で気持ちよく発声して鍛えているというのに・・・・(*▽*)!。
声を出すだけなのに、結構な運動量・・・ 東北大教授の川島隆太教授によると、声に出してすらすら読むということは脳にも効果的らしい。 お前は脳の活性化のためにお経を唱えるつもりカイ!><A; まあまあまあ許してたも・・・・(^^)。
もみくちゃにされて笑顔や曼珠沙華 ふじ
腹筋が鍛えられたのか慣れてきたのか、最近は最後まできっちり声が出せるようになった、 よかったよかった (^_^);ふうう。
お経の内容なんかはもちろん、 舎利弗 と出てきたときだけ 「お弟子さんの名前だ!」
と 頭に浮かぶ程度で、 横に打ってあるルビを懸命に追いかけて 遅れないようにするのが精一杯・・・・ ();あははは
「照れまん君の俳句歳時記」に出会うまでは、「俳句なんて考えて書くものではない、自然の移り変わり、季節の移ろいを感じたときに自ずと出てくる言葉を十七文字に整えればいいのだ。俳句とはそういうものだ。」と単純に信じていました。
「季語」が条件なんだから、当然季節感のあるものでないと・・・・ 「ああ、春だナァ・・・ああ秋だナァ・・・しみじみ」というものでないと・・・・ なんて心の隅で思ってほんわかした感覚だけでつくっていました。
自ずと出てくる言葉を整えて、それでいい句ができれば、ま、言う事はないですよね><;;たらたら
出来ないのです。 「それがどうした、」になるし、3、のように説明しないと「ナンのことを言ってるの?」 になります。
感じたまま見たまま自ずと出てくる五七五そのままが いい句 になるには、「照れまん君の俳句歳時記」のように季語を深く知って理解し、それが身に付いていなければならないのだとようやく分かりかけてきたところです。
私に代わって例句まであげて説明してくださって、具体的でとてもよく分かります。 ありがとうございます^^。
と言っても 感覚的にワカッタ気がしてるだけで、いざつくる時に結果が出てくるとはまだまだ思えませんが・・・・><;;
取り合わせ のいいもの、いただけないもの、付きすぎず・離れすぎず。 これから何度も振り返ってここを読んでは考えてみます。
この照れまんさんのコメントは後からここを読まれる皆さんにもぜひ読んで欲しいと思うのですが、落ち着いたら記事の方にあげさせてもらって良いですかねぇ。
瓢水さんの句、 思わぬ貴重な拾い物場面に遭遇した気分です。
言いたいこと聞きたいことはたくさんありますが・・・・またです^^。
おかげ様で今日午後、粗方編集のできたビデオをラッシュで皆さんに見せる段取りまで漕ぎ着けました。
これで半分どころです。 見守ってもらってるにちがいないと思って勇気百倍です。
コメント読ませてもらってはいたのですが、返事、遅くなってごめんなさいね。
明治の頃、高浜虚子の時代 俳句は客観写生 を主張するようになります。
見たものを見たまま書く、と言う事ですが、それは、なかなか難しいし、書いてもそれがどうした、と言うようなつまらないものにしかなりません。
そこで、主観俳句と言うのはどんなものか、知っておく必要がありますね。例えば、彼岸花が一本だけが咲いていると、
彼岸花一本だけは淋しかり
などのように、悲しい とか 強い とか 逞しい とかを書くわけです。自分の感じや思い考えなどの主観を書くわけです。これのどこが悪いのか、と思いますけど、だんだん、それがひどくなり、陳腐な句や想像で作った句が氾濫していたのでしょう。だから、こういうのを嫌って、客観写生を標榜したのでしょうね。
それから、もう一つ、俳句の書き方に Aの物とBの物を取り合わせる、方法があります。
取り合わせの俳句と言われますが、これはとても多いです。それで、喩えを書いて見ます。fujimさんになり切って・・・・。
1、 法要の帰り晴れやか彼岸花
などのように、何かと花などを取り合わせます。
最近は日記俳句が多いので、こういう自分の行動と花などを取り合わせる句は多いです。
この句の場合、取り合わせが 法要と言うお寺の行事と彼岸花 なので、付きすぎ と言われることがあります。
そこで、 2、 法要の帰り晴れやか稲の花
などのように 夏の植物に入れ替えても俳句は成り立ちます。実るほど頭を垂れる ので、法要を聞いて、もっと謙虚に生きなければと自分を戒めていることにつながり、一句になります。
植物の取り合わせは多いのですが、入れ替えができる句が多いのも確かです。だから、自分が絶対にこの花だと思って書かなければなりません。
3、 瓢水の面白き句や彼岸花
などとすると、どうでしょう。こうすると、瓢水チャンと彼岸花が離れすぎ、意味がわからん、と言う事になります。
私の中では 法要の中で瓢水チャンのことを聞いて、その帰りに彼岸花を見たのだと書いているつもりでも、その事はこの一句では解りません。だから、離れすぎ。取り合わせの句は、付きすぎず・離れすぎず と言うのが、腕の見せ所で面白い訳です。
4、瓢水の俳句飄々彼岸花
でも、言葉遊びをしているのですが、何の事か解らないですよね。この句を、
5、瓢水の俳句飄々時雨来る
とすると、これが とたんに挨拶句になります。本歌取りと言うものです。
fujimさん がこの記事の最初に書いた「浜までは海女も蓑着る時雨かな」瓢水 の句を踏まえて書いています。だから、この記事への挨拶句であり、瓢水チャンを尊敬して、時雨になりそうなので瓢水ちゃんの句を思い浮べているという 本歌取りの句になります。
まあ、そんなこんなを思いつくまま書きましたので、充分ではありませんが、何となく気持ちは解ってもらえますでしょうか。
fujimさんが 面白い記事を書いてくれましたので、色々広がり、勉強になりました。ありがとう・・・・。
と、瓢水ちゃんに言っといてください。 彼岸花は群れて咲くけれど、 とんでもないところにポツンと離れて咲いたりします。 咲いてみればそこは蜜柑畑だった・・・というのです、 すごくよく分かります ・・・^^ゞ 当然かぁ。
見たままを詠むと これ以外には詠めないような気がするのに、どうして最初からこういう風に出てこないんでしょうねぇ・・・ 面白いですね(^▽^)。
気まま とか 言わないとそういう風に見えたと言うことが分かってもらえないと思ってしまう、、そこが心得違いですね。
もう一つの 「蜜柑の枝に頭なぶられ彼岸花」 の方はですねぇ、 瓢水ちゃんには内緒ですけど「なぶられ」という言葉がどうも、気に入りません^^。
彼岸花で私が一番惹かれるのはやはり 蕊 です。 いつ見てもとても美しい! と思ってしまいます。 一本ずつがそれぞれ素晴らしい弧を描いています。
それでつい 折れぬとか曲げぬ とか 言いたくなってしまいます。 でも確かにカーブではあるんですよね。 でもどうしても真っ直ぐ曲がってると言いたくなる、あははは 真っ直ぐの解釈がどこかで違う^^。
「みちくさ」は一口余分じゃ~ と言うのは分かってはいましたが、一度捕まえるとなかなか捨てられなくて><ゞ
蕊少し曲げて真っ直ぐ彼岸花
意固地な感じがなくなって素直になりました。 「ありがとう」 と瓢水ちゃんによろしく言ってくださいませ(^^)。
この二つは ブログ記事にも加えさせてもらってもいいんですかねぇ?
佐渡裕氏は 今、時の人ですからね。
残念・残念・TV番組を見逃していましたよ。再放送があるのを楽しみにしていよう。
先週土曜日の FMクラシックリサイタルに チェンバロの中野君と言うのが出演してました。彼が、うっとこのアンサンブルのチェンバロ奏者をしてくれています。
それから、俳句ですが、瓢水ちゃんがね、彼岸花を見たまんまを詠むとこんな感じかなあといってました。
蜜柑の枝に頭なぶられ彼岸花
もう一つ、
窮屈な蜜柑畑の彼岸花
これだと、fujimさんにとっては ちっとも面白くないかも・・・・って。
「蕊だけは曲げぬみちくさ彼岸花」 で、蕊が曲がってるよって 言ってましたけど。この句、道草が言いたいんだろけど、そこをあえて・・・・。
蕊少し曲げて真っ直ぐ彼岸花
とするとどうだろう?って言ってましたよ。
人間の性格って 曲がったりすることがありますよね。でも背骨はしゃんとしていたい、生き方だけは真っ直ぐに生きたい、そんなことがこうすると彼岸花の立ち姿に思いが託せるかなあと言ってます。
ただ、少し理屈っぽくなるような気もするけど、なんて言ってましたよ。
曲げる と 真っ直ぐ が相反して面白いかもって・・・。
fujimさんも元気になられましたね。2年前は秋になると ブログ休みます というので どうなることやらと思いましたけど、去年はマイペースで。そして、今年は 旅行に行けるようになったので、随分とお元気になられて、よかったです。
ではでは、そういうことで、また・・・・。
あははは なにか俳句を入れたいと思っても出来ないものだから、思いつきでやっつけてますのでネ(><ゞ
たぶん、言いたいことを詠もうとするからできないんですね。 見たそのまま? 感じたそのまま?? そのあたりもまだ身に染み付きません。
水彩画を描いていて最近、植物図鑑をつくってる訳ではないんだから、これは見たそのままを写し取るのではなくて、感じたことを絵にするんだな、と言う風に思えてきました。
そうでないと、周りを包んでいる空気の色なんて見えないので塗れません。 nで、俳句はどうなんだろう・・・とチラッと思うわけです^^。
ところで昨日は一日、音楽で泣けて仕舞う日でした。 いつものように背中で あさいち をそれとなく聞くつもりが、なんかクラシック音楽、オーケストラの演奏が聴こえてくるではないですか。
NHKの「さど×まさしの題名のある音楽会」、見られたでしょうか? 小学3年から高3までのメンバーの素晴らしい演奏でした。 すばらしいと思いました。 ひたむきさや懸命さがびんびん伝わってきました。 何度もこみ上げてしまいました。
私なんかが音楽で泣けた なんて言うとチャンチャラ可笑しいでしょうけど、音楽ってどうしてこんなに感じてしまうんでしょうね。 何がいいって口では表現できない、これはナンなんでしょうね。
午後には何気なくラジオから流れてくるテノールにも、歌ってる意味もわからないのにじーんと来てしまった。 曲名なんて知りもしない歌、あとで「カルーソー」と紹介されていました。
しかたない、今日はもう、ああ・・芸術の秋・・・ なんだということにしておこう^^ というような昨日一日でした、 チャンチャン。
あのね、瓢水ちゃんがね、
もみくちゃにされて・・・、の句について、
自分は前書きを書いて 俳句を書いているものがあるのだけれど、ちょうどこの前書きに当たるのが 写真になっていたんだね、よく解りました、と言ってました。
青蜜柑のたわわに実った蜜柑の枝の下で、もみくちゃにされながら 健気に咲いてる彼岸花を詠んだんだねえ、と納得していました。
そういうことで、又・・・・。
いやいやそうですね、素直な瓢水ちゃんが読んでも分かるような句でないとアカン。
満員電車、、に、バーゲンセールに、、うくくくお寺の階段・・・・それならそうとチャンと書かねばねぇ、、、
勝手に解釈してくれと、委ねっぱなしでは無責任すぎる。 写真も一緒に見せないと意味が通じんようではイカン・・・・ーー;;
「じゃ、これでどう?」 と言おうと思って昨日から 考えに考えているのですが、、、、
前回の曲がった蕊もそのまま放り出してるんでここはなんとかひねり出さねば、、、ということで
窮屈もまた気ままかな曼珠沙華
離れても群れても気まま曼珠沙華
群れて咲いても離れて咲いてもミカンの木にもみくちゃにされても、何も気にせぬ自由な心 と言いたかったのですが、「気まま」が「我がまま」に取られてしまっては心外で、気になっています^^ゞ そこで
一群は離れてみたり曼珠沙華 ふじ
としてみます。
これでどうじゃ? とは言えんのぉ・・ーー だんだん悪うなったか? ということで、時間ばかり取ってもしかたないのでこれで揚げてしまおう(><;;
あのね、瓢水ちゃんがね、
「もみくちゃにされて笑顔や曼珠沙華 ふじ」さんの句について。
こっれって、満員電車に乗って降りて来て、手に持っていた彼岸花の花束が大丈夫だったので、笑顔なのかなあ?と言うのよ。
それで、違うよ~、って言ったら。
ほんなら、デパートにでも買い物に行ったら運悪く、バーゲンセールと重なっちゃって、それで、もみくちゃにされたのかなあ?それでも 彼岸花の花束は大丈夫だったので、笑顔なのかなあ?・・・、と言うので、それも違うよ~!と言っといた。
これはね、お寺の法要に行ったら、その帰り、靴を脱いでいる階段が混雑したンじゃないの??って言ったら、瓢水ちゃんが 驚いていた。
そんなら、ソウ書いてくれればいいのにって言うから、わたしも、どうかなあ??と疑問文で???と答えといた。
そんなことで、また・・・・。
収入を得る場と生活の場とが離れていて、自然にそういうことになったとしても、 家族を養ってはいる? のですよね。
ほとんど家に帰らなくても、奥さんや子供さんが幸せな顔をしてるようならそれはそれで、たけしさんの甲斐性かもしれませんね。
でも、そのために奥さんや子供さんがぐっとナニかを我慢していなければならないようなら、 たけしさんの単なる我がまま、好き勝手を通してることになりそうな・・・ うらやましい限り・・・ですか^^?
まあ、一緒に住んでいても、辛い思いをしている人は多いことでしょうから一概には言えないかもしれません。
滝野さんちの瓢水ちゃんのように、 自分の意思を貫いて、無一物になって飄々と生きるのは立派で、そんな生き方が出来れば・・・ とおもいますね。 でも、それによってほかの人が辛いことにはならなかったのだろうか、雇われていた人などはどうだったんだろうと、その部分がちょっと気になる・・・のは、それこそ凡夫だからですかねぇ(^^;;
寒くなりましたね、朝、ストーブをつけました><ゞ とりあえずは 鼻水にはならないように、、、ヒョウヒョウ。
こちらに来ています。
滝野さんちの瓢水ちゃんを読んでいて、北野さんちのたけし君を思い出してしまいました。
たけしさんは結婚をしていても、滅多に家に帰らなかったそうです。
そんなある日、珍しく家に帰ったら、ウワ~~ンと子供が泣き出した。
「うわ~~ん、知らないおじさんが入ってきた??」と・・・。
「ばかやろう!俺は父親だ!」と言うのに、子供は
「知らないおじさんだ~~!!」と怖がったと言うのです。
おかしいですよね。ドンだけ、家に帰らなかったのでしょうか?
今でもあんまり家には帰らないと言ってますけど、どこでどうやって暮らしているのでしょう。
これなんか、瓢水ちゃん そのものじゃあないでしょうか。
そんなことを、ちょっと思い出して、そんな生き方がしてみたい!とか思っている 瓢水 になれない 鼻水 でした。
どのサイトにリンクを貼るか迷って、句が多く載ってるものにしましたが、瓢水ちゃんのいろんなサイト見てもらえてよかったです^^。
お話された講師は本願寺布教師・下松の専明寺住職さんでしたが、滝野さんチのことも学校の教科書^^? に載ってることなのでしょうか・・。
こんないい人生訓の句が出来る人でも完璧ではなかった、、、厳しい目で見れば、徹底した無私無欲になることに、ある意味逃げていたのではないでしょうか。 そこが人間らしくて親しみの湧くところのような気もします。
『時雨』という季語はとても語感がよくて好きな言葉です。
・・・猿も小蓑を欲しげ・・・ マツゲの辺りにたくさん水滴をつけてる顔・眼が浮かびます。
時雨で瓢水さんのもう一つ。
京の巴人といふもの病すと聞てのぼりしに、伏見にてはや落命したりときゝて、
嘘にしていで逢ふまでの片時雨
いいやそんなことはない、嘘にチガイナイと言い聞かせながら、歩く、、時雨に濡れていることなど意識にはなくとも、しっとり身に沁みていたにちがいありません。 ほかにも出てくる句、どの句も解説が欲しい><; と思うものばかりです。
え~~!? 滝野さんちの 瓢水ちゃん、「道草じゃなくて畦道の方が素直じゃ」と言うのならまだしも、「彼岸花の蕊は曲がってる」? って、そんなことを言ってるんですか?
あれが曲がって見えるなんて!! 私には真っ直ぐ、鋼のようなカーブにしか見えませんが・・・!^o^!
そんなら潔く 潔き にしようか・・・^^ 「道草やシベ潔き彼岸花」ウーーン「彼岸花しべ潔き畦の道」「畦道の潔き・・・ ・・・
へてからへてから、なんとときわ公園で私と友人二人のために、ウラギンちゃん・・じゃない、アサギマダラちゃんが姿を見せてくれたんですよ!! ほかには誰一人居ないので二人で撮りまくりました。
写真、アップしますね、、、でも今日は病院の日><。。
ちえー、~~~ピシー!ピシー! ってのは褒めてくれてるの? うれしいなぁ^^。
なんのなんのマクロはマクロ、望遠マクロじゃ到底勝てまへん。 でもいいんです、ワチキはD70のよさを引き出さなくっちゃ・・・ ってことでついにD70は病院に連れてった。 この彼岸花の途中でまたもシャッター落ちなくなって、にっちもさっちも行かなくなった。 どうもカード系統の病気らしい。
撮ってきた数少ない彼岸花の、蕊の一番きれいに光って撮れてるのはどれだ? と思って見ていきながら、一眼レフを初めて手にしたときのことが蘇ってきたよ。 あの頃は、窓から見える山桜の木肌を見つめながら、菖蒲苑ではずかしはずかし三脚を広げながら、光を見、風に触り、指を震わせてシャッターを切り、一枚撮っては深呼吸をして高揚感にウチ震えていた。
「この一枚で、あの風のにおいがわかるでしょうか!」と誰かに見て欲しかった。
ところが今はなに! ・・・・ せいぜいカメラータお化けが出てこないようにしなくっちゃ(^△^);
三味線では唄えるのに、カラオケでは声が出なかった・・・ そうよね、発声法が違うのよね。 私も歌は全然歌えないのに、民謡に付いて歌ってみると声が出たような気がしたりするのよね。 音の高さの問題ではなくて発声法にちがいない^^。
墓参、心置きなく出来てよかったね。
もうたとえPuさんがおばばちゃんやご先祖様のことを忘れたとしても、おばばちゃんたちの方は決して忘れずにPuさんを守ってくれるから、大安心してていいよ(^^)v
今日も忙しかった。 午前はクロッキーの人物画、午後はなんとアサギマダラをゲットしたのよ。 この話は照れまんさんにしなくちゃね^^。
いやいや、いい人を紹介してもらいました。
滝野さんちの 瓢水ちゃん!
色々なサイトを見てみました。fujimさんのリンクしたくれたサイトも出てきました。
う~~ん、面白い☆☆ 実に面白い。
こんな、いい句 人生訓の句が出来るのに、何で家を潰っしゃうんでしょうねえ?
ところで、「時雨」は「冬」の季語。
ほんで、時雨と蓑 が出てくる俳句がありますので一句紹介。
「 初時雨猿も小蓑を欲しげなり 芭蕉 」
芭蕉さんは時雨を沢山詠んでいて、中でも有名なのは
「旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉 」
と言うのもあるよ。
瓢水ちゃん は 芭蕉さんの 孫弟子くらいの年代なんだね。
しぐれ と言えば 忘れてはいけないのが、
「うしろすがたのしぐれてゆくか 山頭火 」
ヘテカラ、fujimさん の俳句なんだけど
「蕊だけは曲げぬみちくさ彼岸花 ふじ 」
この句はとってもよく解ります。野辺に咲いている、道の草 と 人生の道草を掛けている。道草をしても信念だけは 真っ直ぐに、志しは貫き通します、と言う句でしょうか。とってもよく解ります。解ります、が・・・。
お言葉ですが、お言葉ですが、ムニャムニャ・・・。
(おそるおそる)
瓢水ちゃんが、 彼岸花の蕊 って、少し曲がっていません??? と言っています??
茎は真っ直ぐ な気がするんだけど・・・って???
これはあくまで 瓢水ちゃんが言ってますので・・・。
海女と尼電車を降りる尼崎 照れまん
瓢水ちゃん、御免なさい! 詰まらん駄洒落しか 思い付かんかった~~~!
とまあ私は単純ですから^^ 辿り着いてしまいました。 ふふ~ん海の中は暖かかったですよねぇ、知ってますよ~~。 寒い日なんか、海から上がるのに勇気がいりましたよネ。
「俳句なのでしょうか?」 またまた難しい質問を・・・・ 「五七五で季語さえ入ってれば俳句って言えるんか!?」なんていうんではないでしょうね^^。 そういう難しいことは分りませんが、蓑虫も時雨も季語にあります。 蓑はfujim君の歳時記には載っていません。
「俳句なのか?」 と異論を唱える人はおいでかもしれませんね。 「さればとて石にふとんも着せられず」などは特にそうでしょう。 でも私は、いい " 句 " に出会えた と感動しています。
最初の彼岸花は鮮やかな赤に見えますか、、、私もそう見えます。 真ん中あたりの横長はちょっと薄く見えて、最後が一番普通かなと言う感じに見えます。
でも違うPCではまた違って見えるし、PC画面の傾きによっても違って見えて、イッタイどの位がいいのかさっぱり分りません。
彼岸花、色の補正はしていませんが、 撮る時に、露出補正マイナス0.3 で撮っていて、PCで少しずつ 明るさ を補正しています。
彼岸花はもう終わりでしょうね。 1シーズンで二度も三度もは撮れませんね。 ぶち当たった時に、気合いを入れて撮っとかんとねぇ~~。
こうべ垂れ 豊穣の畔 彼岸花 ・J ・pu
稲穂の横の彼岸花がいいね。
唱和するとハイ・エクスタシーになるのはα波がでるからで根拠があるらしいよ。主人の方の曹洞宗ではお寺さんで葬式、供養の時は経本を渡されて全員がお坊さんと唱和する。私の田舎では同じ曹洞宗でもしない。流派に依るんだね。
三味線では唄えるのに、ホテルでカラオケした時はまるで声が出なかった。発声法が違うみたいで民謡のようにお腹から声を出してない。あまりにひどい音痴だから反って盛り上がるんだね。 違う一面を見たと冷やかされちゃった。
墓参は楽しかったよ。本家のお嫁さんと一杯話したら、知らなかったご先祖さままで繋がって行って、もう何も思い残すことはない。
一瞬ここは照れまん君のとこかと思いましたが、fujim君の俳句歳時記でしたね^^。
この句の情景はと自分なりに考えましたが・・
海女さんは海に入ればどうせ濡れるのに、浜を歩く間は濡れないように蓑を着る・・
うん、これは記事中のfuさんの解説と合ってますよー^^。
ですが、そのあとの深いーい話には辿りつきませんよ。
精一杯生きる努力をしている・・なるほど、雨に打たれるのは海の中より冷たいですからね。体をいたわってる訳ですよね??
子供の頃、海で泳いでいて浜で雨に降られると慌てて海の中に入ったものです^^。
・・どうでしょうか^^こんな解釈でいいの~??
それでこの句は俳句なのでしょうか?ですよね・・季語は蓑か時雨ですかね~??
最初の二枚並びの彼岸花はドキッとするほど鮮やかな赤ですね!
これは補正とかはされてるんでしょうか?
今日は車で走っても彼岸花が目に入らなかったですけど、もう終わりですかね。
またこの赤い花を見られるのは・・一年先なんですね~。。
その積み重ねは、きっと効果はあります! 絶対ボケません!! 二階の上り下りもいいのですよね、その効果もありますよ(^^)。
桔梗の色はうすい紫色でとてもきれいですよね!! 他所の御宅だったので撮らなかったのですが、同じ色合いを出すのは難しいでしょうね。 ムスカリを撮った時に、紫系、青系の系統から全然違っていて、どう弄ってみてもそのとおりには撮れませんでした。
彼岸花、本当は景色として撮りたかったのですが、電信柱がど真ん中にあったりスケッチに行った仲間が座ってたりで、カメラ向けられませんでした。 私たちと話し終わって立ち去る農家さんをやっと一枚です。
「声をだすことは脳が活性化されて、元気になれるんですよ」と老人ホームを慰問したときによく言うのですが、いつも声だしてる私はいっこうに活性化されないみたいで、2階に上がったのに何を取りに来たのか忘れて、上がったり下りたり。足の活性化にはなりそうだけど。
彼岸花の色があざやかでほんとにきれいですね。
先日訪れたお寺に、15センチ程の背丈なのに、いっぱい花を付けた桔梗が、とってもきれいな紫色だったので写真に撮ったのですが、青い色に写っていてがっかりしました。
一番上の彼岸花と稲穂の写真、好きです。
前に一度、目にするか、耳にしたことがあったと思って、とっさに照れまんさんのブログ内を検索してしまいましたよ!!
照れまんさんに聞いたんだったか? と思ったのです。
まるで瓢水さんと照れまんさんがごっちゃになって、似ていたのではないかと思ってしまった(^^)アハハハ
どこが~!! って身上つぶした?? そんなことはないねぇ、、、おかしいなぁ、どうしてそんな気がしたんだろ~~。
家業の方はダメだったと言うよりは、私欲、物欲などまるで意に介していなかったんですね。
それも奇人変人と言われるほど徹底していたんだとなると、大したものだ感銘を覚えます。 並みの人間で出来ることではありません。
声を出すのは脳の活性化になるので、健康にもいいと言われていますね。 ウチには「脳を鍛える大人の音読ドリル」と言う本があるんですよ。 私のために子供が買ってきてくれています^^。
ときどきブログも目で読むだけでなく、声を出して読んだりしています。
そうですね、カラオケもいいかもしれませんね。
瓢水さん の句 面白いね~~!
これはいい人を教えてもらったと ただ今、勉強中☆
ありがとう fujimさん!!
滝 瓢水(ひょうすい)って読むんですね。この世界には疎いので読めなくて検索してやっとわかりました。
俳人としては有名な方のようですが、家業の方は駄目だったようですね。日々を一生懸命生きていたのなら家業を潰すような事もなかったのではと思えるのですが、一生懸命の方向がチョット違っていたんでしょうかね?
お経を唱えるなど良いうと言う経験は全くないですが、無心に唱えれば気分爽快に成る様な気はします。
人が声を出すって事は脳の活性化と健康にも良いってテレビで言ってました。声を出して笑うのも良いそうですから、人が発声するって言うのは大切な事のようですね。久しく言ってないカラオケにでも行って大声出して来ようかな(笑)
そちらの彼岸花綺麗な紅色してますね。私が見れた物は何故だかくすんだ色していたのが多かったですよ。