他人の目が気になり、自分として生きられない。
主体性を持ち、やりたい事が出来ない。
ましてやりたい事さえ見つけることができない。
そして他人、すなわち家族や親族、お客の思惑を先に考え、振り回されてしまう。
つまり、「他人の中の自分」を作ることが一生懸命で、自分を無くしている。
たとえば、夫とはこうゆうものだ。妻とはこうゆうものだ。
成人になったら社会人として稼がなければいけない。など、など。
何故それが起こるのでしょうか。
「現実は自分が創造している」
という概念を選択しても、
やはり環境に投げ込まれている自分がいて、
環境に左右される自分がいます。
自分では変えようと思っているのに、その方向へいかない。
何故でしょうか。
それは「現実は自分が創造している」の身体的根拠が薄いからです。
つまり、頭で選択しようとしていても腹に落ちていないので、
納得していません。
つまり精神性で越えようとしているからです。
瞑想のような個人の技術によりかかっているからです。
そしてそこに自分はまだ目覚められない、
といった意識が邪魔をします。
なぜなら身体的に変化がないからです。
そこで、理論的思考での意識変換というアプローチがあります。
だれでもその考え方をとれば意識変換ができる状態です。
天動説が地動説に意識変化したように。
(誰も地球が太陽の周りを回っているのを確認していないが、
それは学説により証明され、知識として常識になった意識)
それが、知識による意識変換です。
「現実は自分で想像している」の体得は、上次元からの観察が必要であり
その上次元の視座からの新しい観念の構築です。
そして、その意識変革は今までの歴史で経験したことのない、
パラダイムシフトを起こします。
天動説が地動説にパラダイムシフトした以上の衝撃と次元上昇を起こします。
その新しい観念構築の一つの提案がヌーソロジーです。
上次元の意識獲得。
学んでいくととても面白いと思います。
ありがとうございました。
藤本久
主体性を持ち、やりたい事が出来ない。
ましてやりたい事さえ見つけることができない。
そして他人、すなわち家族や親族、お客の思惑を先に考え、振り回されてしまう。
つまり、「他人の中の自分」を作ることが一生懸命で、自分を無くしている。
たとえば、夫とはこうゆうものだ。妻とはこうゆうものだ。
成人になったら社会人として稼がなければいけない。など、など。
何故それが起こるのでしょうか。
「現実は自分が創造している」
という概念を選択しても、
やはり環境に投げ込まれている自分がいて、
環境に左右される自分がいます。
自分では変えようと思っているのに、その方向へいかない。
何故でしょうか。
それは「現実は自分が創造している」の身体的根拠が薄いからです。
つまり、頭で選択しようとしていても腹に落ちていないので、
納得していません。
つまり精神性で越えようとしているからです。
瞑想のような個人の技術によりかかっているからです。
そしてそこに自分はまだ目覚められない、
といった意識が邪魔をします。
なぜなら身体的に変化がないからです。
そこで、理論的思考での意識変換というアプローチがあります。
だれでもその考え方をとれば意識変換ができる状態です。
天動説が地動説に意識変化したように。
(誰も地球が太陽の周りを回っているのを確認していないが、
それは学説により証明され、知識として常識になった意識)
それが、知識による意識変換です。
「現実は自分で想像している」の体得は、上次元からの観察が必要であり
その上次元の視座からの新しい観念の構築です。
そして、その意識変革は今までの歴史で経験したことのない、
パラダイムシフトを起こします。
天動説が地動説にパラダイムシフトした以上の衝撃と次元上昇を起こします。
その新しい観念構築の一つの提案がヌーソロジーです。
上次元の意識獲得。
学んでいくととても面白いと思います。
ありがとうございました。
藤本久