物理的三次元(現実と思われている世界)に放り込まれている自分と
そのまわり、環境との関係を熟考すると見えてくるものがあります。
たとえば、手近なモノを見るとします。
愛用のボールペンを持ち上げて見ます。
自分の目に映る正面の風景はテレビ画面のように二次元ではないですか。
ボールペンと背景は平面に張り付いた一枚の写真と変わりません。
またそこには、ボールペンの手前に自分がいるのは見えません。
では、なぜボールペンの前に自分がいてボールペンを眺めていると
認識できるのでしょうか。
それは、他者目線で見ているからです。
自分とボールペンの関係を横にいる第三者が見ていると思っているからです。
つまり、頭の中で位置関係を想像して認識しているのです。
想像の世界、つまり幻想です。
実際にはボールペンの前に自分がいることは見えていません。
確認できないのです。
目の前に映っているのは、奥行きのない自分のいない平面の画像のみです。
いわゆる知覚正面です。
そして、その反対側に自分のいる幻想の世界が無限に広がっています。
見えていない後ろ側が存在していると思っている風景です。
知覚正面以外の全てです。自分では見ることのできない他者目線の世界です。
それが時間と空間の世界、みんなが現実と呼んでいる世界です。
これが、現実は幻想であるという論拠の一つです。
自分の想像の世界、他者目線でこうであると頭の中で組み立てた世界を
認識し、経験しているのです。
それが、現実創造と呼ばれているものです。
そこから脱出して次元上昇する一つの方法は、
知覚正面側にある『人間の外面』と
自分のいる幻想の世界である『人間の内面』
の『等化』による『位置の交換』です。
人間の外面とは、知覚正面である見ている平面に、
すべての情報、すべての時間、すべての空間が
薄さ10の-33乗Cmの中に集約されているということです。
人間の内面とは、経験していると思っている現実の時空間すべて。
つまり幻想のすべて。
この二つを統合し、新しい意識を発見し、認識することが覚醒です。
環境の中に『わたし』がいるのではなく、『わたし』が環境をつくり
そして環境そのものが『わたし』であることの、圧倒的な体感です。
ある一つの空間認識の考え方です。
おもしろいですね。
ありがとうございました。
藤本久
そのまわり、環境との関係を熟考すると見えてくるものがあります。
たとえば、手近なモノを見るとします。
愛用のボールペンを持ち上げて見ます。
自分の目に映る正面の風景はテレビ画面のように二次元ではないですか。
ボールペンと背景は平面に張り付いた一枚の写真と変わりません。
またそこには、ボールペンの手前に自分がいるのは見えません。
では、なぜボールペンの前に自分がいてボールペンを眺めていると
認識できるのでしょうか。
それは、他者目線で見ているからです。
自分とボールペンの関係を横にいる第三者が見ていると思っているからです。
つまり、頭の中で位置関係を想像して認識しているのです。
想像の世界、つまり幻想です。
実際にはボールペンの前に自分がいることは見えていません。
確認できないのです。
目の前に映っているのは、奥行きのない自分のいない平面の画像のみです。
いわゆる知覚正面です。
そして、その反対側に自分のいる幻想の世界が無限に広がっています。
見えていない後ろ側が存在していると思っている風景です。
知覚正面以外の全てです。自分では見ることのできない他者目線の世界です。
それが時間と空間の世界、みんなが現実と呼んでいる世界です。
これが、現実は幻想であるという論拠の一つです。
自分の想像の世界、他者目線でこうであると頭の中で組み立てた世界を
認識し、経験しているのです。
それが、現実創造と呼ばれているものです。
そこから脱出して次元上昇する一つの方法は、
知覚正面側にある『人間の外面』と
自分のいる幻想の世界である『人間の内面』
の『等化』による『位置の交換』です。
人間の外面とは、知覚正面である見ている平面に、
すべての情報、すべての時間、すべての空間が
薄さ10の-33乗Cmの中に集約されているということです。
人間の内面とは、経験していると思っている現実の時空間すべて。
つまり幻想のすべて。
この二つを統合し、新しい意識を発見し、認識することが覚醒です。
環境の中に『わたし』がいるのではなく、『わたし』が環境をつくり
そして環境そのものが『わたし』であることの、圧倒的な体感です。
ある一つの空間認識の考え方です。
おもしろいですね。
ありがとうございました。
藤本久
コメントありがとうございます。
なるべく多くアップしていきたいと思っております。