野球小僧

金田正一 / 元;国鉄スワローズ・読売ジャイアンツ

国鉄スワローズ(現;東京ヤクルトスワローズ)、読売ジャイアンツのエースとして通算400勝を挙げ、1974年にはロッテオリオンズの監督として日本一に輝いた金田正一さんが10月6日に亡くなりました。

私の記憶の中では選手時代のユニフォーム姿はありませんが、ロッテオリオンズ監督時代のユニフォーム姿と暴れっぷりはよく覚えています。

■「子どもの頃は石投げの名人。水切りだけやない。飛んでいるツバメを落としたこともある。戦争が終わると名古屋に引っ越したが、食べるものがない。母親の喜ぶ顔が見たくて現在の小牧市まで片道10km以上、自転車でリヤカーを引いて買い出しに行った。それで脚力がついたんや。すべてが野球につながった」

1950年に愛知・享栄商高(現;享栄高)を中退して17歳でスワローズに入団。長身から投げ下ろす速球と大きなカーブを武器に、1年目に8勝、2年目からは14年連続で20勝以上を挙げました。

■「とにかく国鉄は弱かった。チームメートが『三振を取らないと勝てませんよ』と教えてくれたようなもの。グラウンドは今と違ってデコボコ。走者を出すと解説者は『低めに投げてゲッツー』と言うが、打たせて取るなんてやっていたら1勝もしていません!」

1951年の大阪タイガース(現;阪神タイガース)戦でノーヒットノーラン、1957年の中日ドラゴンズ戦で完全試合を達成。
1958年の開幕戦ではジャイアンツに入団したルーキー長嶋茂雄さんのデビュー戦で4打席連続三振の洗礼を浴びせました。

■「1958年の開幕戦(長嶋のデビュー戦)は最高のコンディションで迎えることができた。真っすぐは試合前のブルペンで捕手がまともに捕れないほど走っていた。備えあれば憂いなし。備えずにきたのが長嶋だ。オープン戦で打ちまくっていたからな。やつの哲学は『ピッチャーの球はベースの上を通ってくる』だろ。研究なんかしているはずがない。自信満々で打席に入ってきたよ。初球の直球は忘れられん。捕手の谷田比呂美さんと頭の近くに投げようかなんて話もしたが、もし当たったら死んでしまう(笑)。あの真っすぐを見たら、どんなバッターでもびっくりする。翌日もリリーフして(長嶋は)空振り三振。5打席連続三振なんだぞ」

「最高のコンディションで仕事に臨む」という、私の人生には存在しない哲学と礼儀で徹底して身体の手入れを行い、夏は冷房はもちろん、扇風機さえ使用せず、肩やヒジを直射日光にさえ当てなかったそうです。自分の子どもでさえも左腕で抱くことはなかく、息子の金田賢一さんは「父の左腕を引っ張ったら、母親に怒られた」と言います。

また、お金も惜しまず、飲料水はプロ入り間もない頃からミネラルウオーター、布団と枕は最高級品、アンダーシャツは特注のカシミヤ製、自家用車は事故のことを考えて当時は丈夫だった外国製だったそうです。

■「最高のコンディションで仕事に臨む、という哲学を持っている。中3日で先発し、その間もリリーフや代打という超がつく酷使に耐えるんやない。対応できるようにするんや。それが仕事に対する礼儀でもある。だから、自分の体を守ることにはお金を惜しまなかった。体は自分が壊すから壊れる。そりゃ若い頃は不摂生もしたよ。人間だからな。大事なのは自分の体を管理する意識を持つこと。金田野球とは自己管理だ。今の選手は給料が高いから、いくらでも自分の体にお金をかけられるはずだがな」

当時、まだ弱小球団だったスワローズで過ごしながら球界最高のピッチャーとして、強烈な存在感で「天皇」とまで呼ばれていました。1965年にジャイアンツへ移籍。厳しい練習で自らを追い込む姿はナインの模範となり、この年からの9連覇に貢献しました。

■「長嶋茂雄と王貞治をバックに野球をやってみたかった。もし2人がいなかったら(移籍先は地元の)中日や。そうなるとプロ野球の歴史は変わっていたな。もっと早くに大観衆と長嶋、王をバックに投げていたら、どれだけ勝ったかな」

1969年に前人未到の400勝に到達して引退。背番号34はジャイアンツの永久欠番となっています。ちなみに、400勝以上はMLBを含めて、金田さんを入れても3人だけの記録です。

■「400勝は通過点だと思っていた。まだ36歳だぞ。リーグ5連覇を決めた翌日、中日戦の前。川上哲治監督が選手に『金田に400勝させて送り出そう』と話したというんだ。給料は高いし、うるさかったしなあ(笑)。自分は3-1の5回から登板して7-2で勝った。リリーフもよくやったから、人の勝ち星をもぎ取って400勝したと言うやつもいるが、冗談じゃない。もぎ取って勝てるものじゃないぞ。ちゃんと抑えなきゃいけないんだから」

また、通算4490奪三振、298敗など、数多くのプロ野球記録も持っています。バッティングにも優れ、通算ホームラン38本、177打点を挙げています。

1973年にオリオンズの監督に就任すると、自ら三塁コーチスボックスに立ち、「カネやんダンス」などの派手なパフォーマンスで、パ・リーグの観客動員に貢献。1974年には日本一にも輝いています。判定に不服があると審判を蹴飛ばすという、有名なシーンもありました。

■「ロッテ監督時代、パ・リーグの繁栄のため、いろんなことをやった。太平洋との“遺恨試合”もそうだ。営業が利用させてほしいと頼んできたから協力した。退場は監督時代に6度か。選手が腹を立てているのに、監督が知らん顔をするわけにはいかん。抗議するときは、審判に小声で『すぐに帰るから、ちょっと辛抱してくれ』と声を掛けてから、『ばか野郎!!』と怒鳴った。ベテランの審判は分かってくれたが、若手の中にはその『ばか野郎!!』で退場にするやつがいたから参った(笑)」

実弟の金田高義さん、金田星雄さん(ともに元;国鉄スワローズ)、金田留広さん(東映フライヤーズなど)も元プロ野球選手で、おいに金石昭人さん(元;広島東洋カープなど)の野球ファミリーでもありました。

1978年に日本プロ野球名球会を設立し、2009年まで初代会長、代表幹事も務めていました。

■「記録にこだわれ。いくらテレビに出て有名になっても、死んでしまったら比べられるのは記録だけだ。これは永久に残る。自分は野球しか能がなくて、その野球でお金を稼いだ。だから野球はわが宝だ。せっかく野球の道に入ったのなら、徹底的に自己管理をして宝を大切にしなさい」

なお、金田さんが亡くなったのは34の背番号と同じ、午前3時40分でした。
ご冥福をお祈り申し上げます。


コメント一覧

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eco坊主さん、こんばんは。

謎の現象ってやつでしょうか。

単純計算で20勝を20年続けて400勝。今では200勝すら難しいのですから、いかに大記録なのか。298敗の最多敗戦記録も凄いのですけど。

金田さんは監督時代しか覚えていませんが、人気のなかった時代のパ・リーグを盛り上げ、球界を盛り上げていたと思います。

天国の野球界がまた賑やかになっていきましたね。
eco坊主
おはようございます。

昨日コメったはずなんですけど・・・・不適切表現なく(笑)
私は晩年の金田投手は観ていますが当時400勝がどれだけ凄いか思うこともなく幼稚な野球を観ていた幼き子供でした(笑)

金田さんは不世出の投手であることは間違いなしでしょうね。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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