北海道渡島総合振興局管内にある松前町(まつまえちょう)。かつては松前藩の松前城の城下町であり、藩の政治、経済、文化の中心地として栄え、「北の小京都」とも称されています。現在は全国屈指の桜の名所であり、日本さくら名所100選に選定されている松前城周辺の松前公園では、2ヶ月に渡って松前早咲き(まつまえはやざき)や紅豊(べにゆたか)など松前町発祥の貴重な松前系品種を含む約250種、約1万本の桜が咲き誇るそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/b2/dfc6798ed6f725fa5cf8b2c24379e710.jpg)
(2023年4月11日のニュースです)
浅利さんは元;小学校教諭で1940年代後半から八重桜の解明や苗木の育成に取り組んできました。小学校勤務時代の1957年に当時の町長が「町教育植物園」という構想で桜の園づくりを依頼されました。当時、松前神社の左右には八重桜や山桜を中心に約300本しかなかったそうです。
そこで、沖縄県の「緋寒(ひかん)桜」から北海道や本州中部地方の標高の高い山岳地帯に自生する「千島桜(ちしまざくら)」まで植栽し、仲間とともに品種の特性や生態を解明しながら品種改良し、現在の松前公園をつくり上げました。
そうは言ってももともと約300本の桜があるというのも壮観な風景だと思います。
松前の桜の特長は八重咲きが多いこと。ただ、松前での桜の起源はよくわかっていないらしく、江戸時代に野生の大山桜(おおやまざくら)やお寺の境内に植えられた「寺桜(てらざくら)」が中心だったと考えられているそうです。光善寺(1575年建立)というお寺には、1800年中ごろに造園された庭園があり、そこには北海道の代表的な桜の名木「血脈桜(けちみゃくざくら)」がいまも美しい花を咲かせているそうです。
その血脈桜についての伝説です。
1750年代、信心深い鍛冶職人が18歳になる女性とともに上方見物の出かけ、京都、奈良を経て、春らんまんの奈良吉野山を訪ね、見事な桜に魅せられてしばらく滞在することにしました。帰郷するとき、女性は親しくなった尼僧から贈られた桜の小枝を持ち帰り、光善寺の本堂前に植え、その桜は見事に成長し、すばらしい花を咲かせるようになりました。そして、女性は美しく咲き乱れる桜を見ながら世を去っていきました。
そのころ、本堂を改修することになり、大きく成長した桜を切ることになりました。前夜、桜模様の着物を着た女性が住職の枕元に立ち、「死があすに迫る身、仏さまのご加護(かご)が得られますよう血脈(極楽浄土に行く証文)を与えてください」とお願いします。そこで住職は本堂に導いて読経し、血脈を授けました。
翌日、その桜の前に行ってみると、昨夜女性に与えた血脈が枝に下がっていました。住職は檀家と相談してこの桜を切るのをやめ、盛大に供養したということです。
さてさて、浅利さんについてです。
浅利さんが生まれた家には大きな庭があり、北海道には珍しい木がたくさんあったそうです。桜の木は「関山(かんざん)」「泰山府君(たいざんふくん)」「大山桜」などの八重桜ばかりが植えてあり、「染井吉野(そめいよしの)」は函館に出て初めて知ったというほどでした。
やがて、浅利さんは旧制函館師範学校に進み、芥川賞作家・寒川光太郎さんのお父さんで樺太博物館長を退職した菅原繁蔵さんが講師として植物分類学を教えていました。菅原さんは桜の研究もしており、浅利さんが卒業して松前の小学校に赴任が決まったとき、「桜の研究を一生懸命やりなさい」と貴重な桜研究の文献と標本を寄贈したそうです。
浅利さんは、「これを私に託されたからには、いい加減なことはできない」と思い、最初に松前の桜を徹底的に調べます。すると、50種類以上あるといわれていた松前の桜は実際には約20種しかないことがわかります。また、1955年ころTVで「松前の花咲じいさん」ということで、当時80歳を超えていた方のことを報道しました。その放送を見ていた国立遺伝学研究所の竹中要博士が浅利さんへ連絡し、、浅利さんの調査研究を話したところ、「これからは育種の時代だ。八重桜の育種はむずかしいが、まだだれもやっていないから一生懸命やるといい」と松前にはない珍しい種類の木をたくさん渡したそうです。それをきっかけに浅利さんの育種研究が始まりました。
そして、浅利さんは松前の小学校で高学年の児童と「松前町桜保存児童会」を作り、桜の種集め、実生、育種、そして交配という実験を続けていき、現在の桜見本園は当初「教育植物園」として、浅利さんと子どもたちの活動によって育てられたそうです。
そして、もう1人「松前の花咲じいさん」こと鎌倉兼助さん。
松前城は1875年に取り壊された以降は空き地になっていたため、明治時代にお金を出し合って近代的な公園を造成することになり、約1千本の染井吉野が植えられました。
そのころ、松前の港で盛んだったニシン漁業が衰退し、海上輸送も函館や小樽に移っていくと暮らしは貧しくなり、町は元気がなくなっていきました。そんなとき町役場の職員だった鎌倉さんが函館公園では盛大な花見が行われているのを見て、「松前でももっと桜を増やし、花見ができるようになれば町の人の心も和むのではないか」と思い、光善寺の血脈桜から枝をもらって接ぎ木の増植を始めました。そのあとも鎌倉さんは大正時代末から昭和10年代ごろまで続けられました。
活動は戦争で長い間中断したものの、1950年ころから鎌倉さんは桜の植栽を再開しそうです。こうした「花守り」の方々の熱意と努力によって、北海道を代表する花どころとして育てられているそうです。
明日から八重桜を紹介していく予定ですが、そのなかに浅利さんのお名前がでてきます。
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
皆さまにとって、今日という日が昨日よりも特別ないい日でありますようにお祈りいたしております。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。
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(2023年4月11日のニュースです)
浅利さんは元;小学校教諭で1940年代後半から八重桜の解明や苗木の育成に取り組んできました。小学校勤務時代の1957年に当時の町長が「町教育植物園」という構想で桜の園づくりを依頼されました。当時、松前神社の左右には八重桜や山桜を中心に約300本しかなかったそうです。
そこで、沖縄県の「緋寒(ひかん)桜」から北海道や本州中部地方の標高の高い山岳地帯に自生する「千島桜(ちしまざくら)」まで植栽し、仲間とともに品種の特性や生態を解明しながら品種改良し、現在の松前公園をつくり上げました。
そうは言ってももともと約300本の桜があるというのも壮観な風景だと思います。
松前の桜の特長は八重咲きが多いこと。ただ、松前での桜の起源はよくわかっていないらしく、江戸時代に野生の大山桜(おおやまざくら)やお寺の境内に植えられた「寺桜(てらざくら)」が中心だったと考えられているそうです。光善寺(1575年建立)というお寺には、1800年中ごろに造園された庭園があり、そこには北海道の代表的な桜の名木「血脈桜(けちみゃくざくら)」がいまも美しい花を咲かせているそうです。
その血脈桜についての伝説です。
1750年代、信心深い鍛冶職人が18歳になる女性とともに上方見物の出かけ、京都、奈良を経て、春らんまんの奈良吉野山を訪ね、見事な桜に魅せられてしばらく滞在することにしました。帰郷するとき、女性は親しくなった尼僧から贈られた桜の小枝を持ち帰り、光善寺の本堂前に植え、その桜は見事に成長し、すばらしい花を咲かせるようになりました。そして、女性は美しく咲き乱れる桜を見ながら世を去っていきました。
そのころ、本堂を改修することになり、大きく成長した桜を切ることになりました。前夜、桜模様の着物を着た女性が住職の枕元に立ち、「死があすに迫る身、仏さまのご加護(かご)が得られますよう血脈(極楽浄土に行く証文)を与えてください」とお願いします。そこで住職は本堂に導いて読経し、血脈を授けました。
翌日、その桜の前に行ってみると、昨夜女性に与えた血脈が枝に下がっていました。住職は檀家と相談してこの桜を切るのをやめ、盛大に供養したということです。
さてさて、浅利さんについてです。
浅利さんが生まれた家には大きな庭があり、北海道には珍しい木がたくさんあったそうです。桜の木は「関山(かんざん)」「泰山府君(たいざんふくん)」「大山桜」などの八重桜ばかりが植えてあり、「染井吉野(そめいよしの)」は函館に出て初めて知ったというほどでした。
やがて、浅利さんは旧制函館師範学校に進み、芥川賞作家・寒川光太郎さんのお父さんで樺太博物館長を退職した菅原繁蔵さんが講師として植物分類学を教えていました。菅原さんは桜の研究もしており、浅利さんが卒業して松前の小学校に赴任が決まったとき、「桜の研究を一生懸命やりなさい」と貴重な桜研究の文献と標本を寄贈したそうです。
浅利さんは、「これを私に託されたからには、いい加減なことはできない」と思い、最初に松前の桜を徹底的に調べます。すると、50種類以上あるといわれていた松前の桜は実際には約20種しかないことがわかります。また、1955年ころTVで「松前の花咲じいさん」ということで、当時80歳を超えていた方のことを報道しました。その放送を見ていた国立遺伝学研究所の竹中要博士が浅利さんへ連絡し、、浅利さんの調査研究を話したところ、「これからは育種の時代だ。八重桜の育種はむずかしいが、まだだれもやっていないから一生懸命やるといい」と松前にはない珍しい種類の木をたくさん渡したそうです。それをきっかけに浅利さんの育種研究が始まりました。
そして、浅利さんは松前の小学校で高学年の児童と「松前町桜保存児童会」を作り、桜の種集め、実生、育種、そして交配という実験を続けていき、現在の桜見本園は当初「教育植物園」として、浅利さんと子どもたちの活動によって育てられたそうです。
そして、もう1人「松前の花咲じいさん」こと鎌倉兼助さん。
松前城は1875年に取り壊された以降は空き地になっていたため、明治時代にお金を出し合って近代的な公園を造成することになり、約1千本の染井吉野が植えられました。
そのころ、松前の港で盛んだったニシン漁業が衰退し、海上輸送も函館や小樽に移っていくと暮らしは貧しくなり、町は元気がなくなっていきました。そんなとき町役場の職員だった鎌倉さんが函館公園では盛大な花見が行われているのを見て、「松前でももっと桜を増やし、花見ができるようになれば町の人の心も和むのではないか」と思い、光善寺の血脈桜から枝をもらって接ぎ木の増植を始めました。そのあとも鎌倉さんは大正時代末から昭和10年代ごろまで続けられました。
活動は戦争で長い間中断したものの、1950年ころから鎌倉さんは桜の植栽を再開しそうです。こうした「花守り」の方々の熱意と努力によって、北海道を代表する花どころとして育てられているそうです。
明日から八重桜を紹介していく予定ですが、そのなかに浅利さんのお名前がでてきます。
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
皆さまにとって、今日という日が昨日よりも特別ないい日でありますようにお祈りいたしております。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。