「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。
幕末維新動乱犠牲者福島大柴燈護のご供養を重要なテーマとしていた先年の会津若松での護摩供が無事行満した後に書こうかと思いながら、護摩供とも阿含宗とも関係が薄いのと、正直言って面倒臭いのとで書かなかったことが幾つかあります。先日の「新政府が会津藩を斗南に転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」という話はウソという主旨の記事や「松平容保は謂れ無き朝敵の汚名を着せられた」という話はウソという旨の投稿もそうなのですが、其れらを書いたついでと言っては何ですが、別な話を書こうと思います。
「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。
そもそも会津藩松平容保は新政府に対し「恭順の意」など示していません。
松平容保は新政府側に対し何度か嘆願書だとか上表文とか言われるものを提出しており、これらをもって“恭順の意の表明だ”とウソをついている人達が居るのですが、まあ、ウソです。
恭順の意を表すと言うのであれば、当然“新政府軍に抵抗せず会津若松城は開城する”といった内容の意思表示と其の実行が必須です。ですが、容保は結局其の一番肝心なポイントからは意図的に逃げ回りダラダラと言い訳をしているだけなのです。恭順の意など示していません。
容保の主君である徳川慶喜公は江戸城を部下達に任せ自らは寺に籠って恭順の姿勢を明確に示しました。もし松平容保に恭順の意思があったなら、必ずこの良いお手本を真似たはずです。しかし彼はそうしていません。
容保は徹底抗戦の姿勢を堅持したまま新政府軍との戦争の準備を着々と進めます。「武備恭順」という言葉を使って容保を擁護する人もいますが、武装解除せずに「恭順」など有り得ません。仮にですが、大東亜戦争終結時に日本政府は降伏を表明したにも関わらず、日本軍が「天皇陛下の安全と國體護持が保証されない限り武装は解除しない。武備恭順だ」と言って武装解除に応じなかったら、米国らは其れをどう受け取ったでしょうか?「結局、日本は最後まで徹底的にヤル気なんだな」と判断され戦闘継続でしょう。それと同じことです。「武備恭順」などただの言葉遊びでしかありません。「一匹狼の大群」みたいなモノです。
東北戦争・会津戦争に至ったのは、会津藩松平容保が、徹頭徹尾、新政府軍に対し徹底抗戦の姿勢で臨んだ事が原因と言うしかありません。有り体に言えば、松平容保が東北に戦争を誘致したのです。
会津が北海道に持っていた領地を、軍事的・経済的援助と引き換えにプロシア(ドイツ)に事実上売却(形式的には99年間の租借)しようとした事実も、容保に恭順する意志など無く最後まで戦う方針だった事を示しています。
一方で、新政府の方針は「恭順の実効が示されなければ討つ」、逆に言うと“恭順の実効を示せば赦す”と言う事で一貫していました。
実際、徳川慶喜公側近として容保と共に「一会桑勢力」の一翼を担っていた、容保実弟の松平定敬(まつだいら さだあき。元京都所司代)が藩主だった桑名藩は、藩主定敬本人は函館戦争まで抵抗を続けたにも関わらず、藩は早々に恭順の姿勢を明確に示したので全然戦争にはならなかったのです。無血開城です。新政府には始めから会津を赦す気は全く無く攻めたという話が本当なら、何故、元京都所司代松平定敬の桑名藩は特別扱いされたのでしょうか?
特別扱いでも何でもありません。恭順の実効を示し赦された。ただ其れだけです。
そして、会津はそうしなかったというだけなのです。
東北方面担当の新政府軍、即ち奥羽鎮撫総督の下参謀だった世良修蔵が大山格之助へ出した手紙に「奥羽皆敵と見て云々」と書かれていた、という有名な話を思い出した人もいるかも知れません。仙台藩降伏間近という時に仙台藩関係者が、降伏交渉を依頼した肥後藩関係者に語った証言から、この世良の手紙は、仙台藩関係者が主張するように会津なのか或いは仙台藩自身なのかは不明ですが、何者かによる捏造であるという説があります。
仮に世良の其の手紙が本物だったとしても、其の時点での世良修蔵個人の意見と新政府の基本姿勢は別のモノです。
新政府の方針は前述した通り「恭順の実効が示されなければ討つ」、即ち“恭順の実効を示せば赦す”、です。そもそも、新政府には恭順の姿勢を明確にした相手に戦争を仕掛ける金銭的余裕など無いのです。
匿名不良会員の私が言っても説得力が薄いので、桑名藩があった三重県出身の幕末維新政治史を専門とする水谷憲二氏著『「朝敵」から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択』(洋泉社)より一文を引用するので読んでください。会津や東北で戦争になった理由・経緯が簡明に端的に説明されています。文中の「奥羽府」とは「奥羽鎮撫総督府」の略で「東北方面担当新政府軍本部」みたいなものです。それから、「閏四月(うるう しがつ)」いうのは旧暦で使われる閏月(うるうづき)で四月の翌月です。太文字強調は私によるものです。
なお振り返ってみれば、奥羽府から仙台藩に対する四月二十五日の通達では、しだいに会津藩が「暴動」を引き起こしそうな状態ではあるが、謝罪をすれば寛大に処置する考えであることを明らかにしている。しかし、それに対する容保名義の返答書(閏四月十五日付)は、徳川家の存続が確定するまでは「謝罪」しない覚悟を表明する内容になっている。閏四月十二日に奥羽府に差し出された会津藩側の嘆願書でもわかるように、会津藩が本気で恭順を望んでいるようには思えない。その一方で仙台藩ら東北諸藩は会津藩を説得して何とか平和的な解決に持ち込むことを画策して、また奥羽府においても会津藩の恭順の意志が本物であれば穏便に解決しようと考えていた。しかし、会津藩はまったく武装を解除する気配がなく、東北諸藩は討伐対象である会津藩と結びついて和平交渉を計画して奥羽府に激しく迫り、そして奥羽府は着々と会津藩を攻撃する態勢を整えて東北諸藩を討伐に駆り立てた。このような奥羽府と東北諸藩との間に不信が募り、やがてそれは互いの誤解となり、最後には引き返すことができない戦争に発展していった。
「会津は被害者で“善”、薩長は加害者で“悪”」という自分らの会津観光史観、と言うか、私に言わせれば「会津被害者史観」を正当化する為に"会津や東北諸藩は恭順したにも関わらず、薩長新政府側は最初から彼らを赦す気はサラサラ無く徹底的に叩き潰すつもりだった"などというウソを言い募っている人達が相変わらず居るようですが、ウソは100回言ってもウソです。
そういう人達のウソにコロッと騙されていたという人は、✩本とかではなく、幅広く深い客観的事実を元に合理的論理的見解を導き出すごく普通の歴史研究者の論文やそれに準ずるような書籍から歴史を勉強し直して頂きたいものです。