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〇世間にて
“足は裸足で、胸ははだけ
私は世間の人々と交わる
服はぼろぼろで埃まみれでも
私はつねに至福に満ちている
自分の寿命を延ばす魔術など用いない
いまや、私の目の前で
樹々は息を吹き返す
* * * * *
ひとりのブッダが一周まわって来たときには
必ず彼は世間の中にいる
それが誰もが出発するところであり
それが誰もが終わるべきところでもあるそれが第十句だ
世間の人々と交わるというこのことは
誰もが神聖であることのひとつの大いなる認識、了解だ
それならば、もうヒマラヤへ行く必要などどこにもない
僧院の隔絶の中に自分を隠す必要などどこにもない
自分自身を孤立させておく必要などどこにもない
人々と交わるということが
何百万というさまざまな形で、<神>と交わることなのだ
“足は裸足で、胸ははだけ
私は世間の人々と交わる”
長寿というのは。依然として
死を恐れている肉体同化した人間のひとつの欲望にすぎない
“理解の人”は、死などないのを知っている!
もしあなたがあまりにも自己同化しすぎていたら
その離別は死のようにも見える
だが、もしあなたが肉体に同化していなくて
自分自身を<観照する魂>として
<意識>として、<覚醒>として承知していれば
そのときには、死というものは何もない
あなたは生命の最大の宝を身につけているのだ
あなたは自分の内に<神>を身につけているのだ
廓庵は正解だ
“目をとめる誰もが悟ってしまう。”
もし私があなたを見れば
あなたは悟ってしまう
私にとっては、もう悟りしか存在しないからだ
もしあなたが不幸であれば
あなたは不幸な世界に生きる
もしあなたが悟っていれば
あなたは悟った世界に生きる
もしあなたのエネルギーが、内部で祝っていれば
<全体>がお祝いの交響楽となる
あなたが世界なのだ!
“服はぼろぼろで埃まみれでも
私はつねに至福に満ちている
自分の寿命を延ばす魔術など用いない
いまや、私の目の前で
樹々は息を吹き返す”
・以上。『究極の旅』≪禅の十牛図を語る≫でしたが、いかがでしたか。
私は、若かりし頃、この一冊の本『究極の旅』を手にしながら、読むことはなかったのです・・・。次の言葉のように、
「もし あなたが牛を求めることを 探求したくなかったら
いつか別な日が 探索を始めるのにふさわしい時なのだろう」
人生、一周したと思う私の心に、≪禅の十牛図を語る≫が、すんなりと入って来たのです。不思議です。最初に書きましたが、この40年の歳月の青春の旅は、禅の十牛図を巡る旅でもあったのです。
「俗があるから聖があるような気がします。俗や聖から出発しても、行きついた先は全く正反対みたいなこともあるような気がします。聖と俗はいつもイコールであるような気がします」と。
振り返って、八年程の東京での一人暮らしから、田舎に帰って来てからは、生活に追われる日々で、詩を書くことはなくなり、絵を描くということからもいつしか遠ざかり・・・・。それが、リタイアした今、自由な時間を持つことができ、日々の瞑想の時間もゆっくりとれるようになったのです。
人生の頂点は過ぎ、物事が続く世代にわたされる老年期となっても、心の中の『青春の旅・・・』はいつまでも続いて行くようで、みなさんの『青春の旅・・・』がいつしか楽しい想い出となりますように・・・・。
(尚、以前ブログで紹介した『ぼくと放浪の四次元・・・』は、『青春の旅・・・』の姉妹編のようなものです。)《ぼくと放浪の四次元 11》