不思議活性

『ゴッホの手紙』(テオドル宛)を読み 2

〇いよいよ、オーヴェル・シュワール・オワーズ1890年5月21日の、
第六三五信です。

 オーヴェルはとても美しい、ことに今では珍しくなった茅葺屋根がたくさんある。
 こうした絵をかなり真剣に描いたら、滞在費を取り返す機会もあろう―実際にすごく美しいのだ、のどかで典型的なほんとの田舎なのだ。
 ガッシェ先生に会い風変りな印象を受けた。医者としての体験から神経質なのをおさえて正常でいられるだろうが、少なくとも僕以上の神経症にかかっているようにみえた。

 きっと今週君はガッシェ先生に会うだろう―とても見事なピサロの雪の中の赤い家のある冬景色と、セザンヌの美しい花束がある。
 もう一枚、セザンヌの村の風景がある。僕も喜んで、ほんとに喜んでここで画筆を振ってみたい。

「医師ガッシェ」1890年6月

・1890年5月、オーヴェル・シュワール・オワーズに住み、ドクトル・ガッシェの世話を受けることになったゴッホですが、わずか二ヶ月、ピストル自殺をはかったのです。このことに関して、四日前の7月23日のテオへの手紙には、なんにも書かれてはいませんでした。

〇第六五一信 1890年7月23日

 今日の君の便りと同封の五十フラン札とをありがとう。
 いろいろなことについて便りしたかったところだが、その気がなくなったし、無駄のような気がする。

 ふり返って考えてみると――画家たち自身、次第に窮地に追いやられている。
 よし・・・・だが、結束の意義を画家たちに理解させる時期は既に過ぎ去ってしまったのではないか。また結束ができても、他の者が潰滅してしまっては、結局同じ運命をたどるほかはない。
 君が言うように画商が印象派の人々の利益を守るために結束したとしてもほんの一時的の現象だ。いずれにしろ個人的指導は効果なく、経験済みでもやりなおす必要があろうか。
 ぼくのみたゴーガンのブルターニュの作品はとても美しいし、向こうで描いた他の作品もさぞかしすばらしかっただろうと思う。

・「カラスのいる麦畑」はこの手紙が書かれたあとに描かれたのだろうか。この一枚の絵「カラスのいる麦畑」は、まるでファン・ゴッホの死を予感していたようです。


 7月27日の午後、オーヴェルの丘で、一通行人は、木に登っているゴッホの姿を見た。彼が「とても駄目だ、とても駄目だ」と言っている声を聞いたという。彼は心臓を狙ったが、弾は外れた。彼は下宿の自分の部屋まで辿り付つき、寝室に倒れた・・・・。

 弟テオには、兄ゴッホの自殺という荷は重過ぎました。テオはオランダに帰省するとまもなく発狂し、ユトレヒトの精神病院で、翌年の1月亡くなりました。

   * * * * * * * *

 1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれたファン・ゴッホは、1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働き、1876年、商会を解雇されました。1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折し、1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意しました。
 主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作されました。

 今回、『ゴッホの手紙』(テオドル宛)を読み、幾つかの作品を紹介していくうちに、改めてゴッホの生活と作品の流れに気がつきました。改めてゴッホの作品に惹きこまれた私です。最後に、私自身、ゴッホへの心酔として制作した、小さな一枚の銅版画「太陽の詩」の紹介です。


「太陽の詩」1995年(平成7年)

・補足として。数多くの自画像を残したゴッホです。いくつかの自画像の紹介です。

「帽子をかぶった自画像」1887年(パリ時代)

「麦わら帽子をかぶる自画像」1887~88年(パリ時代)

「カンヴァスの前の自画像」1887~88年(パリ時代)



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