7
〇牛の超越
“牛にまたがって
私はわが家にたどり着く
私は穏やかだ
牛も休むことができる
夜明けが
至福の休息のうちに訪れた
私の草屋の中で
私は鞭も手綱も捨ててしまった”
* * * * *
<心>によって組み立てられた、でっち上げられた解答でも
経典から借りてきた解答でもなく
あなたの実存から湧き上がる
花開く、咲き誇る
あなたの全面的な<天命>を顕在状態にもたらす
あなたを完全に覚醒させる、そうした<解答>__
それはひとつの<実現>になるだろう
<解答>ではなくひとつの<実現>
<解答>ではなくひとつの<啓示>
<解答>ではなくひとつの<体験>
それも実存的な__
これこそ十牛の物語のすべてだ
その<探索>は実存的なものなのだ
禅は最もストレートな道だ
それはまっすぐ標的に向かって行く
けっしてあっちへ行ったりこっちへ行ったりしない
けっしてめぐりめぐったりしない
繁みのまわりを叩くのでもない
矢のように真一文字だ
* * * * *
牛の超越・・・・・・
ひとたびあなたが自分の主人になったら
心は超越されている
あなたが自分の心の主人になった瞬間
心はもうそこにない
それが残るのはあなたが奴隷のときだけだ
ひとたびあなたが牛をつかまえ
そして、それに乗ってしまったら
牛は消え失せる
牛があなたと別なものとして存在するのは
あなたが主人でないときに限る
このことは理解されなければならない
“牛にまたがって
私はわが家にたどり着く”
そして、それが家にたどりつく方法だ
なぜならば、その<わが家>とは根源
あなたがそこからやって来たまさにその源だからだ
<わが家>はほかのどこにあるのでもない!
<わが家>とは、あなたがそこから来ているところであり
あなたがそこから湧き上がってきているところなのだ
その<わが家>は源だ
もし人が自分自身をふか~い<手放し>状態にさせておけば
人は<わが家>にたどり着く
<わが家>とは
人が生と実存のまさに源にたどり着く
人がそもそもの始めに触れるという意味なのだ
“牛にまたがって
私はわが家にたどり着く
私は穏やかだ”
〇牛と自己両方の超越
“鞭、手綱、人、そして牛
すべてが無のなかに溶け合う
この天の広大さには
どんなメッセージもかなわない
どうしてひとひらの雪片が
荒れ狂う炎の中に存在できよう
ここに
祖師たちの足跡がある”
* * * * *
朝、あなたが眠りから覚めたばかりのとき
数秒間の無自我状態がある
あなたがあんなに純粋で、清潔で
処女のような清らかさを感じるのはそのためだ
ところが、たちまちのうちに
世界が始まる
夜の間ですら、眠りの中で
あなたは悪夢をひねり出し続けて
自我との間の糸が完全にはなくらないようにする
自我というのは
争いの、闘いの間にのみ可能なものだ
もし何も戦うものがないとしても
あなたは何かかにか道をつくって戦おうとするだろう
覚えておきなさい
あなたは一切の戦いが落ちるその地点まで来なければならいと
いうこと
そうしてはじめて、あなたは自分自身を超越するだろう
そうしてはじめて
あなたは二度とふたたびその小さな自己
あなたがいまあるそのちっぽけな、醜い自己でいないですむこと
だろう
あなたはそれを超越し
そして<全体>とひとつになるだろう
“鞭、手綱、人、そして牛
すべてが無のなかに溶け合う”
この<空>は消極的なものじゃない
それは一切の実存のまさに源だ
ただし、それには何の限界もない
ひとひらの雪片が荒れ狂う炎の中で消え失せるように
<全体>のこの途方もないエネルギーの中で
すべてが消え失せる
鞭、手綱、人、そして牛__
“ここに
祖師たちの足跡がある”
<無>の中に踏み込み
そして、その中に消えて行ったすべての偉人たち
“すべては一つの法であって、二つでではない。われわれは牛をた
だ仮のテーマとするにすぎない。それはウサギと罠。魚と網のよ
うなものだ。それは金と金屑、あるいは雲間から現れ出る月の
ようなものだ。一筋のクリアー・ライトが、果てしない時を照ら
し抜く。”
“すべては一つの法であって、二つではない。”
* * * * *
もしあなたがよく愛したとしたら
そのときには、祈りへの
あるいは、瞑想への欲求が湧き上がってくるものだ
愛は神への第一歩だ
祈りが最後
あるいは、瞑想が最後のステップだ
愛はあなたにひとつの新しい渇きを
ひとつの新しい飢えを教える
だからこそ、愛はビューティフルなのだ
・次回に続く・・・・。