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〇牛を捕まえる
“大変な苦闘の末
私は彼を取り押さえる
彼の偉大な意志と力は無尽蔵だ
雲海のかなたの高原に突進し
あるいは不可侵の峡谷に立つ”
集中というのは意識の狭隘化だ
集中された心はほかのすべてに対してごくごく無感覚になる
それに対して、瞑想とは
起っている一切に醒めること
どんな選択もなく
ただ無選択に醒めていること__
“私は鶯の歌を聞く
太陽は暖かく、風はやさしく
岸辺の柳は青々としている
ここに
牛の隠れる余地はない!”
これほどまでの感受性のもとでは
どうして牛が隠れられよう?
牛が隠れられるのは
あなたが一つの方向に集中している場合だ
あなたがどの方向にも集中していないとき
ただあらゆる方向に開いているとき
どうして牛が隠れられる?
ビューティフルな経文だ
もうそこには牛の隠れる余地はない
なぜならば、隅から隅まで
あなたの意識に落ちこぼれはないからだ
そこには一つの隠れ場所もない
集中というのは対象を持っている
瞑想には何の対象もない
そして、この選択なき覚醒の中で
<心>は消え失せる
なぜなら、心が存続できるのは
意識が狭い場合に限るからだ
もし意識が広かったら
大きく広がっていたら
心は存在できない
心は選択とともにしか存在できないのだ
* * * * *
そして、突然
牛が見つかる!
大いなる感受性において
突然、あなたはあなたのエネルギー
純粋なエネルギー、全き歓喜に気づく
経文は言う
“その声を聞けば、人はそれの源を感じ取ることができる。
六感が溶け合うやいなや、もう門のなかにははいっている。”
あなたは敏感である必要がある
そうすれば、牛はどこにでも見ることができるのだ
どの木のうしろにも
そして、どの石のうしろにも
牛は隠れている
愛情をこめて触ってごらん
石でさえも応えるものだ
そして、あなたはそこに牛を感じられる
愛情をこめて星を見てごらん
星が応えてくれる
そこには牛が隠れているのだ
* * * * *
宗教はあなたに無感覚になること
あなたの感受性を押し殺し、ぶち壊すことを説いてきた
私はあなた方に
それを可能な限り高めるように言おう
なぜならば、最終的には
神は生とは別々なものじゃないからだ
生に対して生きていることは神に対して生きていることでもある
そして、それこそが唯一の祈りなのだ
もしフィクションを落とせたら
もしフィクションを放棄できたら
突如として、あなたは現実の中にいる
だから
私はあなた方に世を棄てることは求めない
夢を棄てることを求める
それだけのことだ!
自分のものでないものだけ棄ててごらん
本当に自分の手にありそうもないものだけ棄ててごらん
あなたはただそこにあるとイメ-ジしているにすぎない
あなたの夢を棄ててごらん
現実が手にはいる
もし心を選ぶなら
あなたはあなたの内なる実存に関する限り自殺をする
もし自分の<真我 Self>を選ぶなら
あなたは心を落とさなくてはなるまい
そして
それこそが瞑想のすべてなのだ
・次回に続く・・・・。