「今日は暑くなりそうだね~」
「そうだね~」
最近ある職場で聞いた女性同士の会話である。
上が50代,下が20代の言葉で,所謂タメ口だ。
私が子どもの頃は,徹底して「長幼の序」をたたき込まれた。
例えば,食事の際最初に母からご飯をよそわれるのは家長たる父であり,続いて長男の私,そして弟・・・,最後に給仕をする母が自分の茶碗によそって・・・となる。
学校でも,給食は真っ先に先生のぶんをよそい・・・,という具合である。
おそらく今時こんなことをしている家庭や学校はせいぜい20%程度だろうか。
否,もっと少ないかも知れない。
同じ茶碗によそった飯を機械的に配っている家庭が多いだろう。
だいたい,父親が夕食の食卓に居ること自体珍しいだろうし,学校でもこうしたことに拘る教師が多いとは思われない。
むしろ,皆平等とか言って,逆のことをやっていそうだ。
学生時代の部活動はさらに徹底していた。
体育会ではなかったが,殆ど同じ,というか,下手な体育会以上にはっきりした縦社会で,1年奴隷,2年兵隊,3年平民,4年神様のような階級が暗黙のうちに決まっていた。
1年生は常に箱マッチを携帯し(ライターは禁止だった),先輩が口に煙草を咥えると,
「失礼します!」
と間をおかず付けないと,2年生に怒られ,2年生が3年生に怒られた。
合宿中の食事ではお代わりが許されず,てんこ盛りにした飯を先輩たちが来る前にへらで押しつけておくことが慣習だった。
先輩の茶碗が空きそうになると,お給仕に走ることを義務づけられた。
人と同じことが嫌いで,体制に順応することを苦手とする私なんか,ずいぶん逆らって不正分子だったと思われるが,自分が上級生になったら絶対こんな莫迦な縦社会を覆してやる,と臥薪嘗胆を誓ったものだった。
・・・といった具合に書くと,何て閉鎖的で封建的・保守的なところで育ってきたのか,と思われそうだが,こちらをお読みいただきたい。
こちこちの儒教道徳観念に凝り固まったような印象の「長幼の序」であるが,それを失うと,私が書いた冒頭の会話となり,記事のような体たらくとなるのである。
現首相が標榜する「美しい国」とは,「長幼の序」を無視しても成り立つものなのだろうか・・・。
門閥・学閥・派閥や実力主義を伴わない年功序列を認めるつもりはない。
しかし,「長幼の序」を重んじる心が円満な人間関係と社会構造を作り出し,我が国独特の文化を醸成していったことは紛れもない事実である。
勿論,以上は毎度大きなお世話様の私が勝手に思っただけかも知れない。
ただ一度,一回り以上年若の女性二人に手招きで呼ばれたときは,怒るのを通り越して呆れて目が点になったことを最後に記しておく。
ま,そんだけおっさんになった,ということだろうけど・・・。
昔読んだ「江田島教育」(豊田穣)の中で、作者が、軍隊ではなく社会に出たときにも、たとえ一歳年長者でも敬語を使うが、相手は不思議がるという趣旨のことを書いていたことを想い出しました。父親に厳しくしつけられたので、違和感なく「自分もそう思うし、そうしている」と思っていました。
学校や家庭で敬意を表すやり方を教えないことや、国語教育の中で敬語表現が軽視されていること。家庭環境で、父親の権威が失墜していること、社会的な地位があると思われていた国会議員や医師、弁護士、教育者などの失態がマスコミなどで報道されることなども、敬意を持つということへの阻害要因になっているのかもしれませんね。汚職や婦女暴行・痴漢、脱税などなど、ほめられるべきものではないことが公(おおやけ)になることが多くては、とても尊敬の対象ではないですからねえ。
そういうことの反映が今の社会の状況に現れているのかもしれませんね。我が身を振り返って反省すること多々ありです(汗)。
またちょくちょく拝見させていただきます。
冷静な分析,ありがとうございます。
いや,本当に仰るとおりでして,私なんか身につまされて耳が痛いです。
我々が幼少の頃は父権が確立していて,絶対的なものでした。
だから,オオカミさんが挙げられた「江田島教育」に書かれているような内容なら私も違和感なく享受できそうです。
若者~年少者に(否,我々の世代より後の者に)「長幼の序」の精神が希薄なのは,やはりオオカミさんが仰ったように,本来範たるべき者の責任が大きいでしょうね。
人のふり見て我がふり直せ,でいくしかないでしょうし,社会構造の抜本的な立て直しをしないと駄目かもしれません・・・。
そして,初めまして。
駄文の山をお読みくださったのみならずコメントまでしていただき,嬉しい限りです。
見ての通りちびちびとやっていますので,また宜しくお願いします・・・。