14日はどんどん焼きの日であった。どんどん焼きは昔から子供たちの受け持つ正月の仕事になっていたので,この朝は洪作と幸夫が下級生たちを指揮した。子どもたちは手分けして旧道に沿っている家々を廻り,そこのお飾りを集めた。本当は7日にお飾りを集める昔からのしきたりであったが,この頃はそれを焼くどんどん焼きの当日に集めていた。
橙を抜き取ってお飾りだけ寄越す家もあれば,橙は保つ論,串柿までつけて渡してくれる家もあった。
お飾りは,田圃の一隅に集められ,堆高く積み上げられた。幸夫がそれに火をつけた。
火勢が強くなると,
「みんな書初めを投げ込め」
幸夫は怒鳴った。子供たちは自分が正月二日に書いた書初めを,次々にその火の中に投げ込んだ。 洪作も幸夫も投げ込んだ。そして,その仕事が終わると,くろもじの枝の先端に付けた小さい団子をその火で焼いて食べる。このどんどん焼きの中で一番楽しい仕事へと移っていった。
この日は男の子供も女の子供も一緒だった。1年のうちで,男女の児童たちが一緒になるのは,この1月14日しかなかった。
(井上靖著「しろばんば」後編第二章より,新潮文庫刊)
1月14日が訪れると,若い頃読んだこんな作品の一節が思い出されます。
大正時代初期の子供たちの生活の様子が,淡々とした筆致ながら生き生きと活写されており,思わず引き込まれてしまいます。
井上靖の自伝的作品の舞台は,彼が幼少期を過ごした伊豆半島の湯ヶ島が舞台ですが,「どんどん焼き」なる名称は静岡県から山梨県南部にかけてのものらしいです。
検索をかけてみると,西上州をはじめ関東地方では「どんど焼き」なる呼称のようですが,私のところは「どんと祭」と呼んでいます。
上記の伊豆地方田方郡との決定的な違いは,神社の境内で堆く積まれた正月用品に火をつけることでしょう。
私の住まいから車で30分以内のところには,結構な数の神社があります。
社殿が国宝に指定された八幡宮,当然日光の本社から江戸時代初期に分社した東照宮(門前は宮町,という古式ゆかしい町名),伊達政宗勧請が二社,そして加茂神社と,全国展開している社が散在しています。
帰宅して夕食を早めにとったまでは良かったのですが,週末疲れでのびてしまい,お参りに出発したのは9時近くでした。
遅くなったので,もう人出のピークは過ぎた,と判断して国宝指定の八幡宮へ向かったところ,何と渋滞に遭遇。
つい3年程前までは,この時間帯だと絶対そのようなことはなく,境内の駐車場まで直接車を乗り付けることができたのに,それだけ生活全般が夜型になって来ているということなのでしょうか。
渋滞にお付き合いするほど気が長くないので,急遽Uターンを敢行。
家の前を素通りして,北隣の区まで走ること10分。
こちらも全国区の熊野神社へ。
全国展開の末社ながら,私の地域でも知る人ぞ知る穴場的存在です。
駐車場もがらがらで,静かで小さな社殿へお参りし,無事お正月用品を火にくべることができました。
神道にも,他の宗教同様多くの宗派があるのでしょうし,今の神道のもととなったのが伊勢の度会神道(鎌倉時代に体系化された)とは言え,熊野神社は熊野(和歌山),加茂(賀茂)神社は京都,東照宮は日光(栃木),諏訪神社は諏訪(長野)・・・といったふうに,異なる神様の筈です。
このあたりを考えないのは,私も含めて不信心・無宗教の典型的日本人だな,という気がします。
ま,日本の神道は,ギリシャのオリンポスの神々同様,一神教ではなく八百万の神々が鎮座ましますから,これで良いのか,と勝手に納得したりしていますが・・(全然良くない)。
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