黄金山神社と天平ろまん館を後にして,R346(通称佐沼街道)を戻る。
そして,県道173号線を江合川沿いにほんの僅か北上すると,涌谷城跡だ。
県道からは城らしき建物がよく見えたが,勿論清洲城や伏見城同様,何の歴史的根拠もないRC造りの観光城である。
但し,ここに城があったことは事実だ。
室町幕府の奥州探題職として,東北一円に睨みを利かせた大崎氏の氏族にして家臣である涌谷氏の居城であったという。
やがて16世紀の伊達氏の勢力伸長により,形骸化していた大崎氏の支配は終わり,政宗の代に,亘理重宗が涌谷城に入り,この一体を支配していくことになる。
亘理氏は,保元の乱や源平合戦に功のあった千葉介常胤の三男武石胤盛を祖とする平姓であるが,伊達家お得意とも言える名跡乗っ取りによって,伊達一族の重宗が継いでいた。
重宗の子の代で伊達姓に復し,これを涌谷伊達氏と呼ぶ。
元禄年間に失火で天守が焼け,以降再建されなかったらしい。
城跡の南端に残る隅櫓は,小規模ながら唯一当時の遺構と言えよう。
涌谷城は,ざっとこのような歴史を辿ったのであるが,伊達氏は藤姓(北家魚名流),大崎氏は斯波氏の一族であるから源姓足利氏族である。
さっき述べたように,亘理氏は平姓千葉氏族だ。
つまり本来は,関東地方を本拠地としていた筈の一族である。
それが何故東北に進出するに到ったかは,大きな理由がある。
武士の起こりは,平安時代初期の9世紀ころだったとされる。
所謂平氏は桓武天皇の子孫,源氏は清和天皇(近年の研究では陽成天皇)の子孫と言われている(その他,平氏には仁明天皇系等,源氏には嵯峨天皇系,村上天皇系,宇多天皇系等があるが,桓武平氏と清和源氏をここでは狭義の平氏・源氏とする)。
つまり後続の子孫が姓を賜り臣下となり,中央政界での栄達の為にも(或いはそれを諦めて),地方での実利を取ったということだと思う。
平氏は伊勢や伊賀といった畿内から近いところに,源氏は摂津,大和,河内に起こり,中でも河内源氏は,摂関家に仕え頼信-頼義-義家と,前九年の役や後三年の役で東北の紛争に介入し,関東から東山道諸国に勢力を伸ばした。
特に,東北とも縁の深い八幡太郎義家の三弟,新羅三郎義光の子孫は各地に繁栄した。
有名なところを挙げると,常陸の佐竹氏,上野の新田氏,下野の足利氏,信濃の平賀氏,甲斐の武田氏等である。
いずれも源平合戦に於いて頼朝に従い(佐竹氏や新田氏のように当初は従わず,後に従い)鎌倉幕府の御家人となつた。
一方,平氏は伊勢・伊賀地方で勢力を扶植する一方で,源氏同様東国に基盤を求めた。
関東での独立を図った平将門や平忠常が有名であるが,それらの一族の系統も関東に多く根を張った。
伊豆(関東ではないが)の北条氏,相模の三浦氏に波多野氏,中村氏,土肥氏,鎌倉氏,上総の千葉氏,上総氏,下総の相馬氏,常陸の大掾(だいじょう)氏,武蔵の秩父氏等である。
坂東(関東)は源氏の国・・・という先入観があるが,坂東八平氏と言われるくらいであるから,むしろ平氏の国・・・と言った方が良いのかも知れない・・・。
それらの殆どは源平合戦の際に頼朝の麾下に参じ(波多野氏や鎌倉氏の一族の大庭氏のように従わずに滅ぼされたり,上総氏のように謀殺されたりした例もあるが),鎌倉御家人に名を連ねるに到った。
このように,武士はそもそも宮廷の番人であったのが地方に散じたのであるが,さらに大規模にそれを動かしたのが鎌倉幕府の進めた守護・地頭制である。
例えば,私の義理の母の実家は板橋姓であるが,これは現在の東京都の板橋区から起こった平姓秩父氏の一族であるが,おそらく鎌倉幕府草創期に陸奥国名取郡を領した裔であると考えられる。
おそらく名取郡某荘の地頭職だったのではないだろうか・・・。
平安京から各地に散った武士は,こうして鎌倉幕府によって更に遠方へ散り,それぞれの地を支配しながら勢力を伸ばしていった。
例えば,仙台藩主である伊達氏であるが,常陸国伊佐郡,或いは下野国中村荘を領していたが,頼朝による奥州征伐の際,石名坂の戦いにおいて常陸入道念西が功を上げ,奥州伊達郡を支配したことに始まると言われる。
また,上記奥州征伐後に,頼朝から奥州総奉行に任じられたのは,平姓秩父一族の葛西清重である。
清重は,石巻の日和山に館を築き,登米に移ったという。
その子孫は長く奥州の有力な守護として栄え,秀吉の小田原征伐によって改易されるまで続いた。
また,その葛西氏や伊達氏と境を接して争った大崎氏は源姓足利氏族の斯波氏より起こったことは,先に述べた。
そして,清重と共に奥州総奉行に任じられたのが伊沢家景である。
伊沢氏は,藤原北家道兼流であるが,陸奥国の留守職を務めたので代々留守氏を名乗り,現在の仙台市の岩切城を根拠地とした。
この留守氏も,やがて伊達氏に乗っ取られることになる。
・・・ということで,全くまとまらない内容となってしまったが,伊達氏や留守氏がこの地方に来た根源を辿ると,鎌倉幕府の守護・地頭に端を発しているのである。
それがなければ,歴史は大きく変わっていたに違いない。
城跡からは南側の眺望がよく利いた。
江合川と鳴瀬川に囲まれた低湿地は,長年の先人たちによる努力によって,美田へと変貌し,全国有数の穀倉地帯となった。
そしてその大崎平野の東端に位置する涌谷は,城山から俯瞰すると,山と川のある美しい町として今日も残った。
どうしても仙台市に一極集中になりがちな我が県ではあるが,こうした地方都市にも他にはない歴史や伝統が今も脈々と息づいているのである。
そうしたのも,私が声高に批判した地名の消滅同様に大切な文化遺産である。
それを守っていくのも,我々に課せられた使命であり,今回の仕事が微力ながらその一端を担うものとなれば嬉しい話だ・・・。
涌谷-美里-大郷-大和と,旧小田郡から黒川郡を経て,宮城郡へ帰る帰途,そんなことを思いつつ愛車を駆った・・・。
◎ようやく終了です。
たった4時間程度の行程を書き記すに,膨大な字数を要しました。
そして,余計なことばかり書いたという・・・。
ま,何時ものことではあるのですけど・・・。
また気が向いたら,書くかも知れません。
唯,出掛ける機会が無いのと,もう一つ,県北に残る旧奥州街道の本陣を訪れる仕事が有るのですが,なかなか機会を見付けられないで居ます。
JR駅から近いので,鉄道で出掛けるのも一興かも知れません・・・。
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