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龍馬伝-第17回「怪物,容堂」

2010年04月25日 21時18分28秒 | 龍馬伝
今回は山内容堂がいっぱい出てきました。
幕末の四賢候の一人と云われる容堂ですが,本日語られたように極めて頑迷で保守的な思想の持ち主だったと思われます。
勿論,勤王は文化人・知識人たる容堂のモットーとするところでしょうが,容堂にとっての勤王はあくまでも幕藩体制の中でのものだったと思われます。
土佐二十四万石は,周知の通り藩祖である山内一豊が,関ヶ原での功績によって徳川家より拝領されたものです。
ですから,薩摩や長州と決定的に違うのは,土佐藩が徳川の恩顧にあったという歴史的事実です。
おそらく容堂は,龍馬も弥太郎も存在を殆ど知らなかったことでしょう。
容堂にしてみれば,郷士ずれが勤王面するなぞ片腹痛し,といったところでしょう。
開明的で尊皇を旨とする殿様が土佐へ帰ってくる-勤王党の面々は大いに盛り上がったことと思いますが,容堂が行ったことはまずその勤王党の弾圧でした。
このあたりに幕末土佐藩の悲劇があると思われます。
尤も,藩の上層部が保守的なのは薩摩や長州も同様で,特に長州は元治元(1964)年の禁門の政変に敗れ,幕府・諸藩の攻撃を受けて(第一次長州征伐)保守政権(通称俗論党)が誕生,2年後の高杉晋作によるクーデターまでは,親幕府勢力となっていた・・・という事実もあります。
因みに,以前吉田東洋の項でも触れましたが,容堂は文久2(1862)年時点で数えで36です。
近藤正臣さんの大河ドラマと云えば,昭和48(1973)年の「国盗り物語」(明智光秀役)を思い出しますが,ちょいと老けすぎではないでしょうか・・・。


さて,弥太郎くんは突然坂本家にやってきて,大歓迎を受けます。
龍馬と大坂で遭ったというだけで,こうまで歓待されるのか謎ですが,下横目として龍馬を捕縛に行ったのに,友達面してしゃあしゃあとしている厚顔な弥太郎くんでした。
で,材木100本を買い取ってやる権平もいい人です・・・。
言ってしまえば,坂本家と弥太郎の接点が有ったとは到底思われないのですが・・・。


そして龍馬は遂に軍艦という夢中になれるものを見つけます。
千葉道場の面々はそんな龍馬をよく理解し,快く送り出します。
真相は,攘夷熱が盛んなこの時期に軍艦などという洋夷のものに夢中になる龍馬に呆れていた,というか,懐疑的・批判的だったのではないでしょうか・・・。
で,龍馬は千葉門を出て長次郎を伴い勝と共に軍艦で大阪へ・・・。
艦首でポーズを取る龍馬をバースを効かせた絶妙なカメラワークが捉え,背後には雄弁な佐藤直紀による楽曲が鳴り響く・・・。
感動的に盛り上がる全編の白眉たる場面です・・・。
でも,浸れない私は冷血漢なのでしょうか・・・。
この辺りをどう感じたのか,多くの方に伺ってみたい気がします・・・。


さて,今回は佐那おねいさんの出番が多く(それも凛々しい稽古着姿の),私を喜ばせてくれましたが,龍馬との立ち会いの場面は,竹刀の先端が鶺鴒の尾の如く細かく震えていたので,ここでも私を満足させました。
しかし,龍馬の心は全く佐那には無いようで(加尾にはあんなにご執心だったくせに・・・),見ていて哀れでした・・・。
実際は,千葉家としては龍馬を佐那の許婚として認めていたという状況だったとも言われていますので,果たしてどんなものだったのでしょう・・・。
・・・で,どうも永別のような雰囲気でしたが,龍馬はこの後翌文久3年と翌々元治元年の二度にわたって江戸を訪れています。


・・・で,最後に・・・。
龍馬が幕船順同丸にて上坂したのが文久3年元日。
勝が容堂と会ったのは,江戸に帰る途中の1月16日,下田においてでした。
この際に龍馬の脱藩は許されています。
・・・というか,容堂にとって名も無き郷士の龍馬などどうでも良い存在だったということでしょう・・・。
どうも,いまいち時系列が曖昧なようでして・・・。
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