こんにちは、ももちです。
今日はふと思った「知りすぎてしまうことのデメリット」についてちょっと書かせてください。
ももちの実家は日本にある飲食店です。
お父さんの調理した食事は世界一美味しいと言いたいところですが、そうではありません。
ももちは20年以上社会人をして、それなりに収入もありますし、外資系金融機関の同僚は美味しいものにとても詳しいです。接待などを含めても、美味しくて高級なお食事にはそれなりに行ってきました。
もしももちが、20代で結婚して専業主婦になって子供がいて、夜の会食などほとんど行かないような人生だったらば、実家のお料理が最高に美味しくて、それしか知らないみたいなパラレルワールドだったのかな、とふと思ってしまいました。
そして、そっちの方が幸せなのかな、と。
もちろん、面と向かって親に「もっと美味しいもの食べてきた」とは言いませんし、実家の料理も美味しいと思うので「美味しい〜」とは言います。
ももちは、20代、30代はとにかく経験だと思い、新しいもので心惹かれるものには誘いがあればほとんど断らずに挑戦してきました。
でも、知らないから幸せ、みたいな世界もあるんだろうな、とうっすら思うようになりました。
実家の両親は大学に行ってませんし、ももちが経験したような海外勤務やら、ビジネスの接待で行くようなレストランやらとは無縁の人生です。
毎日母が作るお野菜たっぷりの家庭料理を食べ、飲食店を運営し、楽しく生活しています。
そこに行きたい訳ではないけれど、でも両親は両親で幸せなのだと思うし、幸せの尺度は本当に人それぞれなのだと思います。
私は、母が一足5000円もしない靴を買うのを知っていて、自分が何万円もするパンプスを買うととても罪悪感を感じていたのですが、何に幸せを感じるかは人それぞれなのだから、そこに罪悪感を感じることの方がむしろエネルギーや感情の無駄遣いなのかな?と感じてもいます。
まだまだ結論は出ませんが、なんとなくそんなことを考える中秋節でした。