
旅をしていると、文学にゆかりのある場所を訪れることが結構あるのですが、それが書かれた当時の状況とは大きく変化している所が少なくありません。そんなところを見るとやはりがっかりするものです。
その点、寺社仏閣などは、比較的当時のままに残り、その雰囲気を感じられるので、文学探訪の旅にはうってつけだと思います。
中でも、京都や奈良の古寺は、昔ながらの風情を保っている所が多く、文学書を片手に訪れるのに良いところだと思います。
亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』や和辻哲郎の『古寺巡礼』などが有名ですが、堀辰雄著の随筆『大和路・信濃路』もすぐれたものです。この随筆は、国語の教科書等に掲載されたりもしていましたので、親しみ深い人も多いかと思います。特に、その中の「浄瑠璃寺の春」は名文として知られているので、以下に掲載しておきます。
このような書物を片手に、古寺を訪ねてみるのも良いかと思いますよ。
〇{堀辰雄}とは?
昭和時代に活躍した小説家で、1904年(明治37)12月28日、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれ、東京府第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)から、第一高等学校理科乙類へ入学しました。
その頃から文学に目覚め、『校友会雑誌』にエッセイや詩を投稿しています。その後、東京帝国大学文学部国文科に入学し、中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊しましたが、重い肋膜炎を患い、3ヶ月ほど休学しました。
芥川龍之介の自殺の衝撃を卒業論文『芥川龍之介論』に書き、卒業後は、1930年(昭和5)に「聖家族」を雑誌『改造』に発表し、文壇で高い評価を受けることになります。
しかし、喀血をして自宅療養したものの、病状が好転せず、3ヶ月間、長野県の富士見高原療養所に入院しました。その後、矢野綾子と婚約しましたが、結核のために富士見高原療養所で、1935年(昭和10)に死去し、その体験が、代表作である小説『風立ちぬ』のモチーフとなったと言われています。
昭和10年代以降は、病気療養をしながらも、王朝文学や古代への関心も深めて『かげろふの日記』、『曠野』、『大和路・信濃路』などの作品も残しました。太平洋戦争末期に信州信濃追分に疎開、その地で療養を続けましたが、 1953年(昭和28)5月28日に48歳で亡くなります。
〇『大和路・信濃路』の旅とは?
堀辰雄は、折口信夫から日本の古典文学について教えを受け、王朝文学を題材にした『かげろふの日記』を執筆しましたが、その頃から日本の古代に対する思いを深め、1937年(昭和12)6月から1943年(昭和18)5月にかけて計6回奈良を訪れています。
それらの旅行を随筆的にまとめたものを雑誌『婦人公論』に1943年(昭和18)1月から8月まで『大和路・信濃路』として連載しました。それに「樹下」を加え、戦後の1946年(昭和21)に、単行本『花あしび』の中に収録されて刊行されたのです。
堀辰雄が大和路や信濃路を歩いた時の感動が伝わってくるような文章で、これを携行して旅した人も少なくないと思われます。
☆随筆『大和路・信濃路』の関係地
(1)秋篠寺<奈良県奈良市>
奈良県奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置し、本尊が薬師如来(国指定重要文化財)、開基(創立者)は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされていますが、山号はありません。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もありますが、現在は単立で、伎芸天立像(国指定重要文化財)と鎌倉時代建立の本堂(国宝)で知られています。伎芸天立像(像高206.0cm)は、頭部のみが奈良時代の脱活乾漆造で、体部は鎌倉時代の木造による補作ですが、よく調和がとれていて、優雅な身のこなしと瞑想的な表情が魅力的で、多くのファンがいます。堀辰雄もこの伎芸天立像に惹かれたようで、感慨深げに述べています。
(2)薬師寺<奈良県奈良市>
飛鳥時代の680年(天武天皇9)に天武天皇が、皇后の病気平癒を祈念して発願し、698年(文武天皇2)に藤原京に創建されたものです。しかし、710年(和銅3)の平城京遷都に伴い、718年(養老2)に現在地に移転されました。南都七大寺の一つであり、興福寺と共に法相宗の大本山でもあります。たびたびの火災などで諸堂を失いましたが、東塔は創建当時の遺構、東院堂は鎌倉時代の再建で、いずれも国宝に指定されています。境内にある薬師三尊像、聖観音菩薩立像、吉祥天画像、仏足石および仏足石歌碑も国宝になっていて、白鳳・天平文化を代表するものです。1976年(昭和51)に金堂、1980年(昭和55)に西塔、1984年(昭和59)に中門、2003年(平成15)に大講堂が再建され、薬師寺式伽藍配置がよみがえりました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。堀辰雄が訪れた時は、伽藍も整っておらず、東塔に惹かれて、相輪の水煙に興味を持ったようですが、天女の姿を見ることができたのでしょうか.....。
(3)唐招提寺<奈良県奈良市>
鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑仁の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。 堀辰雄も何度か足を運んでいるようで、円柱のエンタシスに興味を抱き、感慨深げに印象を語っています。
(4)東大寺<奈良県奈良市>
聖武天皇の命により、奈良時代に創建された寺で、盧舎那仏(奈良の大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂(三月堂)などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂(三月堂)の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されているのです。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。堀辰雄は、特に法華堂(三月堂)の月光菩薩像に魅せられたようで、慈悲深さを印象的に綴っています。
(5)法隆寺<奈良県生駒郡斑鳩町>
飛鳥時代の7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院です。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされています。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、玉虫厨子など、38件もの国宝と151件の国の重要文化財があるのです。また、1993年(平成5)には、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。堀辰雄は、金堂壁画の模写事業を見学し、とても興味を持ったようで、その印象を綴っています。
(6)菖蒲池古墳<奈良県橿原市>
奈良県橿原市の南東部、明日香村との境界に近い尾根筋南斜面に位置する古墳で、飛鳥時代の7世紀中頃に築造されたと考えられています。藤原京中軸線の南延長上に、天武・持統天皇陵と同じようにに位置することから皇族が被葬者と思われ、2基の家形石棺が特異なことなどから、1927年(昭和2)に国の史跡に指定されました。また、2010年(平成22)に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになったのです。 墳丘は、封土の流出や後世の改変によって、横穴式石室の天井が露出していますが、玄室内には南北に2基の凝灰岩製家形石棺を安置されていました。現在は、石室前面の覆屋と扉を設置するなどの整備が行われ、玄室内は柵越しですが、石棺を見学することが可能です。堀辰雄も2回は訪れているようで、古代人の埋葬について興味を持ち、多くを語っています。
(7)野辺山駅<長野県南佐久郡南牧村>
JR小海線の長野県の南端に位置する駅で、標高が1,345.67mで、JRグループの駅及び日本の普通鉄道の駅としては日本最高所に位置しています。隣りの清里駅間には、JRグループの最高標高地点 (1,375m) があり、高原ムードの漂う場所なのです。現在では、夏の避暑地となり、別荘なども建っていて、観光客も多いのですが、堀辰雄が訪れた時代は、そんな状況ではなく、狩猟に来た人々の様子を描写しています。
(8)浄瑠璃寺<京都府木津川市>
京都府木津川市にある真言律宗の寺院で、本尊は九体阿弥陀如来(国宝)と薬師如来(国指定重要文化財)で、1047年(永承2)に義明上人により開基されたと伝えられています。平安時代後期建立の本堂と三重塔(いずれも国宝)が残り、平安時代の寺院の雰囲気を今に伝えているのです。緑豊かな境内は、梵字の阿字をかたどった池を中心にした浄土式庭園で、東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した極楽世界を表現しているとのことです。とても貴重なものなので、1985年(昭和60)に国の特別名勝になっています。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』は、名文として知られ、教科書にも掲載され、知るところの多い一文です。
☆随筆『大和路・信濃路』の中の「浄瑠璃寺の春」の部分
浄瑠璃寺の春
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。
なにもかもが思いがけなかった。――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりのとその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥の啼きごえさえのんびりと聞えていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。「ほら、あそこに塔が見える。」
「まあ本当に……」妻もすこし意外なような顔つきをしていた。
「なんだかちっともお寺みたいではないのね。」
「うん。」僕はそう返事ともつかずに言ったまま、桃やら桜やらまた松の木の間などを、その突きあたりに見える小さな門のほうに向って往った。何処かでまた七面鳥が啼いていた。
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。
僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。
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その点、寺社仏閣などは、比較的当時のままに残り、その雰囲気を感じられるので、文学探訪の旅にはうってつけだと思います。
中でも、京都や奈良の古寺は、昔ながらの風情を保っている所が多く、文学書を片手に訪れるのに良いところだと思います。
亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』や和辻哲郎の『古寺巡礼』などが有名ですが、堀辰雄著の随筆『大和路・信濃路』もすぐれたものです。この随筆は、国語の教科書等に掲載されたりもしていましたので、親しみ深い人も多いかと思います。特に、その中の「浄瑠璃寺の春」は名文として知られているので、以下に掲載しておきます。
このような書物を片手に、古寺を訪ねてみるのも良いかと思いますよ。
〇{堀辰雄}とは?
昭和時代に活躍した小説家で、1904年(明治37)12月28日、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれ、東京府第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)から、第一高等学校理科乙類へ入学しました。
その頃から文学に目覚め、『校友会雑誌』にエッセイや詩を投稿しています。その後、東京帝国大学文学部国文科に入学し、中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊しましたが、重い肋膜炎を患い、3ヶ月ほど休学しました。
芥川龍之介の自殺の衝撃を卒業論文『芥川龍之介論』に書き、卒業後は、1930年(昭和5)に「聖家族」を雑誌『改造』に発表し、文壇で高い評価を受けることになります。
しかし、喀血をして自宅療養したものの、病状が好転せず、3ヶ月間、長野県の富士見高原療養所に入院しました。その後、矢野綾子と婚約しましたが、結核のために富士見高原療養所で、1935年(昭和10)に死去し、その体験が、代表作である小説『風立ちぬ』のモチーフとなったと言われています。
昭和10年代以降は、病気療養をしながらも、王朝文学や古代への関心も深めて『かげろふの日記』、『曠野』、『大和路・信濃路』などの作品も残しました。太平洋戦争末期に信州信濃追分に疎開、その地で療養を続けましたが、 1953年(昭和28)5月28日に48歳で亡くなります。
〇『大和路・信濃路』の旅とは?
堀辰雄は、折口信夫から日本の古典文学について教えを受け、王朝文学を題材にした『かげろふの日記』を執筆しましたが、その頃から日本の古代に対する思いを深め、1937年(昭和12)6月から1943年(昭和18)5月にかけて計6回奈良を訪れています。
それらの旅行を随筆的にまとめたものを雑誌『婦人公論』に1943年(昭和18)1月から8月まで『大和路・信濃路』として連載しました。それに「樹下」を加え、戦後の1946年(昭和21)に、単行本『花あしび』の中に収録されて刊行されたのです。
堀辰雄が大和路や信濃路を歩いた時の感動が伝わってくるような文章で、これを携行して旅した人も少なくないと思われます。
☆随筆『大和路・信濃路』の関係地
(1)秋篠寺<奈良県奈良市>
奈良県奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置し、本尊が薬師如来(国指定重要文化財)、開基(創立者)は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされていますが、山号はありません。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もありますが、現在は単立で、伎芸天立像(国指定重要文化財)と鎌倉時代建立の本堂(国宝)で知られています。伎芸天立像(像高206.0cm)は、頭部のみが奈良時代の脱活乾漆造で、体部は鎌倉時代の木造による補作ですが、よく調和がとれていて、優雅な身のこなしと瞑想的な表情が魅力的で、多くのファンがいます。堀辰雄もこの伎芸天立像に惹かれたようで、感慨深げに述べています。
(2)薬師寺<奈良県奈良市>
飛鳥時代の680年(天武天皇9)に天武天皇が、皇后の病気平癒を祈念して発願し、698年(文武天皇2)に藤原京に創建されたものです。しかし、710年(和銅3)の平城京遷都に伴い、718年(養老2)に現在地に移転されました。南都七大寺の一つであり、興福寺と共に法相宗の大本山でもあります。たびたびの火災などで諸堂を失いましたが、東塔は創建当時の遺構、東院堂は鎌倉時代の再建で、いずれも国宝に指定されています。境内にある薬師三尊像、聖観音菩薩立像、吉祥天画像、仏足石および仏足石歌碑も国宝になっていて、白鳳・天平文化を代表するものです。1976年(昭和51)に金堂、1980年(昭和55)に西塔、1984年(昭和59)に中門、2003年(平成15)に大講堂が再建され、薬師寺式伽藍配置がよみがえりました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。堀辰雄が訪れた時は、伽藍も整っておらず、東塔に惹かれて、相輪の水煙に興味を持ったようですが、天女の姿を見ることができたのでしょうか.....。
(3)唐招提寺<奈良県奈良市>
鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑仁の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。 堀辰雄も何度か足を運んでいるようで、円柱のエンタシスに興味を抱き、感慨深げに印象を語っています。
(4)東大寺<奈良県奈良市>
聖武天皇の命により、奈良時代に創建された寺で、盧舎那仏(奈良の大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂(三月堂)などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂(三月堂)の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されているのです。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。堀辰雄は、特に法華堂(三月堂)の月光菩薩像に魅せられたようで、慈悲深さを印象的に綴っています。
(5)法隆寺<奈良県生駒郡斑鳩町>
飛鳥時代の7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院です。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされています。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、玉虫厨子など、38件もの国宝と151件の国の重要文化財があるのです。また、1993年(平成5)には、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。堀辰雄は、金堂壁画の模写事業を見学し、とても興味を持ったようで、その印象を綴っています。
(6)菖蒲池古墳<奈良県橿原市>
奈良県橿原市の南東部、明日香村との境界に近い尾根筋南斜面に位置する古墳で、飛鳥時代の7世紀中頃に築造されたと考えられています。藤原京中軸線の南延長上に、天武・持統天皇陵と同じようにに位置することから皇族が被葬者と思われ、2基の家形石棺が特異なことなどから、1927年(昭和2)に国の史跡に指定されました。また、2010年(平成22)に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになったのです。 墳丘は、封土の流出や後世の改変によって、横穴式石室の天井が露出していますが、玄室内には南北に2基の凝灰岩製家形石棺を安置されていました。現在は、石室前面の覆屋と扉を設置するなどの整備が行われ、玄室内は柵越しですが、石棺を見学することが可能です。堀辰雄も2回は訪れているようで、古代人の埋葬について興味を持ち、多くを語っています。
(7)野辺山駅<長野県南佐久郡南牧村>
JR小海線の長野県の南端に位置する駅で、標高が1,345.67mで、JRグループの駅及び日本の普通鉄道の駅としては日本最高所に位置しています。隣りの清里駅間には、JRグループの最高標高地点 (1,375m) があり、高原ムードの漂う場所なのです。現在では、夏の避暑地となり、別荘なども建っていて、観光客も多いのですが、堀辰雄が訪れた時代は、そんな状況ではなく、狩猟に来た人々の様子を描写しています。
(8)浄瑠璃寺<京都府木津川市>
京都府木津川市にある真言律宗の寺院で、本尊は九体阿弥陀如来(国宝)と薬師如来(国指定重要文化財)で、1047年(永承2)に義明上人により開基されたと伝えられています。平安時代後期建立の本堂と三重塔(いずれも国宝)が残り、平安時代の寺院の雰囲気を今に伝えているのです。緑豊かな境内は、梵字の阿字をかたどった池を中心にした浄土式庭園で、東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した極楽世界を表現しているとのことです。とても貴重なものなので、1985年(昭和60)に国の特別名勝になっています。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』は、名文として知られ、教科書にも掲載され、知るところの多い一文です。
☆随筆『大和路・信濃路』の中の「浄瑠璃寺の春」の部分
浄瑠璃寺の春
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。
なにもかもが思いがけなかった。――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりのとその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥の啼きごえさえのんびりと聞えていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。「ほら、あそこに塔が見える。」
「まあ本当に……」妻もすこし意外なような顔つきをしていた。
「なんだかちっともお寺みたいではないのね。」
「うん。」僕はそう返事ともつかずに言ったまま、桃やら桜やらまた松の木の間などを、その突きあたりに見える小さな門のほうに向って往った。何処かでまた七面鳥が啼いていた。
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。
僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。
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