日本国憲法のもと、考えられた義務教育は、現在とことん
荒らされてしまい、逆行にまで及んできています。
全国的には不明ですが、身近では、
およそ1965,1966年生まれ以降の方の受けた義務教育は、
憲法を意識した教育が、いったん充実から
急速に無くなるまでになり、
今度そんな世代までに薄れてしまった憲法の共通意識は、
完全に誤りを含める教育に 入れ換えられたとみられます。
これが、どれほど深刻かおわかりでしょうか?
教育には、先生という、統合的な理解や体得をした 人
を介すので、自動改ざんが、もっとも入らない
知識の正確さの、"最後の砦”となるからです。じっさい。
極限まで自由を認めようとしている日本国憲法で、
子供の育成、学校教育だけははずせない、義務の位置付け
だったのは、深く納得のいくところです。
その教育内容や順番は、高度に必須を期したものでした。
いくら、社会の見た目が変わっても、
即応能力で済ませられるものは、
教えそこなってもよいくらい。でも、旧義務教育は、
生きていく社会に欠かせない。
人知は、知れてないことよりずっと少ない事も、
過去からの積み上げてきた知識とその情報が正しいかどうかを見極める能力も、
大半についていなければいけませんし、
数や勝ち負けだけでものを決するのはいけないとわかることも、
ホンモノの教育からしか生まれないようです。
ピアノは、義務教育に、是非含めたかったそうです。
今はわかりませんが、戦後の当時
産めよ増やせよの効果もあってか、マンモス数の子たち
1人1人に、学校で教えることは物質的な無理があって、
ピアノを義務教育にいれるのを、やめたそうです。
その名残か、同学年では
ピアノでなくても小型オルガンだけでも家に置いたという家庭が少なくなかったようです。
わが家庭ではピアノ購入に関してちょっとばかり違っていたようですけど、影響が無かったわけでもなさそうです。
母が子供のとき、学校に初めてピアノがきたときに、
バイエルの14番くらいの、ソーーシーレー♪ってやつを、
代表としてさらって全校生徒の前で弾いたことがあったというので、
なんか歴史を感じます。
ピアノを体得していくことでわかることは、とても多い。
音楽家はほかの楽器でもたいていピアノを弾きこなされますので、基礎にもなっていることでしょう。
最近までに私の感じることは、弾くこと自体よりも、
並んでいるキー1つ1つを、
1人1人で、置き換えて思考する導きがあったのかも
ということです。
自分では今、言えた口でもありませんが、
1音1音、大切に考えているピアノ演奏は、大きな魅力の源です。