経済というものを習うとき、うろ覚えだけども、最初は、「物々交換」ではなかったろうか。それからなんだかんだで貨幣っちゅうもんも出てきます。
何が言いたいかというと、経済はお金がすべてではないということ。
(思えば、この教えは大学の頃、教授の講義にありました。思い出し方が逆になり失礼しました。)
価値観などを量る数字も、なにもお金をベースにしなきゃいけない規定もない。
またもや私の昔の経験だけれど、水泳の練習を終えた後、身体を温めるお風呂が用意されていて、ある日の1度だけ、お風呂につかりながら飴玉をなめさせてもらい
なんと! 極上の味!
とくになんてこともない飴1つだけど。
お湯で要糖分の身体をねぎらっている最中、
思わぬ人から思わぬサービスで。
(ところが、味を占めるまもなく、次からお風呂にすら入れなくなった。今から思えば、原因はあれだ。悪は、同じ飴玉でも思わぬ最悪なことに使ってくる)
どなたもなにか、飴に関して思い出がありそう😊
私もたいがいに。
私において、芸術に関して、実はそんなに手取り足取り教えてもらっておりません。
習得のしかた自体が芸術なので、具体的なことを一から十まででなくともよいと感じられることが少なくない。多くは、実践であるし、優れた(人格の)芸術(家)のそばで、文字に限ってしまわない事から必要を得ていく・・。
すごい芸術品、すばらしいコンサートを体験された方にはおわかりだけど、価値を(既成の)数字だけではつけようがないし、ご提供の立場の方々も、たいていは精一杯に精一杯の価値を見出されることに、ケチに考えることはあまりないんじゃないかと思うし、むしろ喜び合える十分な価値や人柄であってほしい。
芸術は人や自然の対話の1つであったり、情操に作用する簡単には得難かった物事であって、価値という言葉自体、ほんとうは限定にすぎる話になってしまう。
でも、経済と無関係かといえば、そうではない。人間のことだから。
人間や私にいいことからひきずり落とすようなことをしていたのが、悪の存在。
やはり、悪のやりようの特徴というのがあります。
妙になにか類似を林立させたりで極端な皮肉にはめこみ、見た目以上に、或いは見た目と違って攻撃されていること。
これまで、企業が重責を負わされることに関して、噂でも、知るきっかけでも、
その企業で問われるなら、日本中、世界中探しても、どの企業も安全管理や誠意ある業態や品質管理の太刀打ちなんかできないしやりようもないと息をひそめていた、というような共通性が。
だから自分もと言いたいわけでは(ぶるぶるっw)、でもちょっとありますww
宗教だってそう。アイデンティティーが弱くなって、善悪への判断が弱くなっているところ、宗教のしっかりしたところのトップの発言がこれからこそ欲しいというときに、社会的影響力を下げる以上のことに。
よいあり方を、あの方法で、むりやり押さえつけてしまう。。。
経済的なことに戻って
日本は、資本主義をとりいれたけど、かなりを国営が担っていたし、国営とは言わずとも国と協力関係がある、あるいは必要な産業も。
こんな国の経済選択に対し、ガキゴキに、急に資本主義の競争の原理だけが肥大し、
あれよあれよと、国がただの利潤求め企業の1つになり下がってしまったら、国民を騙して悪さしてくる格好に。
やたら民営化させようって始まったときには、もう、そのトップらにおける物事の価値観や政治姿勢がおかしくなっていたのでしょう。
残念ながら、解釈違えたらどエライ事、アダム・スミスの「(見えざる)神の手」は、予告ワード。
おそらく本来、この場合の「神」は、自然のこと、自然な働きのことを言い、恣意的に手をかけずとも の意。
悪の存在があるからかどうしようもなく、手を出すようなオペ(市場介入)も、
充分な国力があるからやれることであって、
正しい政治にはお金が持てない貧粗な政府の国が、やれることがないはず。
もはや能どころか脳無しにして
悪のなりかわり(政府機構)が、良きを退けて判断していいことなど無い。
人々の資金計画の可能性や努力を、なきものにしてしまっても表にはわかりづらい。
(為替や利息など)指標が動くということは、
各所で悪に都合のいいタイミングに持ち込まれ損失が発生したり、例年比較を断ち切ってワンサと誤魔化したり、
またなにより
これまでの輸出入に関する矛盾を、隠していることだろう。
、、身も世も次々なのに、今更な釈迦に説法でした。
(改竄が少しずつあるので、伝わりにくい文章をご覧いただいてしまってます。すみません。)
べっこう飴,まだあるのかな?
食べたいです。
・・・
え、そこ?w