理科の実験で、条件をそろえるというのは、基礎中の基礎。
ところが、本分を忘れだすと、平気でぐちゃぐちゃを言いだす。
料理的なことが化学の及ぼすことではないなどと誤ったセクショナリズムを発揮しだしたり、
(実験自体どうでもよく)力を持つほうの結果ありき通りとか、
報告相手を見くびっていくと、
実際、
それ(本分忘れ)が平然と行われてしまう。
(犯罪者側から催眠術及ぼさずとも、)
偏見の入りそうな体質にされていると、 本分というプライドすら失われてしまうわけだ。
科学者だけを問うているのではなく、科学者が自分たちのやってることをどうせ踏み込まないだろう、わかってもらえないだろう とか、一般にもまだまだ科学と生活を切り離して考えることが多いということでもあろう。
条件を意識するということ、科学的にはどうなのかということ、
スポーツも芸術も同じ。
むかし、CMで「芸術は」…「爆発だ」と、出してあったけど、そう言わされたのをつなぎ合わせたか、言ってないか に過ぎないと思う。
必ずしも一様でなくてもよいとはいえ、いかに揺るぎない基礎(条件)を整えてあるかというのと、それに何の作用がどれくらいつくかという見極めが要るという、科学実験的なことを、すでに誰もが意識せずともやっていることではある。
ところが、人を理解するというところで、異なる条件や経過を考えずにものを断じてしまわれる場面が非常に多くなった。(集団向け催眠術かもしれない。)
そうかと思うと、催眠術的条件反射事項は強くなった。
こうすれば間違いない(改竄されての偏見指示に従う)は、無理矢理でも犯罪勝利をおさめてしまう世であり、万事そのような持っていかれようなので、人が単細胞化して順応するのも、ある意味しかたがない。
提示された、ある時までは確率のよかった一種の占い(虎の威説や紙や画面や場面やクウキ)に、何もかも従ってしまうものだとの豪語に、脳が占拠されてはいないか わかってもらいたいものだが。
(見直し前投稿・・)
~次の記事「声の大きさ その2」につづきます。
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