社会、人間関係の問題にたちはだかるのが、偏見。
偏見の意味を、きちんと正されたのは大学に入ってから。
基本的人権を小学6年で習ったのに比べると遅かったし、それこそ知ってるつもりにしているところだった。
この授業が何かといえば、もしかすると、地区、及び大学学部特有の物だったのかもしれない。
たいてい、こういうものは試験とは関係が無いことになっている・・・道徳教育のようなものだろうか。
もとはと言えば、試験は誰もができる(当然できなくてはならない)事柄では、判定しないからなのだと思う。
単純に出席日数判断するような授業もあるけれども、この授業の場合、そのときは?それも無かった。
教室の広さも、予め(悪い意味で)打算的な人数しか入らないようなことだったか・・
かと思うと、私のような自信過剰目線のヤなやつもいたわけで・・。
でも、聞かされた評判の悪さは まったく感じなかった。
その頃には、基本的人権の重要性や指針を守るためには、存続すべきだった授業の残骸になってしまっていたのだろうか。
横道にそれまくったけれど、
偏見がかたよったと書くのに対し、そのようなあまい意味を指さない で、
(これまた、基本的人権の定義暗唱とはいかないのといっしょで、一言一句的つなぎができないのだけど、)
(過度の)誤った認識を対象にあてはめて(固定して)しまうこと
という、瞬時に人権を奪い去る 強い意味を持つ とのご説明だった。
最近になって気付いたけれども、自分では自分と同じに皆もわかってきていると、つい思い込んでいたら、この字からだけでは、偏見の意味に偏見が入ってしまう。。。
授業で聞いた定義で申せば、私は、無知の知と結び付けたい。
人は誰でも知らないことがある。
(無知の知を、知らなくていいと解釈するオソロシイ例を見た・・・もちろん違って)
真実を知っていかねばならないけれど、どうしたって知れずにいることは必ずあるからマンシン(満心)した決断をするなの意味でのこと。
根本にかかわる偽りが、正統化されるに至ってしまったこんにち、
犯罪者からの偏見製造(ジェノサイド用武器的洗脳体制づくり)だけは、いよいよ盛んに見える。
(てか、こっち来てるっ)
言葉上の話題は、またもうひとつ挙げてみたいけれど、また後の記事に。
*用いる言葉を使った改竄が入っていました。再び何か改竄がでそうです。こういった記事等で改竄が出ないことはなく、その状態でお読みになった方には申し訳ありません。
ご理解未達や少なくとも不快感が残る原因は、犯罪者からの改竄(や、改竄の一種)が存在するからと、考えてもらってまず間違いないと思っております。
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