路上と旅のガラブログ

『VOW』をきっかけに街歩きに目覚めたガラブロの散歩・旅記録たまに過去にまつわる思い出のブログ。

選ばなかったもの、なぜか手放したもの

2024-12-17 23:21:01 | 随筆

最近眼鏡を買った。

眠れない夜中に台所のシンクの電気だけを点けてネットサーフィンをしていて、たまたまずっと探していたものが中古で出ているのを見つけた。

10数年前に必要に迫られて眼鏡を買ったときに、迷って買わなかったうちの一つだった。その頃ウディアレンの映画にはまっていて、彼と似た黒縁を買おうと決めていた。パルコの眼鏡店(店員さんの顔もいまだにうっすら覚えている)で候補を絞り、買ったのはアメリカではなく日本のメーカー、しかも形がウディアレンとは結構離れたものをなぜか選んだ。その眼鏡は今でも気に入って使っているので悪い選択ではなかったが、もう一つの方にしておけばよかったかなと思わないでもなく、しかもその後廃盤になってしまった型なので思い出す度にネットで検索していた。

その眼鏡が中古で出ている。値段も高くない。レンズは交換すればいいが、眼鏡をネットで買ったことがないのでやや不安だ。翌日決めることにして眠りにつく。結局熱は冷めず、これを逃したら次にいつ出会えるかわからないため購入し、レンズも交換した念願の「選ばなかった方」の眼鏡が手に入った。家で得意気にかけていたら、「文化人みたいだね、いとうせいこうとか」と言われた。

数年前から、買い逃したものと手放してしまったものを惜しく感じるようになった。メルカリはその点すごいツールで、ユニクロのリサイクルボックスに入れた数年前のネルシャツと同じ柄がしれっと売っていたりする。眼鏡と同じく、2つで迷って買わなかった方の革ジャンも買った。そしてここ最近はジモティーをメインで眺めている。今探しているのは、昔雑な別れ方をした自転車。

中学1年で、ブリヂストンの自転車を買ってもらった。それまでの小学生が乗るような真っ青のカゴの自転車が小さくなってきたので、自転車屋でカタログをもらってきて毎日眺めて決めたものだった。当時は自転車に乗るのが好きで、道路地図をおともに県境をまたいで遠くへ(あくまで中学生にとって、だ)行ったりしていた。自転車に乗っているときは、自分は自由だと思った。くだらない学校の規則やクラスのいけすかない奴のことを考えなくていい時間だった。その自転車といろいろなところへ行った。雨の日も風の日も、失恋してあてもなく遠くへ行きたいときも一緒だった。

しかし自分を解き放つ存在の自転車に強敵が現れる。エレキギターだ。中学3年で手に取ったギターは自転車に代わり興味のあるもの第一位の座につき、自転車は移動の道具になってしまった。その後生活の足としてしばらく使われたその自転車は、ある日駅前に停めていたら撤去されてしまい、何故だか私はそれを回収しに行かず唐突な別れを迎えたのだった。今になってそのことをとても後悔している。自転車を買ってくれた親にも、その自転車でどこへでも行けると信じていた自分にも申し訳ないなと数年前から心が痛むようになり、今になって同じようなモデルを探している馬鹿さ加減だ。一度心酔したものは、多少の飽きくらいで簡単に別れてはいけない。エレキギターも今は手に取らなくなったが(これも心が痛むが、そのあたりの音楽の話はまたいつか)最初に買ったギターだけは何があっても持っていないといけないなと思う。

今年亡くなった谷川俊太郎の詩に、"本当に出会ったものに別れは来ない"といった一節があるのを最近知った。それは本当だと思う。そして、人生のある時期を一緒に過ごしたけど手放したものや気になったけどすれ違うだけだったものも、最終的には手元にやってくると信じている。眼鏡もネルシャツも革ジャンも、そして自転車も。そう信じて今夜もインターネットの海で、選ばなかったもの、なぜか手放したものを探し続ける。

 


ポイントからの解放

2024-11-18 21:50:33 | 随筆

なぜ、私は向いていないのにポイントを貯めようとしてしまうのだろう。

先日ある集まりで飲食店を予約する必要があり、せっかく時間を使い店を探して予約するんだからグルメサイト(赤い胡椒のところ)でポイントでも貯めてやろうしめしめと思いアクセスすると、

「リ○○ートIDの入力が必要になります」

えー。確かに以前のっぴきならない事情で登録した気もするがIDもパスワードもわからないよ。この試練を乗り越えて手に入るポイント(以下Pと略す)は数百P。一瞬考える。昼飯くらいなら食べられる金額だ。しかし私は試練に簡単に屈した。グルメサイトを閉じ、苦手な電話から逃げ(本当に予約の電話が嫌いなんですよ)、店に直接行き無事予約を済ませた。手に入ったP、ゼロP。

私はPを貯めるマメさが欠けているわりに、時折得をしようと挑戦してしまう。スーパーのPカードを作ったのはいいが、Pを現金に換えて買い物した値段から引ける日に行ったことがない。一回の買い物でそこそこPが貯まる洋服屋のカードは必ず次のシーズンには見つからなくなる。Pを貯めて貯めてこつこつ貯めて、いつか大富豪になる世界線を想像する。大富豪(私)はPカードを管理する召使を何人も引き連れて商店街に買い物に行く。スーパーヨコヅナでは君のこのカード、これこれ次は君の担当のヨンドラッグじゃよそ見をしてるでないぞ。

大富豪のイメージが貧相すぎる。そもそも大富豪は自分では買い物に行かないだろうしカードの存在すら知らないのではないか。いっそ大富豪になる夢が断たれたなら、Pなどいらないと宣言した方が幸せなのではないか。

無○○品週間には、いくら得でも近寄らない。○○会員様は本日○○が無料!翌日買いに行けばいい。祭りの後のがらがらの店内で、心の富豪は時間をかけて小物を探して、買いもしないソファを眺めてみる。財布の中には現金しか入っていません。私はPから解き放たれたのです。

その境地に辿り着けたらと思いつつ、今日も唯一使っているPの貯まるレジでカードを2枚、すぐに読み取りできるよう少し重ねてバーコードを見せる小技を披露するのだった。心の平穏は遠い。

余談だがドン○○ーテではレジの横に1円が入った箱が置いてあり、1人4円まで端数として使うことができた。画期的だなと思い当時よく使っていたのだが、ド○キで働いていた友人いわく今はもうなくなったらしい。

大富豪の家には1円がたくさん入ったバスタブはあるだろうか。たまに体を預けて、苦労時代のことを思い出したり、そうでなかったり。

写真はガラスブロックのパターン:ポイント

 


私の故郷

2024-06-07 00:06:32 | 随筆

先日twitter(未だにXと言えずにいる)を眺めていたら、初夏の水田と電車が写っているツイート(これも未だにpostと言えない)が流れてきた。それは私がずっと住んでいたまちの風景で、故郷を懐かしんだり気にしている己が新鮮だったので、今日はそんな自分の故郷について書きたいと思う。

私の出身は東京都府中市である。里帰り出産で母の実家がある神奈川県で生まれた後すぐに府中に来て、数年前に引っ越すまで住み続けた。こう書くと、長く住んで地元愛があるんですね、と思われるかもしれないが、そんなことは全くなくずっと府中に文句を言いながら結局長く住んでしまったというのが正直なところだ。

府中の名物は、東京競馬場・三億円事件・わけぎ(長ねぎに綿帽子がついた野菜)、他にもあるだろうけどまあそんなところ。都心から京王線特急で30分、駅を離れると住宅街や田畑。典型的なベッドタウンだ。歴史の古いまちなので、保守的で地元の繋がりが強い(ヤンキーや怖い人も多い)。10代から20代の終わり頃まで、そんなところのほとんどが嫌だった。

ところが離れてみて、私にとっての郷愁やノスタルジアの大部分は府中のまちが形作っていることに気づいた。木々や植物が多いまちならではの春の芽吹き、5月頭に行われる大国魂神社のくらやみまつりでの振り切れたような賑わい、通学路の緑道が初夏から梅雨にかけて放つむせかえるような緑と水の匂い。夏にはけやき並木が、照り返すアスファルトからの日差しに対する癒しになり、公園の銀杏が季節の移り変わりを告げ、多摩川の河川敷から寒々しい風が吹く冬が訪れる。

他にもよく遊んだ中央高速道路の高架下やそのそばの団地、大きな道路沿いに並ぶチェーン店とラブホテルの看板など、郊外都市の景色は私にとっての原風景となっている。ガラスブロックの活動をはじめ創作のインスピレーションの源は「なつかしさ」に依るところが多いので、このまちで過ごした時期が今を支えてくれていると言っても過言ではない。

つまらないまちなんてどこにもないと、路上観察を始めて気づいた。自分が何者にもなれないのは、このつまらないまちにいるせいだと思っていた。それは大きな勘違いだった。面白さが見えていなかったのだ。そして面白いことに向かっていく気持ちが足りなかったのだ。あの頃つまらなかったのは、そして何もなかったのは、まちじゃなくて自分自身だった。

最後に府中の名物をもうひとつ紹介したい。2000年前の遺跡から発掘された種を育てた「大賀ハス」である。市内の数か所の公園で見られるはずだ。見頃は6月から8月、市のホームページで確認して、機会があれば私の故郷を訪れてほしい。

6/20 追記

数日前に帰省したのでハスを見てきた。市民プール向かいの公園である。

もうそろそろ花は満開かもしれない。梅雨が本格的に始まる前に是非。


唐先生について

2024-05-14 17:42:00 | 随筆

2024年5月4日、劇作家・俳優の唐十郎が亡くなった。私は観劇をほとんどしないので、劇作家で知っているのは唐十郎、蜷川幸雄、野田秀樹くらいしかいない。そんな人間が今回の訃報に動揺したのは、人生のごく短い時期の同じ空間に何度か居合わせたことがあるためで、今回はその思い出を当時の日記を参照しながら綴りたい。冒頭にも述べたように、演劇論などはまったく書けないし演劇を愛する向きには的外れな、ともすれば不快な表現も混ざるかもしれないことを最初に断っておく。

大学4年前期の2カ月間、私は唐十郎の生徒であった(そのため以下「唐先生」とする)。唐先生は私の大学の卒業生で、同じ学部の大先輩にあたる。その縁で演劇学科が客員教授として唐先生を招聘し「演出論A・B」という講義を担当することになった。私は学部こそ同じ文学部だったが史学系の学科だったため必修ではなかったのだが、講義要項が発表されたときはとても話題になっていて、何だか面白そうだからいってみようかな~くらいの軽い気持ちで履修を決めた(最初は読み方も知らなかった。「トージューロー?」とか言ってた)。

2012年4月11日水曜日、昼休みの前に大学へ行くと同じクラスのUと出くわした。同じく演出論Aを受講するというので、昼飯でも食おうか?と大学の近くにある行列で有名な讃岐うどんの店に行くことになった。ちなみにUはクラスを越えて学科でも人気があるきれいな女性で、それまでグループで遊んだことはあっても2人で食事などしたことはなかった冴えない友達も少ない男子学生の私はやたら緊張してしまい、うどんを食べながら話しているときに揚げ玉が口からぴよっと飛び出してしまったのが恥ずかしかったことを覚えている。

うどんを食べ終えて3限が始まる前に教室へ向かうと、座り切れず立ち見が出るほどの学生で教室は溢れていた。教卓の横にはテントのような布が吊り下げられていて、初めて見る光景にこれから何が始まるのかと期待をふくらませた。講義の内容については私の不確かな記憶よりもこの記事を参照していただきたい。ちなみに若き日の私も小さく写っている。

唐十郎文学部客員教授が明大で初講義 | 明治大学

このように大盛況で幕を開けた講義であったが、大学という場所の常で初回ないし4月中は出席しても、その後は顔を出さなくなる学生も多いもので、演出論Aも例外ではなかった。そもそも立ち見が出る時点で教室の規模を見誤っていたはずで、人数が減りようやく通常の講義らしくなったなと思っていた。だが唐先生の熱量と学生の受講態度の温度差はのちに悲劇を生みだしてしまう。

唐先生の第一印象は「怖い人」だった。講義中には演劇論や自身の体験、同時代の演劇人のエピソードを語った。ともに作品を作りあげた小林薫・麿赤児ら、山下洋輔や土方巽など関わりのあった人物、確執があったとされる寺山修二などビッグネームの名が頻出した。にこやかに話していたが、唐先生の目は笑っていなかった。「目が笑ってない」という表現が初めてしっくりきたのはこのときかもしれない。様々な修羅場をくぐり抜けたが故の表情というか、理解できない凄みのようなものを感じた。講義内容は今となってはほとんど忘れたが、「本物」の醸しだす雰囲気やある種の狂気を間近で見られたことは貴重な体験であった。

日記と記憶によると、唐先生は学生に対して3回怒り、そのうち2回は講義を途中で切り上げている。

①携帯の着信音を鳴らした学生を立たせて怒る。「授業と携帯は違うだろ!」と急に怒ったことで学生は顔面蒼白、聞いている私まで胃が痛くなる。その後表情を和らげ「おれは携帯が全然詳しくないんだよ、気をつけてな」と優しく言ったのも怖かった。

②講義を途中で切り上げ教室を出たきり戻らない。理由は日記に書いてないのだが、講義をさぼって喫煙所にいた友人が、唐先生が喫煙所にいたよ、と報告してきたことだけ覚えている。

③講義と同時期に劇団唐組の公演が行われていた。もう観た人いるかな?と聞いたが挙手した学生はまばらだったため怒って退出。演劇学科の教授がやや困りながら、唐先生の講義を受けられるチャンスなんて滅多にないんだからもっと積極的に取り組まないともったいないよ、と語りかける。私はもちろん観てない側だったのだが、教授の説得にそれもそうだなと思いイープラスでチケットを取った。

6月2日、雑司ヶ谷・鬼子母神へ向かう。赤テントの張られた夕暮れの鬼子母神は異界のようで少し怖い。この公演は劇団唐組による『海星』だったが、唐先生が怪我で急きょ出演できなくなった珍しい回で、私の初めての唐十郎演劇は本人不在という何だか不思議な結果となった。演劇自体は舞台との距離の近さに圧倒された。唾が飛んでくるんじゃないかと思ったくらい。役者が登場したときに客席から名前が呼ばれる(落語の○○屋!みたいな感じ)のもかっこよかったし、何より途中で男性の役者が全裸になっていた(局部は手で隠していた)のはアングラってこういうことなのか~と度肝を抜かれ、帰りの池袋駅のバーガーショップで余韻を噛みしめた。

翌週の演出論の講義に唐先生の姿はなかった。唐先生は体調不良のためしばらく講義を欠席されます、続きは私が担当します、と教授が説明した。その場で明らかにされたか忘れてしまったが、持病の薬を飲んだ際に飲酒したことが災いして転倒し今は集中治療室に入っているとのことだった。誰もが驚いていた(教授だってそうだろう)。こうして唐先生の教えを受けた2カ月弱は終わりを告げた。私は翌月のレポートに適当なことを書いて単位を取得し、演出論Bの履修は取り下げた。

あれから12年。結局私が演劇に足を運ぶことはなく、役者としての唐十郎は永遠に観ることができなくなった。唐先生、あのとき先生不在の『海星』観ましたよ。的外れな感想言ったら教室で怒られてたかな、どうか安らかに。不出来な生徒より。


祖母の思い出

2023-03-07 17:46:16 | 随筆

1月末に祖母が亡くなった。

1年ほど前から認知症を患っていた祖母は、昨年末に自宅で骨折して救急搬送され、入院中にコロナに感染したのち誤嚥性肺炎を発症、みるみる体力が落ち最期は心不全で不帰の人となった。およそ1か月の間だったが、祖母と祖母の身のまわりの世話をしていた両親にとっては目まぐるしい日々だったと思う。

亡くなる3日前に母から連絡が来た。容体が思わしくなく2・3日が山になりそうとのことだった。病院の面会はコロナで厳しく制限されているが、特別に病室に入ることができるがどうするかと聞かれる。この時点で、祖母は相当危うい状況なのだろうと推測できた。母に電話をすると、焦りか疲れなのかてんで話が噛み合わずこちらの気が急いただけだった。反対に父はいたっていつも通りで泰然としているように電話口では感じた。病状と今後を整理して、「ということです」と閑職の大学教授のように鷹揚に話をまとめた。

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翌日、妹と病院の最寄り駅で集合して面会に向かった。しばらく降りていなかった駅だったが、新しく古本屋ができていたのには驚いた。

休診日の病院はがらんとしていて、缶コーヒーをロビーで飲んでいると、子どもの頃によく通っていた病院の薄暗い廊下を、似たような自動販売機の淡い光が照らしていたことを思い出す。

テキパキとした看護師に病室まで案内され、ビニールのエプロンと手袋を着けて部屋に入る(防護服を着ると聞かされていたので拍子抜けした)。ベッドが4人分は置けそうなやたら広い部屋の入口近くのベッドに、さまざまな器具に繋がれて酸素マスクをつけた祖母が横になっていた。

部屋にいたのはほんの10分ほどだったはずだが、ほとんどの時間私は涙を流していた。そのときの感情を今振り返るのは難しいが、一番の理由はずっと元気だった祖母が枯れ枝のようにやせ細り、会話どころか呼吸もままならず時折顔を苦痛に歪ませている姿が信じられなかったからだと思う。

まるで何をしにきたかわからない私を横目に、妹は一緒に住んでいた頃のように話しかけ、看護師の許可を得て手指にニベアクリームを塗っていた。頼もしかった。

昨年結婚したことをまだ直接報告できていなかったのでそれを伝えなくてはと耳元で「結婚した!○○は、結婚しました!」と、何度も言葉に詰まりながら、南米に住む極彩色のオウムのように叫ぶと、「はあ」とか何とか言ったあと「おめでとう」と返してくれた。「おめでとうございます」なんて言われたら他の誰かと勘違いしている可能性があるが、おそらく伝わったのだろう。そう信じたい。2人で「また来るね」と言って、遅れて到着した叔母といとこに順番を譲った。「また」がもう訪れないことは、自分も妹もわかっていた。

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祖母は昭和ひと桁年に鹿児島県の南端で生まれた。幼い頃に母を亡くし、継母となったのは母の妹、すなわち叔母で(この結婚形態はソロレート婚と呼ばれるそうだ)、20年以上前に私も電話で一度話したことがある。父は昔で言う名主で、戦時中でも旧日本軍の兵士がこっそり砂糖や物資を置いていくなど暮らしぶりは悪くなかったらしい。このあたりは秋田の寒村でひもじい思いをしていた祖父とは対照的である。鹿児島県南部には有名な知覧飛行場があったが、祖母の住む地域は空襲の被害もなく、川で髪を洗っていたら(昔話ではない、つい最近まで一緒に住んでいた祖母が川で洗髪していたのだ、アメージング!)米軍の飛行機が降伏を勧めるビラを撒いていったなどの牧歌的な話ばかり聞いた。もちろん、戦争は悲惨で二度と起こしてはならないものだと祖母は言うが、多感な10代で終戦を迎えた高齢者は青春のようにその時期のことを語る人が少なくないと思う。

戦後の土地改革で恐らく祖母の家も往時の勢いを失ったのだろう。祖母の姉は国外に活路を求め、移民としてドミニカへ渡った。苦労を重ねながら農園を営み、結婚もして子や孫たちに囲まれ「総督」とあだ名されるほどの成功をおさめた。何ともしびれる話しだ。

一方祖母は20歳になる頃に大病をし、一時は生死の境をさまよう。そのときに三途の川が見えたやら、亡くなった親戚たちの声が聞こえたやら、寝ている部屋に小さなひよこがやって来てそれを見ていると意識が戻ったやらいろいろな話を聞かされたのだが、どれがどこまで本当かは今となってはわからない。ひとつ確かなのは、その後70年の間祖母はほとんど病気をしない健康体だったことだ。

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土曜日の朝、電話のベルで目覚める。着信が母からであるのを確認してすべてを察した。早朝のことだったそうだ。遅れて父からも連絡が来た。このときも変わらず泰然としているようだった。父は、一人のときはわからないが少なくとも誰かに対して急いでいるところや焦っている姿を見せることはまずない。不思議と悲しみはなかった。弱った祖母を病院で見たときに、すべての悲しみや動揺を使い切ってしまったのかもしれない。

その日は用事があり人に会って話したりしたのだが、祖母のことは伝えなかったしいつも通りの週末を駆け抜けた。葬儀までの1週間は普段と変わらない日常を過ごした。いや、過ごすよう心がけた。一回だけ感情が溢れてしまったことはあった。葬儀の前日に以前から決まっていた用事があり、それを無事終えて気心の知れた人たちと酒を飲んでいたときだ。後半の記憶が定かではないのだが、後で聞くと事実を端的に伝えて涙を流していたらしい。それを受け止めてくれる友人たちと良い時間を過ごせることを、祖母も喜んでくれるといいと思う。家に友達を連れてくると、「友達がたくさんできてよかったね」と言っていたときのように。

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祖父の話もしよう。前述のとおり秋田の田舎の出身で、何人かいる兄弟の何番目かだった祖父にとって、集団就職は自然な選択だったのだろう。

二人がどのように知り合い、結婚したのかはよく知らない。ただ、自分が知る限りでは二人が愛情に恵まれた夫婦関係を築いていたようにはとても見えなかった。父と叔母が小さかった頃には離婚の話が出たり、何かと言い争いの絶えない関係だった。祖父は酒飲みで、酔うと説教をしたり余計なことを言う癖があったが、そのくせ内弁慶で大事なところでは気が小さい面も持ち合わせていた。自営業をやっていた祖父が、支払いを渋るような客に強く出られずうじうじしているとき、相手がどんなに厄介で怖いタイプでも直接文句を言いにいくのは祖母の役割だったそうだ(私が祖母を豪傑と呼んでいる理由の一つである)。こう書くと祖父がどうしようもない人間に見えてくるが、欠点ばかりではなく普段は面倒見の良いじいちゃんだったなと今は思う、と名誉のために追記しておく。

ともあれ、二人は祖父の死によって別れるまで連れ添い、私をはじめ孫たちにも恵まれた。結婚や夫婦というものはとても難しい。

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誰にとっても人生のなかで美しい時代がある。祖母にとっては大病を克服した後の20代前半がそうだった。

病気の詳細はわからないのだが、日本の南端鹿児島では治療のできないものだったらしく、知り合いのつてで医者を頼って上京する。決断は正しく病は快方へと向かい、東京に残った祖母は学生寮の食堂で働き始める。このおかげか祖母はとても料理が上手く、毎年のお節料理もほとんど自作していた。認知症を患ってからも周囲をひやひやさせながら自分の食べるものは作っていたが、医師の診断によれば料理ができるような脳の状態ではなかったらしく、行動はすべて体に刷り込まれた反射だという。それだけ体に染みついていたのだろう。

話は戻り、学生寮では同世代の大学生たち(後の高度経済成長期を支えることとなる優秀な人たちだったそう)と交流を持ち、いくつかの甘酸っぱい話があったそうだ。1953年、映画『第三の男』が公開されたときに、寮の大学生の一人と連れ立って映画を観に行った話は何度も聞いた。とても素敵な男性だったようで、言葉の端々から好意が伝わってくるような話ぶりだった。その人とは結局どうなったのか一度尋ねたことがあったのだが、返ってきたのは「身分が違ったの」という一言だけだった。そして「○○ちゃん、葬式では第三の男の終わりの曲を流してちょうだい」と言ったことを、私は14年もの間忘れずに覚えていた。

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電車とバスを乗り継いで向かった葬儀場は、18年前に祖父を見送ったとき以来久しぶりに訪れる場所だった。

映画『エデンの東』のテーマが流れる会場に入ると祭壇に遺影と棺が飾られていて、その横にパイナップルやバナナ、八朔など色とりどりの果物が置いてある落差が何だかおかしかった。いつも通り飄々とした父と対照的に母は憔悴しているように見えて、関係ない話をしたり時折背中をさすったりしていると、自分は慈しまれる側から気遣う側へいつしか変わったのだなと思う。

菩提寺の住職の読経はモンゴルのホーミーを思わせる独特な声色だったが、残念なことに喉の調子が悪かったようで何度か咳払いをしていて、式場の空気が薄く感じたのと寝不足でぼーっとする思考はその度に現実に戻された。告別式と初七日法要を続けて済ませた後、棺に花と写真を入れた。花はやたら数が多く、化粧を施されて別人のように見えた祖母はたちまち花畑の中にいるようになった。加えて祖母の父(自分にとっては会ったことのない曾祖父)、姉(総督)の写真を飾った。そこに夫(祖父)の写真がないことは誰一人咎めなかった。祖母の望みの『第三の男』のテーマは、最後の別れには不釣り合いな陽気さだったが、かえってしんみりしすぎずよかったと思う。ウディアレンの映画のように喜劇的でさえあった。

室内の火葬場にはボイラー(というのか?)がいくつかあって、同じ日に焼かれる同期たちの遺影も見えた。火葬場に行く前に妹が涙を流しているのがわかって、人が悲しみや別れを感じるタイミングはそれぞれなのだと思う。一旦食事を終えて、骨を拾うために再び火葬場の隣の部屋に向かう。葬儀社の人が骨を銀の台の上に並べ、順番に骨壷に入れていく。これはかかとの骨です、などと解説をしてくれたため、私たちはその度に感嘆の声を上げた。骨が緑色になっているところが気になったので質問すると、花の色素がついたからとのことだった。小さいほうきとちりとりで粉まで集めてしまうと、祖母はすっきり骨壷の中に収まった。誰もくしゃみをしなかったのが幸いだったと思う。

すべてを終えて外に出ると、雲一つない快晴だったが風がありとても寒かった。その日はどっと疲れて、他のことは何もできなかったが、持ち帰った祭壇の果物たちは数日をかけて我が家のデザートとなった。

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先週末に四十九日の法要を終え、少なくとも私は気持ちの整理もつき、徐々に祖母の死が過去のことになっているのを感じる。この記事は葬儀が終わった1週間後に書き始めたので、生活の雑事にかまけながらちびちび書いていたら1カ月もかかってしまったことになる。人生は短い。もっと生き急ぐくらいが怠け者の私にはちょうどいいのかなと思う。

寺で見た梅と鯉。1カ月半が経ち、季節は春になった。

告別式と四十九日の両方で住職が話していたのは、人は必ず最期を迎えること、そしてそれを残された人がどう感じて生きていくかが大事ということだった。この記事は、自分が祖母の最期をどう感じたかを後で振り返るための備忘録である。同時に、自分が知る祖母の歩みをできるだけ記録しておきたいと以前思いつつも結局形にすることができなかったことへの罪滅ぼしでもある。最後まで読んでくださった方に感謝を捧げたい。そして今祖父母が元気な方は、できるだけ多く思い出が作れるよう祈って、記事の終わりとしたい。