最近眼鏡を買った。
眠れない夜中に台所のシンクの電気だけを点けてネットサーフィンをしていて、たまたまずっと探していたものが中古で出ているのを見つけた。
10数年前に必要に迫られて眼鏡を買ったときに、迷って買わなかったうちの一つだった。その頃ウディアレンの映画にはまっていて、彼と似た黒縁を買おうと決めていた。パルコの眼鏡店(店員さんの顔もいまだにうっすら覚えている)で候補を絞り、買ったのはアメリカではなく日本のメーカー、しかも形がウディアレンとは結構離れたものをなぜか選んだ。その眼鏡は今でも気に入って使っているので悪い選択ではなかったが、もう一つの方にしておけばよかったかなと思わないでもなく、しかもその後廃盤になってしまった型なので思い出す度にネットで検索していた。
その眼鏡が中古で出ている。値段も高くない。レンズは交換すればいいが、眼鏡をネットで買ったことがないのでやや不安だ。翌日決めることにして眠りにつく。結局熱は冷めず、これを逃したら次にいつ出会えるかわからないため購入し、レンズも交換した念願の「選ばなかった方」の眼鏡が手に入った。家で得意気にかけていたら、「文化人みたいだね、いとうせいこうとか」と言われた。
数年前から、買い逃したものと手放してしまったものを惜しく感じるようになった。メルカリはその点すごいツールで、ユニクロのリサイクルボックスに入れた数年前のネルシャツと同じ柄がしれっと売っていたりする。眼鏡と同じく、2つで迷って買わなかった方の革ジャンも買った。そしてここ最近はジモティーをメインで眺めている。今探しているのは、昔雑な別れ方をした自転車。
中学1年で、ブリヂストンの自転車を買ってもらった。それまでの小学生が乗るような真っ青のカゴの自転車が小さくなってきたので、自転車屋でカタログをもらってきて毎日眺めて決めたものだった。当時は自転車に乗るのが好きで、道路地図をおともに県境をまたいで遠くへ(あくまで中学生にとって、だ)行ったりしていた。自転車に乗っているときは、自分は自由だと思った。くだらない学校の規則やクラスのいけすかない奴のことを考えなくていい時間だった。その自転車といろいろなところへ行った。雨の日も風の日も、失恋してあてもなく遠くへ行きたいときも一緒だった。
しかし自分を解き放つ存在の自転車に強敵が現れる。エレキギターだ。中学3年で手に取ったギターは自転車に代わり興味のあるもの第一位の座につき、自転車は移動の道具になってしまった。その後生活の足としてしばらく使われたその自転車は、ある日駅前に停めていたら撤去されてしまい、何故だか私はそれを回収しに行かず唐突な別れを迎えたのだった。今になってそのことをとても後悔している。自転車を買ってくれた親にも、その自転車でどこへでも行けると信じていた自分にも申し訳ないなと数年前から心が痛むようになり、今になって同じようなモデルを探している馬鹿さ加減だ。一度心酔したものは、多少の飽きくらいで簡単に別れてはいけない。エレキギターも今は手に取らなくなったが(これも心が痛むが、そのあたりの音楽の話はまたいつか)最初に買ったギターだけは何があっても持っていないといけないなと思う。
今年亡くなった谷川俊太郎の詩に、"本当に出会ったものに別れは来ない"といった一節があるのを最近知った。それは本当だと思う。そして、人生のある時期を一緒に過ごしたけど手放したものや気になったけどすれ違うだけだったものも、最終的には手元にやってくると信じている。眼鏡もネルシャツも革ジャンも、そして自転車も。そう信じて今夜もインターネットの海で、選ばなかったもの、なぜか手放したものを探し続ける。