

チャンス大城の何とも波乱万丈すぎる生き方
村田 らむ:ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター
「正直、一昨年まではこのまま人生終わるんだなって思っていた」と話すチャンス大城さんが、きっかけをつかむまで送ってきた日々とは(筆者撮影)
これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第50回。
チャンス大城さん(43)は、自身が経験してきた強烈なエピソードを披露して笑いを取る芸人である。
【写真】波乱万丈な人生を送ってきたチャンス大城さん
現在はよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属しているが、それ以前には長らく無所属の時代があった。芸人はフリーランス要素が強い職業だが、どこの事務所にも所属していない人は珍しい。
大城さんに、これまで歩んできた道のりを伺った。
「尼崎の中ではまだまし」と言われる場所で育つ
大城さんは1975年、兵庫県尼崎市に生まれた。
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「当時の尼崎はかなりガラが悪い地域でした。でも僕が生まれた町は『尼崎の中ではまだまし』と言われる場所でした。それでも十分怖かったですけど(笑)」
父親はブラジャーの金型工場で働く職人だった。
「僕の芸風からか、すごい貧乏な家出身だと思われることが多いんですけど、実は中流家庭でした」
両親は熱心なクリスチャンで、毎週日曜日に教会に通っていた。大城さんも大城アントニウス文章という洗礼名を持っていた。
「ミサで侍者とかやっていましたね。ワインを持ったり、鈴を鳴らしたりしていました。教会では子どもたちに見せるための劇を、大人たちが演じていました。それには両親も出演していました」
母親は、マリアが馬小屋でイエスを産むシーンに登場した。
「母親はヤギの役でした。前に出たがる性格で、セリフをしゃべるマリア様の横で大声で『メー!!』って鳴いて注意されてました。
父親はガリガリにやせていてヒゲも生やしていたので、十字架にかけられたキリスト役を演じることになりました」
舞台のクライマックス、キリストはやりで突き刺されて絶命し天国に行く。皆興奮して、
「イエスさま!!」「イエスさま!!」
と口々に声援が飛んだ。
「母親が興奮しすぎて『お父さーん!!』って叫んじゃって台なしになってました。めちゃくちゃ受けてましたけどね(笑)」
心臓が右にある
小学1年生の内科検診の時、医者が聴診器を大城さんの胸に何度も当てた後、首を傾げ「中止や!」と叫んだ。ほかの医者を集めて皆で大城さんの体を診断した結果、
「心臓が右にある」
とわかった。
「内蔵全部が逆向きでした。その時は『ああ、死ぬんだな』と思いましたね。でも結果的に生きていくうえで問題はなかったです」
ただ心停止の際に使用するAED(自動体外式除細動器)を当てる位置は逆になってしまう。
「千原せいじさんには身体にタトゥーで『心臓の位置が逆なのでココとココにつけてください』って書いておけって言われたんですけど。タトゥーしたら温泉入れなくなるから嫌なんですよね(笑)」
心臓が右であることはその後たびたびネタにしたし「右心臓800」「昭和右心臓」とコンビ名にもした。
「小学校の時は、アトピー性皮膚炎がひどく包帯を巻いて学校に通ってました。同級生には『ミイラマン』と呼ばれてからかわれました。成績も最悪で、小学校5年まで九九ができないくらいアホでした。ずっといじめられてました」いじめられなくなったことが、芸人になろうかな?と思い始めるきっかけに(筆者撮影)
大城さんは5年生のクラスのお楽しみ会で「F1のモノマネ」をした。口で「ブーンブンブーン」とF1の走行音を模写するオリジナルの芸だ。
「それがすごい受けたんですよね。そしたらいじめられなくなりました。それまでお笑いをやろうなんて考えたことなかったんですけど、その出来事がキッカケで芸人になろうかな?と思い始めました」
いったんいじめは収まったが、中学校に入って再び始まった。当時は中学生になって不良になる子も多く、みんな怖い雰囲気になっていた。