吉村昭氏の「海の史劇」
司馬遼太郎氏の「殉死」
池波正太郎氏の「将軍」、「賊将」
を読んで
つらつらと想いを巡らす。
書きながらまとまるだろうか…?と
思いつつ。
征韓論は、岩倉卿、大久保卿などが
列強諸国との国力の違いを実見し
新政府となった当時の日本体制は
脆弱であることを痛感し
まずは、内国強化をはかるべしとの
論を押し通し
全権大使として朝鮮に説得に行き
無碍の場合は開戦もやむなしとする
西郷を故郷鹿児島に下野させる要因
となった。
が、列強の清国、朝鮮に対する
不平等な侵攻を企てる情勢は
日本に刀の矛先を向けた形の
小さな海ひとつを隔てた
朝鮮半島を我がものとする
意図は明白であり
その後は日本への干渉は
明らかだっただろう。
その後国防上、日本はロシアの圧迫に
対抗せざるえず、開戦に踏み切る。
時の天皇(明治天皇)は
度重なる御前会議で
何が「民」のためになるかに
呻吟を尽したという。
今回、読んだ本は、いずれも
今の世界で起こっている事を意図して
選んだものではない。
ぼくの、その時の感覚(直感)で手に
とったものだ。
著された時期も古いものだと
50年以上前となる。
何が心に刺さったかといま再度
自分に問うと
「聖将」、「軍神」、「無能」と
呼ばれた
乃木希典将軍である。
海の史劇は、日本海海戦の
史伝となるので乃木将軍への
記述は多くはない。
難攻不落と呼ばれた旅順要塞へ
あくまで肉弾戦で挑み、何万人の
同胞(乃木将軍の長男、次男も)を
死中に投入する場面を簡潔に感情を
抑制して描く。
参謀総長であった児玉源太郎は
総司令官を乃木将軍と交代せよと
大本営から言われるが
乃木将軍の性格を熟知していた彼は
乃木将軍が切腹しないように
将軍の体面を重んじた作戦指揮をとり
203高地を陥す。
乃木将軍への内面に切り込まず
事実として記す。
殉死の司馬遼太郎氏では
美徳と無能となる。
それまで、聖将、軍神と呼ばれた
将軍を無能としたのは当時としては
衝撃だっただろう。
大学生のころ、殉死を読んだのだが
美徳よりも無能(戦争指揮官として)
の印象が鮮烈に残っていた。
これも狂人ともとれる
ただただ、肉弾戦で正面突破を
計る描写からだ。
美徳は、敗将ロシアステッセルとの
水師営での会見である。
将軍はステッセルに帯剣
を許し、従軍記者に会見中の撮影を
厳禁したという。
なおも懇願する記者に対して
会見終了後、同列に並んだ写真なら
一枚だけ撮ってよいと言ったくだり
だったと思う。
(30年以上前なので完璧ではないが
主旨は違えてないと思う)
将軍の池波正太郎氏では
乃木将軍を部下が「おやじ(司令官)」
と呼ばせている。
無論直接は「閣下」である。
そして、西南戦争で
不可抗力だったとはいえ
軍の命ともいえる「軍旗」を
西郷軍に奪われて、切腹しようとし
その後30年に渡り「死処」を将軍が
求めている姿を将軍の内面に
陰影をつけて、読者に語りかけている
ように感じる。
それは「聖将」「軍神」「無能」ではなく
己の弱さを克服し、死処を求め
一介の「武人」として
己に忠実であり、部下に愛情をもって
接し、敵将ステッセルを誇り高き
「武人」として誠を尽くし、水師営の
会見で将軍からの贈物の返礼として
ステッセルが贈ろうとした
「白芦毛のアラビア馬」を
馬は武器であるので、直接は受け取れ ないと言い、然るべき手続をとった上
で頂くとする律儀で誠実な
「おやじ(司令官)」乃木将軍だろう。
そして、長男、次男の戦死に
対して司令官としての
「軍人ならば光栄なこと」と毅然とする
将軍と
父親としての
「ロウソクを消し、ひとり部屋で横たわる」
将軍がいた。
池波正太郎氏は
文中でこう言う
「人間と人間が、その力と精神の美
をもって、闘い合う戦争はこの日露
戦争をもって終焉を告げたと言っていい」と。
三氏の描く
人物像に甲乙つけるつもりなぞ
毛頭なく
どれもぼくにとって、心がことりと
動く作品だ。
そして、乃木将軍という
誠実に律儀で慈愛と己に忠実である
明治の気骨に触れたのがなによりも
静かな感動を与えるのだ。
理論、理屈、各国の利権、思惑
そんな戦争は懲り懲りだとも。
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