数か月前、私は故郷の田舎に戻ってきた。
ことのおこりは両親の急な逝去だった。
まず父親が先立ち、後を追うように母が逝くと、それなりの大きさの田舎の一軒家を相続する人間は、私しか存在していなかった。数少ない親類縁者も全て付き合いを断っているような状況では遺産相続の争いすら発生せず、築四十年の古びた家は、大きなトラブルもなく私名義の財産となった。
私の生まれ故郷はいわゆるド田舎で、本屋はおろかコンビニすら、徒歩で移動出来る圏内には存在していなかった。ずっと都会暮らしをしてきた私には、これはなかなか堪える事実だった。
考慮した結果、私は小型自動二輪免許を取得した。大きな自動車も父から相続をしていたのだが、いかんせん私が乗りこなすにはクセが強かった。私は、父が車に対して強いこだわりを持っていたことを、ずっと知らなかった。あんなにも一緒に過ごす時間があったというのに。
「これで良し。食材はまとめて冷蔵庫に入れよう」
数十年ぶりの実家での一人暮らし。戸惑いは大きかった。元々一人の暮らしには慣れていたとは言え、田舎は何もかもが都会とは違う。とりわけ当惑したのは、ご近所の人たち(といって距離自体は離れているのだが)の好奇に満ちた視線と噂話だった。が、それもほどなくして収まり、今では静かなものだった。
「小麦粉卵に、じゃがいもまぶして」
鼻歌を歌いながら料理をする。遠くから鳩の鳴く声が聞こえる。ここでの暮らしを選んだのには、私自身の仕事にも関係があった。長年、パソコンを使った仕事に携わっていたのだが、母の葬儀の数か月前、ネット環境を整えて、在宅での勤務に取り組む準備がようやく出来ていた。虫の知らせというのだろうか? どこか、ずっと都会では暮らせないかもしれないという予感はあった。
「あげれーば、ころっけだーよ」
うろ覚えの歌をうたを口ずさむ。母親にはくだらない歌を歌うなとよく怒られたものだ。この台所は、その頃となにも変わらない。
「きてれーつかんせいー」
コロッケの完成である。手早く皿にならべ、冷凍しておいた白米を電子レンジで解凍して茶碗によそう。
「いただきます」
テーブルには今も父と母が座っているような気がする。だが、そんな訳はない。私は自分のたわいもない妄想を笑い、テレビをつける。
「・・・感染は現在も広がっており、都市部の壊滅は・・・」
そう。母は、数か月前にはじまった疫病の流行でこの世を去っていた。母自身は最後まで、自分の身に何が起こったかすら分からなかったようだ。私用の携帯電話に私が病院から知らせを受けた時には、医者が母親に行える治療は既に全て終わったあとだった。
「・・・世界での収束の目途も立たず、南極大陸を残す全ての大陸が・・・はやければ残り数か月」
世界を覆うガーベラウイルスによる疫病の大流行。最初にそのニュースを目にした時は、SF映画のようだと思っていた。大慌てで買い出しに行ったと電話で話す母親に私は「バカじゃないの? お金がもったいないよ」と冷たく言った。
もっと、優しい声をかければ良かった。最後にあんな言葉しか言えなかったなんて。
茶碗と皿を置き、ごちそうさまと独り言を言う。母の教えてくれた数少ないレシピはメモに残し、忘れないように日々役立てている。すべてにおいて、私は忘れっぽいのだ。
テレビのニュースでは外出禁止令の継続が伝えられている。母の墓すら、もう容易に訪れる事は出来ない。ウイルスが日本全土を覆い、感染が蔓延している。当初、飛沫感染に限定されると言われたウイルスの特性は、暑い季節の訪れと共に変異を起こし、もはや外出しただけでも、感染の危険性を持つようになっていた。
「さてと」
食事を終えた私は自室に移動し、パソコンを立ち上げ、いくつかのフォルダを開いた。全てのブラウザは即座に反応し、素早く起動する。
「三日ぶり。元気だった?」
中年男性の声がスピーカーを通して部屋に響く。どこか、父の声に似ている太い声だ。
「そっちは健在? まだいけそうだな」
リアルタイムチャットの通知が点灯する。
「シドニーはほぼ封鎖状態です。配給は問題無し。今のところはですが」
「アメリカはデモ継続中。人数の減少が顕著」
「ハローYUKIE。調子よさそうだな。ブラジルは今日もひどいありさまだ」
ビデオチャットの画面が連続して開き、様々な国の言語が一斉に伝わってくる。
私の部屋は、ここ数か月の改装により、ちょっとしたオフィスと化していた。三台のパソコン専用モニター。サーバー用PCとノートPCが数台。資料を保存するHD。実家にずっと残していたレトロゲーム機すらも、その電源を点灯させ、唸りを上げている。
「それじゃ、今日もお仕事始めましょうかね」
キーボードを打つ。リアルタイムで画面に反応が起こる。情報は拡散され、伝達される。専門家を通して、その情報は裏付けられ、信用度を高め、そしてまた拡散される。
「作戦名 operation・Resurrection day 参加者名 K YUKIE」
世界のそれぞれのパソコン上には、いま、同じ通知が表示されているはずだ。現在の参加者は13万1256人。サーバーが持つギリギリの数字だ。
とある民間企業が立ち上げたこのサイトは、世界に瞬く間に広がり、繋がっていった。作戦の開始は七月、目指すは人類の復活の日。ゲームではなく目の前にある現実の中で、私たちは今、戦っている。
利益でも打算でもなく、只、変異する未知の敵、ガーベラウイルスの情報を集め、死者を減らし、未来を変えるために。なんとかして、家族を、仲間を、思い出を、守るために。
部屋の隅に飾った写真立てが、小さく揺れた。写真の中の父と母が、まだ幼い私を抱いて、とびきりの笑顔で、笑っていた。
2
ガソリンを満タンにした125ccのバイクに跨り、私は今日も買い出しに出かける。田舎というのは不思議なことに、「なぜこんな場所に商店が」という地域が点在している。そうした地域は、ウイルス感染をなんとか免れ、地域のコミュニティが持ち寄った野菜や備蓄米や衣服などを販売する拠点と化していた。
ウイルスの流行初期には、感染経路は限定的なものだと多くの人に思われていた。流行り病にかかった人に直接接触しなければ、その人の住んでいる家の近くにいかなければ大丈夫。つまり、私の実家は、母のウイルス感染時に既にそうした「触れてはいけない」場所になっていたという訳だ。母の葬儀の際は、まだ行政の対応も曖昧で、仰々しい消毒や母の遺品の処分なども行われなかった。
その後、私がこの田舎に本格的に移住をした時期には、もう村一帯が、ウイルスの流行に怯えつつある状態にあった。とにもかくにも日本の村である。トラックや自家用車が全く通らないという訳でもない。それに、各住民も全く移動をせず生きていた訳ではなかった。それぞれの住人が仕事のために都会に行ったり、病院に通ったり、デイサービスや体操教室を利用したりしていた。
徐々に物品の流通が止まりはじめた時に、この地域で最初に動いたのは、山間部にある、とある商店のおばちゃんたちであった。「在るもの」をかき集め、「無いもの」を手作りし、「不足するであろうもの」をあらかじめ育てている場所に行き、話合い仕入れの都合をつけ、商売の軌道に乗せた。
政府による外出禁止令の告知後も、こうした商店はどうやら世界各地に点在するらしい。らしい、というのは、こうした情報はネットには上がりにくく、また上がった情報も信頼性に欠ける事が多いのだ。やはり田舎は未知の世界である。
「おばちゃん、野菜ある?」
フルフェイスのヘルメットをかぶったまま、私は店先で大きな声をかける。
「あいよ。いっせんまんえん」
大根を2本もち、いかにも商売人、といった風貌のおばちゃんが防護服を着て玄関を開ける。いったいどこから仕入れたのか、その防護服は医療用の本格的なものだった。
「いつもすまないねぇ」
大昔にみたドラマのセリフをまねておばちゃんから大根をもらう。
「お代はそこのポストの中」
分厚い手袋をしたまま、ポストに500円を入れる。お金を受け取ると心なしか愛想がよくなるおばちゃん。分かりやすい。
「大根って日持ちする?」
「一週間はもつよ」
(あとでネットでちゃんと調べよう)
そう考えながら、私はリュックに大根をしまいバイクのエンジンに灯をいれた。
「気をつけるんだよ」
おばちゃんは玄関をしめる間際にそういい、ガシャリと扉の鍵をかけた。
(気をつけます)
そう心の中で答えると、アクセルをひねりバイクをスタートさせる。家のガレージに蓄えてあるガソリンも、あとどれだけもつのだろうか。
トテトテ・ダカダカとのんきな音をたてながら、125ccの小型バイクはゆっくりと田舎道を進み続ける。すっかり私の手足に馴染んだ愛車は、今日も私と一緒に走り続ける。
ふっ、とバックミラーに黒い影が見えた。
車、ではなかった。真っ黒なレーサーレプリカバイクに黒のツナギ。黄色いフルフェイスのヘルメット。攻撃的なエンジン音。
(バイカーか)
荒廃した世の中では、バイカーは厄介な人種に入る。機動性と暴力性、そして攻撃力も満点である。
(んなこと考えてもさ)
アクセルをふかし、山道を登る。下りは少しばかり命がけになるかも知れない。
(せっかく買った大根、無駄には出来ないもんね!!)
ギュル、っと唸りを上げて、タイヤがスリップした。
慌ててクラッチを切り、全力で両足をアスファルトに押し込む。
ガッ!
セーフだ。なんとかバイクの重量を足で支え、私はハンドブレーキをかけた。
「あっぶね・・・」
思わずつぶやき、そのままバイクを止める。
後ろの黒いレーサーレプリカが追い付き、そして止まる。
(でもまぁ、これはダメかもね)
心に覚悟を決めつつ、それでも、と私はバイクのシート下に隠したハンマーをこっそり、手に忍ばせる。
(死なばもろとも、だ)
手袋の中に汗を滲ませ、ぎゅっと力を入れる。
黒いツナギの男は、ゆっくりとバイクを降り、私に近付き、そして
「…あのさ、6年1組のゆきちゃんだろ? きゅうり苦手な」
ヘルメット脱いで言った。
「忘れてるだろうけどさ。あの店、俺の親戚のとこなんだわ」
三十数年ぶりに見た顔がそこにあった。
「ほらな? 小西商店の歩や。お前、たまに店に文房具見にきてたじゃん」
ほぼ小学生時代と変わらない牧歌的な顔のその男は、所在なさげにメットを抱え、私からしっかりと距離を取り言った。
「お前、今何やってんの? 俺が手伝える事とか、もしかしてあったりしないか?」
私は握っていたハンマーを手落とし、へなへなとアスファルトに崩れ落ちた。
多分、小学生以来の、彼に見せたみっともない姿だっただろう。
「…まぁ、とりあえず家まで送るわ」
彼は慌て気味にそういい、優しい顔で私を引き上げた。
その笑顔は、小学生時代そのままの、変わらない笑顔だった。
3
腰を抜かした私は歩君に引き起こされ、たっぷり三十分は休憩した後、彼のバイクを先導して家に帰宅した。
外でゆっくり立ち話をする訳にもいかない。何より今は屋外での危険が多過ぎるのだ。
「座って、どうぞ」
台所の大きなテーブルにメットを置き、椅子を引いて彼を促す。
「おお、そしたら遠慮なく」
どす、っと椅子に腰かけると、彼は間髪入れず
「煙草ええか? 携帯灰皿あるから」
と言った。
「別に禁煙席って訳でもないし、ご自由に」
そう答えると私はお湯を沸かしコーヒーを淹れる。もはやインスタントコーヒーですら、今では貴重な嗜好品のひとつである。
「コーヒーはブラックでいい?」
「そないに気つかわんでも」
「関西弁、抜けないわね?」
ちょっと皮肉めいた声で私は彼にそう言った。もっとも、この田舎町は関西圏にある。だから、東京で長年暮らした後に、この土地に戻ってきた私の話し方のほうが、ここではイレギュラーなのだけど。
「いうても、大阪のほうで働いてたからなずっと」
メビウスという銘柄の煙草に火をつけ、彼が言う。煙草特有の独特の匂いが私の鼻をかすめた。
「それで、いつこっちに戻ったのよ?」
コーヒーカップを2つテーブルに並べお湯を注ぐ。
「昨日や。部屋でゆっくりしとったらお前が家に来てびっくりしたわ」
驚いたのは私の方だ。死ぬほど焦った。
「そしたらお前、よくみたら財布落としてそのままバイクで走って行っとってさ」
ごそごそと彼の手がズボンのポケットを探る。
「これ、どないかして渡したらなと思ってな」
革製の薄い財布をテーブルの上に載せる。
「・・・そういう事ね」
自分の間抜けさにショックを受けながら、私はそう返事をした。
「そんでお前は今どうやねん」
「どうって?」
「色々あるやろ? 今の世の中こんな状況やぞ」
苦虫を嚙み潰したような表情で歩が言う。
「在宅ワーク」
ごく淡々と私は答えた。
「在宅て・・・まだ仕事くれるとこあるんかいな」
「無くは無い、ってとこね。お金になるかは別として」
「まぁええわ。元気で飯食えてんならな」
歩はそう言うと、椅子から立ち上がり
「コーヒーごっそさん。そろそろ帰るわ」
バイクのキーをジャラジャラと鳴らしそうわたしに告げた。
「財布のこと、ありがとうね」
「どないいたしまして、やで」
子供の頃と変わらない表情で彼が答えた。もしいま、私が彼を 「ここに居て」 と引き留めたら、彼はどんな顔をするのだろうか。
「じゃあ、また」
「おう、店によった時は声かけてな」
歩はそう言うと、メットを手に取り
「そや、ひとつだけ。お前に言っとくわ」
急に厳しい顔になり、こう言った。
「バイクなり車なり、足あっても、大阪にだけは絶対に行くな。あそこはもう、地獄や」
そして彼は私に背を向け、バイクのエンジンに火を入れ、走り去っていった。
4
歩君を見送った後、私は2つ並んだコーヒーカップを手早く片付け、パソコンルームへと向かった。
部屋では相変わらず、数台のパソコンがフル稼働で情報を集め、そしてその情報を記録し続けていた。
私はパソコンデスクに立てかけてあった資料をばさっと放りなげ、椅子にどかっと腰を下ろした。我ながら色気もなにもない。
「新規のアラートは・・・」
表示された画面を確認しているとチカチカとひときわ大きな通知サインが点灯した。
「YUKIE君。お久しぶり」
朗らかでよく通る初老の男の声が部屋に響いた。
「博士、お元気でしたか?」
「実に元気だ。だが研究はおもわしくない」
声の主は、トーンを落としそう私に答えた。
クリス・レイズナー博士。台湾在住の細菌学研究の権威だ。
「ガーベラウイルスの特性はある程度把握出来た。ただ肝心の感染経路がどうしても分析出来ない。YUKIEくん、どうやらまだまだ長期戦になりそうだ」
台湾は現在、世界で唯一の新型ウイルスの変異前の段階で、完全撃退に成功した国家である。そして、この国は現在、全世界協定によって完全な鎖国となっていた。少ない人口と特殊な立地が幸いして、台湾はなんとか鎖国状態での自給自足体制を続ける事が出来ていた。そして世界のどの国も、残された人類の希望となったこの国に、軍事的行動を起こす事はなかった。
「どれだけ時間がかかっても解明して下さい。研究が続いている事が私たちの希望ですから」
「OKだよ、YUKIE。当然だ。我々は全力を尽くすよ」
そう言うと、博士は通信をオフラインに切り替えた。世界の国々はぎりぎりのところで理性を取り戻し、台湾という人類にとっての隔離施設を残す事に成功した。だが日本は…私たちの故郷であるこの国は、一体どうなるのだろう。
プツン、という音とともに、また別のウインドウが画面に開く。通話画面の横にはSENDAIという文字が表記されている。モニターには私と同年代の男性の姿があった。
「幸恵さん、今日は少し手短にお話をします」
伊東正高。仙台で医療従事者として勤務していた男性だ。
「仙台はもう持ちません。限界です」
やつれ切った顔で、彼はモニター越しに私にそう言った。
「食料も医療物資も完全に枯渇しています。餓死者も…」
私は淡々とその報告を聞いていた。海外の一部の国では既に同じような状況が発生し、この回線を通して世界中に報告されていた。仙台のような地方都市ですらこうした状況なら、東京や大阪は一体どうなっているのか。すでに東京と大阪、どちらの都市にも、この回線を使用する報告者は存在していなかった。
「クリス博士に援助を要請するわ。医療品ならもしかしたら台湾から無人ドローンで・・・」
「いや、もうかまいません」
妙に落ち着いた口調で画面の向こうの伊東が言った。
「どのみち焼け石に水です。他国に負担をかけるくらいなら何もしないほうがいい」
「そんな諦めるような事!」
思わず声を荒げる。
「仙台の市民は最後まで従順でした。ただ、余りにも知識が足りなかった。食料が不足し過ぎて、もう犬や猫まで鍋にしましたよ!! それだけじゃなく他にも色々とね…」
まるで冗談のように伊東は言い、
「こんなふうに見苦しく争い続けて滅びるくらいなら、静かに終わりを待とう、そう言ってるんです。我々は」
と私に告げた。
「伊東くん、私は…」
私の言葉を遮るように彼は
「幸恵さん、あなた方は頑張って生き残って下さい。お祈りしてます」
そういって、回線を遮断した。
「…………」
どうしようもない気持ちになり、私は手元のキーボードを、バンッ、っと叩きつけた。
大阪だけではない、日本は、この国は既に地獄に入りかけているのだ。誰の目にも見えない未知のウイルスによって。
5
仙台からの最後の通信から、数週間が経った。
あの日を境に仙台エリアの通知アラートが点滅する事はなく。他の地方都市も次第に連絡が遮断されつつあった。
私は机の上に散乱した紙の資料を乱雑に整理し、そこに記載されている様々なデータに目を通していた。
資料には、世界の各都市におけるウイルス感染者の増加指数と年齢や男女比、所得状況など様々な数字が並んでいる。
「感染の経過と傾向、か…」
限りなく薄く入れたブラックコーヒーを喉に流し込んだ後、私は一人、考えを巡らせた。
私の両親が逝去した疫病流行の初期の段階では、ガーベラウイルスによる死傷者は圧倒的に老人が多かった。これは全世界における傾向で、例外は見られなかった。
その後、感染の蔓延と共に、徐々に中年、若年層へとウイルスは広がって行った。この時点でかなり強硬な移動制限や外出時のマスク装着の徹底的な義務付けが行われたが、それでもウイルス感染が減少する事はなかった。
今にして思えば、この時点で既にガーベラウイルスは特性を変化させていたのかもしれない。飛沫感染だけで蔓延したとは思えないほど、そこからの感染者の増加は凄まじかった。
「変異の特徴…」
左手に持ったボールペンを弄びながら私は独り言を言う。考え事をする時の癖だ。
「ダメだ。こんなの分かる訳が…」
思わず口に出して、資料を机にバサッと投げるように置く。
所詮は三流の文系大学を卒業した、研究者でも何でもない只の中年女性である。少ない資料を分析するだけで疫病の感染経路や対策を見いだせるなら誰も苦労はしない。
「何か、何かあるはずなんだけど…」
ふぅっと大きく息をつき、部屋の天井を見上げる。一息つこうかと想い、椅子から立ち上がったその時、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。
私は多少の用心をかんがえ、手に金属バットを持ちながら玄関のドアのインターフォンのボタンを押し、カメラの画像をオンにした。画面には、黒いライダージャケット姿の歩君の姿があった。
ほっと息をついた私は玄関を開け
「野菜の訪問販売ならありがたいんだけど?」
と軽口を言った。その私の顔を見て、彼は
「落ち着いて聞いてや。おかんが、感染したんや…」
と重々しい声で言った。
6
一瞬、彼の言葉に自分の理解が追い付かず、私は混乱しながら
「感染って。検査キットもないのに陽性かどうかなんて」
と慌てた声で言った。それを聞いた歩は
「アホなこと言うなや! 今の状況でせき込んで熱出して寝込むなんて他に理由がある訳ないやろ!!」
押し殺していた感情を爆発させたかのように、私に対してそう叫んだ。
「もうあの家で商売は無理や。在庫になってた野菜も、全部感染しとるかもしれん」
「………それで、おばちゃんは今は?」
「家で寝とるわ。もうほっといてくれって言うとる」
「…ほっとく?」
「出戻り息子の世話になるなんて世間体が悪いから、自分の事はほっとけってな。いよいよ商店の店じまいやって言うとる」
もう世間なんてものはほとんど機能していないというのに。こんな状況になって今更何を言っているのか。
「それであんた、自分の母親を見捨てて逃げてきたって訳?」
言葉に棘があるのは分かっている。それでも、私はそう言わずにはいれなかった。
「…うちのおかんはな、そういう言い方しか出来へんねん」
悲しそうに歩が言う。
「昔っからそうや。やれ世間体が、やれ人様が、いうてな」
彼は顔を歪ませて声を絞るように私に言った。
「そんなんは全部嘘やねん。ほんまは、俺を感染に巻き込まんようにそう言うたんや。そんなん分かりきっとるわ!!」
歩は目に涙を滲ませていた。私は彼にかける言葉が見つからず、ただ小さく首を振った。
「そんでな、これやねんけど」
しばらくして落ち着きを取り戻した歩は、1冊のノートを私に手渡した。
「これだけは厳重に殺菌と消毒をして保管しとったらしいわ。感染の問題はないて信じてええと思う」
「うん…一体、何のノート?」
「商品の仕入れ先の記録帳や。これがあったらうちやなくて他の場所でも商売が続けられるようになっとる。野菜やら、作ってるおっさんらの畑の場所とか全部書いとるわ」
私はなんとも言えない気持ちになり、そのノートを歩の手から引き取ってページを捲った。小さな田舎の村の周辺の地図が、そこには手書きで丁寧に描かれていた。
「おかんの事やから、いつかはこういう事もあるって思ってたんやろな。ワイはずっと実家におらんかったから・・・ゆきちゃん宛に色々と書いてあるねん」
そこには、畑から仕入れた野菜を長持ちさせるコツや保管時の注意、それにダメになりそうな野菜の食べ方などが丁寧に描かれていた。そして最後のページには
(ゆきちゃん、がんばりや)
とだけ、小さな文字が書いてあった。
「歩君、私、こんな…」
歩は二次感染を警戒したのか、私との距離を取ったままで
「そのノート、貰ったってくれや。おかんは自分の役割をゆきちゃんに引き継いで欲しいって思っとったんやしな」
とボソッと言った。
彼の優しい声を聞きながら、私は、おばちゃんの手書きのノートを胸に抱きしめて、子どものように声を上げて泣き続けていた。
(前編終了。後編は別の記事に切り替えて連載します)
2020年4月26日 未完
(続きます)
4月26日現在未完