きっと忘れない

岡本光(おかもとこう)のブログです。オリジナル短編小説等を掲載しています。

小説 すこし不思議ものがたり 『まるで夢のような時間』 その1

2020年04月29日 | 小説 (プレビュー版含む)

繁華街の片隅で、小さな青い「貴方の夢を叶えます」と書いた看板を見たとき、私は無意識にその看板の横にある小さな店の扉をノックしていた。

休日出勤の連続で疲れ果てて判断力が落ちていたのと、二か月前の失恋から未だに立ち直れていなかった事もあり、今の私はどうしようもないくらい「夢」という言葉に弱かった。

(叶えられるもんなら叶えてよ今すぐに夢全部さぁ)

ヤケ気味にそう思いながら、私は店の扉をガンダンとグーで叩き続けた。

しばらくして入り口から出てきたのは、上品そうな黒い服を着た女性だった。

受付の担当者が自分と同じ年頃の女性だった事で、私は少し安心した。そして

「あの、このお店はどんな事をするお店なんですか?」

と遠慮がちに尋ねてみた。もしこの店が何かいかがわしいような事をするお店だったら、すぐにでも立ち去るつもりだった。

「ご説明いたしますね。千円で十分間、あなたに素敵な夢をご提供します。ただし、叶える夢は、あなたの『過去』か『未来』に『経験した』ことのある『まるで夢のような時間』限定です」

私には、受付の女性が何を話しているのか、ほとんど理解できなかった。

「もちろん、あやしい催眠術や霊感商法ではないのでご安心を。リアルな3D映画のようなものとお考え下さい。ただし、上映できるのはあなたの頭と心の中だけ、ということで」

どう考えても怪しい説明にもかかわらず、私は、その店の受付カウンターから離れる事がどうしても出来なかった。そして、気がつくと財布の中にある5千円札を取り出し

「これで、五十分間、素敵な夢を見させてください」

そう呟いていた。受付の女性はやさしく微笑んで

「途中でキャンセル等できませんが、初回五十分コースでよろしいですか? それと、夢の内容はお客様自身では選べませんのでご了承下さい」

と私に確認してきた。

「かまいません。お願いします」

私は五千円札を受付カウンターに置き、そう答えた。

「では、こちらに」

女性の声に導かれて、私は店の奥へと進んで行った。店の通路は暗くて狭く、どこまでも続いているようだった。

その奥には、柔らかそうなソファーと、テレビ番組やネットで時々見かけるVRゴーグルがあった。なんだ、ただのVR体験型ゲームか…とがっかりしながらも、私はどこか安心して、

「このVRで素敵な映像が見れるとか、そういう感じですか?」

と店員に尋ねた。

「素敵な映像とは少し違いますね。お客様の脳内の記憶中枢にごくわずかな刺激を与え、記憶を映像化するシステムです」

「なるほど」

まったく理解は出来ないが、ともかくも試してみる事にする。

「ソファーに座って、ゴーグルをしっかりとつけて下さい。装着が完了した時点で、自動的に開始となります」

私はゴーグルを装着しソファに深々と身を沈めた。

ゴーグル内の視野は広く、その内側にはデジタルな模様がゆっくりと形を変えながら動いていた。

(まるで万華鏡みたいだな)

と子供のように思っていると、次第にその模様が形を変えて、何かの風景を具現化させていった。

 

 

 

「・・・ゆき、どうしたの? ゆき?」

耳元で聞き覚えのある声が聴こえる。ああ、この声は

「ゆき、今日は早起きだな。いつもと大違いだ」

今度は、少し聞きなれない声

「しょうがないわよ。今日はゆきの大事なお誕生日ですもの」

そうか、この声は若い頃の母の声だ。今よりずっと明るい声。

「ん? そうか。俺、夜勤明けで日にちの感覚が…」

こっちはずっと前に亡くなった父の声。そうか、確かこんな声してたっけ。

「もぉ、ゆきのおたんじょうび、わすれないでよ!」

記憶の中の幼い無邪気な5歳の私が言う。

「すまんすまん。でもプレゼントはもう買ってあるからな!」

父が申し訳なさそうに言う。

「でも朝からケーキっていうのもねぇ」

母が、私と父の顔を交互に見て困ったように言う。

「お父さんは全然困らないけど、ゆきはどうだ?」

屈み込んだ父は、私の頭を撫でてこう言った。

「ゆき、あさからケーキたべる!!」

母がやれやれという表情をして、私に問いかける。

「じゃあプレゼントはどうするの?」

「プレゼントもあさもらう!」

元気いっぱいに答えた私を、父も母も優し気に見つめている。

父は、いつの間に持ってきたのか、手に小さな包みを持ち

「本当は夜に渡すつもりだったんだけどな」

と照れくさそうに言った。

「いまあけていい?」

私がそう言うと父と母は満面の笑みで

「もちろん! ゆき、お誕生日、おめでとう」

と言って、そして父は小さな包みを私に手渡して。

 

 

そして私の視界は、ゆっくりと真っ黒になっていった。

 

 

一時間後、店を出た私は、繁華街の路上で声を上げて泣いていた。足早に通り過ぎる忙しそうな街の人達の目も気にせず、ただひたすら、ずっと涙を流し続けていた。私の手には小さなUSBメモリが握られていた。

店内で映像が終わった時、店員さんはVRゴーグルを外した私に

「初回サービスとしてご利用された記録をUSBメモリに保管できます。必要でしたらお手続きしますが」

と無表情に言った。

私はぐちゃぐちゃになった自分の顔を隠す事もなく、お願いしますとだけ答えてメモリを貰って店を出た。

幸せな記憶。大切な記憶。私にはそれがある。ずっと記憶の底に放置したまま忘れていた事であっても、それは生きている限り、私の中に残っていた。

化粧がすっかりおちた酷い顔で家に帰った私は、あの店で店員さんが言っていた言葉をふと思い出した。

 

「ただし、叶える夢は、あなたの『過去』か『未来』に『経験した』ことのある『まるで夢のような時間』限定です」

 

未来? 私はようやくその言葉の意味に気付き、心から思った。あの時、未来の記憶が再生されなくて本当に良かった、と。

今はまだ分からないけど、私の未来には確かに、あの頃と同じような「まるで夢のような時間」が存在している。それは確かなのだ。私は部屋の洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分にこう言った。

「色々あったけど、生まれてきて、生きてきて、よかったよね。ゆき。きっとこれからも」

鏡の前で、幼い頃の面影が少しだけ残っている私が、あの頃より大人びた顔でにっこりと笑っていた。

(了)


小説 鉄と病原菌と田舎の暮らし 前編

2020年04月27日 | 小説 (プレビュー版含む)

数か月前、私は故郷の田舎に戻ってきた。

ことのおこりは両親の急な逝去だった。

 


まず父親が先立ち、後を追うように母が逝くと、それなりの大きさの田舎の一軒家を相続する人間は、私しか存在していなかった。数少ない親類縁者も全て付き合いを断っているような状況では遺産相続の争いすら発生せず、築四十年の古びた家は、大きなトラブルもなく私名義の財産となった。

私の生まれ故郷はいわゆるド田舎で、本屋はおろかコンビニすら、徒歩で移動出来る圏内には存在していなかった。ずっと都会暮らしをしてきた私には、これはなかなか堪える事実だった。

考慮した結果、私は小型自動二輪免許を取得した。大きな自動車も父から相続をしていたのだが、いかんせん私が乗りこなすにはクセが強かった。私は、父が車に対して強いこだわりを持っていたことを、ずっと知らなかった。あんなにも一緒に過ごす時間があったというのに。


「これで良し。食材はまとめて冷蔵庫に入れよう」

数十年ぶりの実家での一人暮らし。戸惑いは大きかった。元々一人の暮らしには慣れていたとは言え、田舎は何もかもが都会とは違う。とりわけ当惑したのは、ご近所の人たち(といって距離自体は離れているのだが)の好奇に満ちた視線と噂話だった。が、それもほどなくして収まり、今では静かなものだった。

「小麦粉卵に、じゃがいもまぶして」

鼻歌を歌いながら料理をする。遠くから鳩の鳴く声が聞こえる。ここでの暮らしを選んだのには、私自身の仕事にも関係があった。長年、パソコンを使った仕事に携わっていたのだが、母の葬儀の数か月前、ネット環境を整えて、在宅での勤務に取り組む準備がようやく出来ていた。虫の知らせというのだろうか? どこか、ずっと都会では暮らせないかもしれないという予感はあった。

「あげれーば、ころっけだーよ」

うろ覚えの歌をうたを口ずさむ。母親にはくだらない歌を歌うなとよく怒られたものだ。この台所は、その頃となにも変わらない。

「きてれーつかんせいー」

コロッケの完成である。手早く皿にならべ、冷凍しておいた白米を電子レンジで解凍して茶碗によそう。

「いただきます」

テーブルには今も父と母が座っているような気がする。だが、そんな訳はない。私は自分のたわいもない妄想を笑い、テレビをつける。

「・・・感染は現在も広がっており、都市部の壊滅は・・・」

そう。母は、数か月前にはじまった疫病の流行でこの世を去っていた。母自身は最後まで、自分の身に何が起こったかすら分からなかったようだ。私用の携帯電話に私が病院から知らせを受けた時には、医者が母親に行える治療は既に全て終わったあとだった。

「・・・世界での収束の目途も立たず、南極大陸を残す全ての大陸が・・・はやければ残り数か月」

世界を覆うガーベラウイルスによる疫病の大流行。最初にそのニュースを目にした時は、SF映画のようだと思っていた。大慌てで買い出しに行ったと電話で話す母親に私は「バカじゃないの? お金がもったいないよ」と冷たく言った。

もっと、優しい声をかければ良かった。最後にあんな言葉しか言えなかったなんて。

茶碗と皿を置き、ごちそうさまと独り言を言う。母の教えてくれた数少ないレシピはメモに残し、忘れないように日々役立てている。すべてにおいて、私は忘れっぽいのだ。

テレビのニュースでは外出禁止令の継続が伝えられている。母の墓すら、もう容易に訪れる事は出来ない。ウイルスが日本全土を覆い、感染が蔓延している。当初、飛沫感染に限定されると言われたウイルスの特性は、暑い季節の訪れと共に変異を起こし、もはや外出しただけでも、感染の危険性を持つようになっていた。

「さてと」

食事を終えた私は自室に移動し、パソコンを立ち上げ、いくつかのフォルダを開いた。全てのブラウザは即座に反応し、素早く起動する。

「三日ぶり。元気だった?」

中年男性の声がスピーカーを通して部屋に響く。どこか、父の声に似ている太い声だ。

「そっちは健在? まだいけそうだな」

リアルタイムチャットの通知が点灯する。

「シドニーはほぼ封鎖状態です。配給は問題無し。今のところはですが」

「アメリカはデモ継続中。人数の減少が顕著」

「ハローYUKIE。調子よさそうだな。ブラジルは今日もひどいありさまだ」

ビデオチャットの画面が連続して開き、様々な国の言語が一斉に伝わってくる。

私の部屋は、ここ数か月の改装により、ちょっとしたオフィスと化していた。三台のパソコン専用モニター。サーバー用PCとノートPCが数台。資料を保存するHD。実家にずっと残していたレトロゲーム機すらも、その電源を点灯させ、唸りを上げている。

「それじゃ、今日もお仕事始めましょうかね」

キーボードを打つ。リアルタイムで画面に反応が起こる。情報は拡散され、伝達される。専門家を通して、その情報は裏付けられ、信用度を高め、そしてまた拡散される。

「作戦名 operation・Resurrection day 参加者名 K YUKIE」

世界のそれぞれのパソコン上には、いま、同じ通知が表示されているはずだ。現在の参加者は13万1256人。サーバーが持つギリギリの数字だ。

とある民間企業が立ち上げたこのサイトは、世界に瞬く間に広がり、繋がっていった。作戦の開始は七月、目指すは人類の復活の日。ゲームではなく目の前にある現実の中で、私たちは今、戦っている。

利益でも打算でもなく、只、変異する未知の敵、ガーベラウイルスの情報を集め、死者を減らし、未来を変えるために。なんとかして、家族を、仲間を、思い出を、守るために。

 

部屋の隅に飾った写真立てが、小さく揺れた。写真の中の父と母が、まだ幼い私を抱いて、とびきりの笑顔で、笑っていた。

 

 

 


ガソリンを満タンにした125ccのバイクに跨り、私は今日も買い出しに出かける。田舎というのは不思議なことに、「なぜこんな場所に商店が」という地域が点在している。そうした地域は、ウイルス感染をなんとか免れ、地域のコミュニティが持ち寄った野菜や備蓄米や衣服などを販売する拠点と化していた。

ウイルスの流行初期には、感染経路は限定的なものだと多くの人に思われていた。流行り病にかかった人に直接接触しなければ、その人の住んでいる家の近くにいかなければ大丈夫。つまり、私の実家は、母のウイルス感染時に既にそうした「触れてはいけない」場所になっていたという訳だ。母の葬儀の際は、まだ行政の対応も曖昧で、仰々しい消毒や母の遺品の処分なども行われなかった。

その後、私がこの田舎に本格的に移住をした時期には、もう村一帯が、ウイルスの流行に怯えつつある状態にあった。とにもかくにも日本の村である。トラックや自家用車が全く通らないという訳でもない。それに、各住民も全く移動をせず生きていた訳ではなかった。それぞれの住人が仕事のために都会に行ったり、病院に通ったり、デイサービスや体操教室を利用したりしていた。

徐々に物品の流通が止まりはじめた時に、この地域で最初に動いたのは、山間部にある、とある商店のおばちゃんたちであった。「在るもの」をかき集め、「無いもの」を手作りし、「不足するであろうもの」をあらかじめ育てている場所に行き、話合い仕入れの都合をつけ、商売の軌道に乗せた。

政府による外出禁止令の告知後も、こうした商店はどうやら世界各地に点在するらしい。らしい、というのは、こうした情報はネットには上がりにくく、また上がった情報も信頼性に欠ける事が多いのだ。やはり田舎は未知の世界である。

「おばちゃん、野菜ある?」

フルフェイスのヘルメットをかぶったまま、私は店先で大きな声をかける。

「あいよ。いっせんまんえん」

大根を2本もち、いかにも商売人、といった風貌のおばちゃんが防護服を着て玄関を開ける。いったいどこから仕入れたのか、その防護服は医療用の本格的なものだった。

「いつもすまないねぇ」

大昔にみたドラマのセリフをまねておばちゃんから大根をもらう。

「お代はそこのポストの中」

分厚い手袋をしたまま、ポストに500円を入れる。お金を受け取ると心なしか愛想がよくなるおばちゃん。分かりやすい。

「大根って日持ちする?」

「一週間はもつよ」

(あとでネットでちゃんと調べよう)

そう考えながら、私はリュックに大根をしまいバイクのエンジンに灯をいれた。

「気をつけるんだよ」

おばちゃんは玄関をしめる間際にそういい、ガシャリと扉の鍵をかけた。

(気をつけます)

そう心の中で答えると、アクセルをひねりバイクをスタートさせる。家のガレージに蓄えてあるガソリンも、あとどれだけもつのだろうか。

トテトテ・ダカダカとのんきな音をたてながら、125ccの小型バイクはゆっくりと田舎道を進み続ける。すっかり私の手足に馴染んだ愛車は、今日も私と一緒に走り続ける。

ふっ、とバックミラーに黒い影が見えた。

車、ではなかった。真っ黒なレーサーレプリカバイクに黒のツナギ。黄色いフルフェイスのヘルメット。攻撃的なエンジン音。

(バイカーか)

荒廃した世の中では、バイカーは厄介な人種に入る。機動性と暴力性、そして攻撃力も満点である。

(んなこと考えてもさ)

アクセルをふかし、山道を登る。下りは少しばかり命がけになるかも知れない。

(せっかく買った大根、無駄には出来ないもんね!!)

ギュル、っと唸りを上げて、タイヤがスリップした。

慌ててクラッチを切り、全力で両足をアスファルトに押し込む。

ガッ!

セーフだ。なんとかバイクの重量を足で支え、私はハンドブレーキをかけた。

「あっぶね・・・」

思わずつぶやき、そのままバイクを止める。

後ろの黒いレーサーレプリカが追い付き、そして止まる。

(でもまぁ、これはダメかもね)

心に覚悟を決めつつ、それでも、と私はバイクのシート下に隠したハンマーをこっそり、手に忍ばせる。

(死なばもろとも、だ)

手袋の中に汗を滲ませ、ぎゅっと力を入れる。

黒いツナギの男は、ゆっくりとバイクを降り、私に近付き、そして

「…あのさ、6年1組のゆきちゃんだろ? きゅうり苦手な」

ヘルメット脱いで言った。

「忘れてるだろうけどさ。あの店、俺の親戚のとこなんだわ」

三十数年ぶりに見た顔がそこにあった。

「ほらな? 小西商店の歩や。お前、たまに店に文房具見にきてたじゃん」

ほぼ小学生時代と変わらない牧歌的な顔のその男は、所在なさげにメットを抱え、私からしっかりと距離を取り言った。

「お前、今何やってんの? 俺が手伝える事とか、もしかしてあったりしないか?」

私は握っていたハンマーを手落とし、へなへなとアスファルトに崩れ落ちた。

多分、小学生以来の、彼に見せたみっともない姿だっただろう。

「…まぁ、とりあえず家まで送るわ」

彼は慌て気味にそういい、優しい顔で私を引き上げた。

その笑顔は、小学生時代そのままの、変わらない笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

腰を抜かした私は歩君に引き起こされ、たっぷり三十分は休憩した後、彼のバイクを先導して家に帰宅した。

 

外でゆっくり立ち話をする訳にもいかない。何より今は屋外での危険が多過ぎるのだ。

「座って、どうぞ」

台所の大きなテーブルにメットを置き、椅子を引いて彼を促す。

「おお、そしたら遠慮なく」

どす、っと椅子に腰かけると、彼は間髪入れず

「煙草ええか? 携帯灰皿あるから」

と言った。

「別に禁煙席って訳でもないし、ご自由に」

そう答えると私はお湯を沸かしコーヒーを淹れる。もはやインスタントコーヒーですら、今では貴重な嗜好品のひとつである。

「コーヒーはブラックでいい?」

「そないに気つかわんでも」

「関西弁、抜けないわね?」

ちょっと皮肉めいた声で私は彼にそう言った。もっとも、この田舎町は関西圏にある。だから、東京で長年暮らした後に、この土地に戻ってきた私の話し方のほうが、ここではイレギュラーなのだけど。

「いうても、大阪のほうで働いてたからなずっと」

メビウスという銘柄の煙草に火をつけ、彼が言う。煙草特有の独特の匂いが私の鼻をかすめた。

「それで、いつこっちに戻ったのよ?」

コーヒーカップを2つテーブルに並べお湯を注ぐ。

「昨日や。部屋でゆっくりしとったらお前が家に来てびっくりしたわ」

驚いたのは私の方だ。死ぬほど焦った。

「そしたらお前、よくみたら財布落としてそのままバイクで走って行っとってさ」

ごそごそと彼の手がズボンのポケットを探る。

「これ、どないかして渡したらなと思ってな」

革製の薄い財布をテーブルの上に載せる。

「・・・そういう事ね」

自分の間抜けさにショックを受けながら、私はそう返事をした。

「そんでお前は今どうやねん」

「どうって?」

「色々あるやろ? 今の世の中こんな状況やぞ」

苦虫を嚙み潰したような表情で歩が言う。

「在宅ワーク」

ごく淡々と私は答えた。

「在宅て・・・まだ仕事くれるとこあるんかいな」

「無くは無い、ってとこね。お金になるかは別として」

「まぁええわ。元気で飯食えてんならな」

歩はそう言うと、椅子から立ち上がり

「コーヒーごっそさん。そろそろ帰るわ」

バイクのキーをジャラジャラと鳴らしそうわたしに告げた。

「財布のこと、ありがとうね」

「どないいたしまして、やで」

子供の頃と変わらない表情で彼が答えた。もしいま、私が彼を 「ここに居て」 と引き留めたら、彼はどんな顔をするのだろうか。

「じゃあ、また」

「おう、店によった時は声かけてな」

歩はそう言うと、メットを手に取り

「そや、ひとつだけ。お前に言っとくわ」

急に厳しい顔になり、こう言った。

「バイクなり車なり、足あっても、大阪にだけは絶対に行くな。あそこはもう、地獄や」

そして彼は私に背を向け、バイクのエンジンに火を入れ、走り去っていった。

 

 

 

 

歩君を見送った後、私は2つ並んだコーヒーカップを手早く片付け、パソコンルームへと向かった。

部屋では相変わらず、数台のパソコンがフル稼働で情報を集め、そしてその情報を記録し続けていた。

私はパソコンデスクに立てかけてあった資料をばさっと放りなげ、椅子にどかっと腰を下ろした。我ながら色気もなにもない。

「新規のアラートは・・・」

表示された画面を確認しているとチカチカとひときわ大きな通知サインが点灯した。

「YUKIE君。お久しぶり」

朗らかでよく通る初老の男の声が部屋に響いた。

「博士、お元気でしたか?」

「実に元気だ。だが研究はおもわしくない」

声の主は、トーンを落としそう私に答えた。

クリス・レイズナー博士。台湾在住の細菌学研究の権威だ。

「ガーベラウイルスの特性はある程度把握出来た。ただ肝心の感染経路がどうしても分析出来ない。YUKIEくん、どうやらまだまだ長期戦になりそうだ」

台湾は現在、世界で唯一の新型ウイルスの変異前の段階で、完全撃退に成功した国家である。そして、この国は現在、全世界協定によって完全な鎖国となっていた。少ない人口と特殊な立地が幸いして、台湾はなんとか鎖国状態での自給自足体制を続ける事が出来ていた。そして世界のどの国も、残された人類の希望となったこの国に、軍事的行動を起こす事はなかった。

「どれだけ時間がかかっても解明して下さい。研究が続いている事が私たちの希望ですから」

「OKだよ、YUKIE。当然だ。我々は全力を尽くすよ」

そう言うと、博士は通信をオフラインに切り替えた。世界の国々はぎりぎりのところで理性を取り戻し、台湾という人類にとっての隔離施設を残す事に成功した。だが日本は…私たちの故郷であるこの国は、一体どうなるのだろう。

プツン、という音とともに、また別のウインドウが画面に開く。通話画面の横にはSENDAIという文字が表記されている。モニターには私と同年代の男性の姿があった。

「幸恵さん、今日は少し手短にお話をします」

伊東正高。仙台で医療従事者として勤務していた男性だ。

「仙台はもう持ちません。限界です」

やつれ切った顔で、彼はモニター越しに私にそう言った。

「食料も医療物資も完全に枯渇しています。餓死者も…」

私は淡々とその報告を聞いていた。海外の一部の国では既に同じような状況が発生し、この回線を通して世界中に報告されていた。仙台のような地方都市ですらこうした状況なら、東京や大阪は一体どうなっているのか。すでに東京と大阪、どちらの都市にも、この回線を使用する報告者は存在していなかった。

「クリス博士に援助を要請するわ。医療品ならもしかしたら台湾から無人ドローンで・・・」

「いや、もうかまいません」

妙に落ち着いた口調で画面の向こうの伊東が言った。

「どのみち焼け石に水です。他国に負担をかけるくらいなら何もしないほうがいい」

「そんな諦めるような事!」

思わず声を荒げる。

「仙台の市民は最後まで従順でした。ただ、余りにも知識が足りなかった。食料が不足し過ぎて、もう犬や猫まで鍋にしましたよ!! それだけじゃなく他にも色々とね…」

まるで冗談のように伊東は言い、

「こんなふうに見苦しく争い続けて滅びるくらいなら、静かに終わりを待とう、そう言ってるんです。我々は」

と私に告げた。

「伊東くん、私は…」

私の言葉を遮るように彼は

「幸恵さん、あなた方は頑張って生き残って下さい。お祈りしてます」

そういって、回線を遮断した。

「…………」

どうしようもない気持ちになり、私は手元のキーボードを、バンッ、っと叩きつけた。

大阪だけではない、日本は、この国は既に地獄に入りかけているのだ。誰の目にも見えない未知のウイルスによって。

 

 

 

 

仙台からの最後の通信から、数週間が経った。

あの日を境に仙台エリアの通知アラートが点滅する事はなく。他の地方都市も次第に連絡が遮断されつつあった。

私は机の上に散乱した紙の資料を乱雑に整理し、そこに記載されている様々なデータに目を通していた。

資料には、世界の各都市におけるウイルス感染者の増加指数と年齢や男女比、所得状況など様々な数字が並んでいる。

「感染の経過と傾向、か…」

限りなく薄く入れたブラックコーヒーを喉に流し込んだ後、私は一人、考えを巡らせた。

私の両親が逝去した疫病流行の初期の段階では、ガーベラウイルスによる死傷者は圧倒的に老人が多かった。これは全世界における傾向で、例外は見られなかった。

その後、感染の蔓延と共に、徐々に中年、若年層へとウイルスは広がって行った。この時点でかなり強硬な移動制限や外出時のマスク装着の徹底的な義務付けが行われたが、それでもウイルス感染が減少する事はなかった。


今にして思えば、この時点で既にガーベラウイルスは特性を変化させていたのかもしれない。飛沫感染だけで蔓延したとは思えないほど、そこからの感染者の増加は凄まじかった。

「変異の特徴…」

左手に持ったボールペンを弄びながら私は独り言を言う。考え事をする時の癖だ。

「ダメだ。こんなの分かる訳が…」

思わず口に出して、資料を机にバサッと投げるように置く。

所詮は三流の文系大学を卒業した、研究者でも何でもない只の中年女性である。少ない資料を分析するだけで疫病の感染経路や対策を見いだせるなら誰も苦労はしない。

「何か、何かあるはずなんだけど…」

ふぅっと大きく息をつき、部屋の天井を見上げる。一息つこうかと想い、椅子から立ち上がったその時、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。

私は多少の用心をかんがえ、手に金属バットを持ちながら玄関のドアのインターフォンのボタンを押し、カメラの画像をオンにした。画面には、黒いライダージャケット姿の歩君の姿があった。

ほっと息をついた私は玄関を開け

「野菜の訪問販売ならありがたいんだけど?」

と軽口を言った。その私の顔を見て、彼は

「落ち着いて聞いてや。おかんが、感染したんや…」

と重々しい声で言った。

 

 

 

 

一瞬、彼の言葉に自分の理解が追い付かず、私は混乱しながら

「感染って。検査キットもないのに陽性かどうかなんて」

と慌てた声で言った。それを聞いた歩は

「アホなこと言うなや! 今の状況でせき込んで熱出して寝込むなんて他に理由がある訳ないやろ!!」

押し殺していた感情を爆発させたかのように、私に対してそう叫んだ。

「もうあの家で商売は無理や。在庫になってた野菜も、全部感染しとるかもしれん」

「………それで、おばちゃんは今は?」

「家で寝とるわ。もうほっといてくれって言うとる」

「…ほっとく?」

「出戻り息子の世話になるなんて世間体が悪いから、自分の事はほっとけってな。いよいよ商店の店じまいやって言うとる」

もう世間なんてものはほとんど機能していないというのに。こんな状況になって今更何を言っているのか。

「それであんた、自分の母親を見捨てて逃げてきたって訳?」

言葉に棘があるのは分かっている。それでも、私はそう言わずにはいれなかった。

「…うちのおかんはな、そういう言い方しか出来へんねん」

悲しそうに歩が言う。

「昔っからそうや。やれ世間体が、やれ人様が、いうてな」

彼は顔を歪ませて声を絞るように私に言った。

「そんなんは全部嘘やねん。ほんまは、俺を感染に巻き込まんようにそう言うたんや。そんなん分かりきっとるわ!!」

歩は目に涙を滲ませていた。私は彼にかける言葉が見つからず、ただ小さく首を振った。

「そんでな、これやねんけど」

しばらくして落ち着きを取り戻した歩は、1冊のノートを私に手渡した。

「これだけは厳重に殺菌と消毒をして保管しとったらしいわ。感染の問題はないて信じてええと思う」

「うん…一体、何のノート?」

「商品の仕入れ先の記録帳や。これがあったらうちやなくて他の場所でも商売が続けられるようになっとる。野菜やら、作ってるおっさんらの畑の場所とか全部書いとるわ」

私はなんとも言えない気持ちになり、そのノートを歩の手から引き取ってページを捲った。小さな田舎の村の周辺の地図が、そこには手書きで丁寧に描かれていた。

「おかんの事やから、いつかはこういう事もあるって思ってたんやろな。ワイはずっと実家におらんかったから・・・ゆきちゃん宛に色々と書いてあるねん」

そこには、畑から仕入れた野菜を長持ちさせるコツや保管時の注意、それにダメになりそうな野菜の食べ方などが丁寧に描かれていた。そして最後のページには

 

(ゆきちゃん、がんばりや)

 

とだけ、小さな文字が書いてあった。

「歩君、私、こんな…」

歩は二次感染を警戒したのか、私との距離を取ったままで

「そのノート、貰ったってくれや。おかんは自分の役割をゆきちゃんに引き継いで欲しいって思っとったんやしな」

とボソッと言った。

彼の優しい声を聞きながら、私は、おばちゃんの手書きのノートを胸に抱きしめて、子どものように声を上げて泣き続けていた。

 

(前編終了。後編は別の記事に切り替えて連載します)

 

2020年4月26日 未完

 

(続きます)

4月26日現在未完


短編小説 さくら散る庭 プレビュー版

2020年04月25日 | 小説 (プレビュー版含む)

 『短編小説 さくら散る庭 前編』 (プレビュー版)


(1)

 例えば、今まで見慣れた町並み。つい昨日まで確かにそこに存在していた何か。それが、いつの間にか突然に「消えた」経験が、あなたには、あるだろうか。

 昨日までそこにあったはずのお店が気がつけば空き地になり、先月には確かに見かけたはずの公園が何故かどこにもない。

 そんな出来事がもしあったとしたら、勘違いや見間違いでなくそれらは確かに「消えた」のだ。僕がこれから話すのは、そういった話だ。

(2)

 僕は、どこにでもいるサラリーマンだ。駅から自転車で二十分のワンルームのアパートに独り暮らしをして、不満を言えばきりはないが、まあなんとか人並みに暮らしている。

 四月になり、少し寒さが和らいでいた。仄かな暖かさを感じながら、せめてもう少し駅の近くに引っ越したいと思いつつ、今日も僕は自転車のペダルを漕いで家路についていた。

 このあたりは昔からある住宅街で、築四十年はあろうかという家が立ち並んでいる。そうした家々の中に、突然、薄い桜色の影を見つけ、僕は思わず自転車を止めた。

 小ささな、桜の木がそこにあった。ブロック塀に囲まれた狭い庭の中に縮こまるようにして、その桜は、薄桃色の花弁を鮮やかに輝かせていた。何故、今までこの桜に気が付かなかったのか。僕はしばし、その光景に目を奪われていた。

「どうです。なかなかのものでしょう」

 ふと気が付くと、隣に背広姿の初老の男が立っていた。
 
「私の高校卒業祝いに父が植えたものですから、樹齢四十年ってところです。花をつけるまではずいぶん苦労しました」

 長い話になりそうだと、少し及び腰になった僕に気付かず、その初老の男は話し続けた。
 
「それにしても儚いものですなぁ、桜の花は。あっという間に散ってしまう。まるで人の一生のようですなぁ」

「そうですね」

 仕方なく相槌を打つ。男の顔は暗くてよく見えないが、どうやら酔っ払っているわけではないらしい。

「君にはわからないでしょう。だが、いずれ、私と同じように思える時がくるでしょう」

 男はそう言って頷くと、一方的に話を終え、玄関へと歩き出した。

 僕はなんだか狐につままれたような気分になり、呆然と彼の背中を見送った。

 

 その初老の男のたよりなげな背中には、薄桃色の花弁が数枚ひらひらとこぼれ落ちていた。


(続く)



※同小説「さくら散る庭」の続きは、下記のサイト「erased memories」で掲載致しております。


篠原コウ 小説作品掲載サイト 「erased memories」



エッセイ コロナウイルス蔓延と世界のパラダイムシフト

2020年04月23日 | 小説 (プレビュー版含む)

皆さん、こんにちは

 

ここはネットの辺境ですが、だからこそ、誰も居ない劇場で観客席に向かって叫ぶ喜劇役者のように、好きな事を好きに言えるという事でもあります。

なので、ここでは岡本コウもしくはイチとして、好きなようにやらせてもらいたいと思います。

 

さて、2020年4月23日現在、世界ではコロナウイルスが蔓延し、日々ウイルスによる死者数がニュースで報じられています。

今年初頭まで、こうしたウイルス蔓延の気配は、少なくとも日本ではほぼ有りませんでした。

ニュースでは東京オリンピックのマラソンを東京と札幌のどちらで行うかといった話題が取りざたされ、国会では桜を見る会についての追求が行われていました。

2月上旬にはダイアモンドプリンス号が横浜に入港し、そのまま乗客がコロナウイルス対策で船内待機となりました。

この時点で外国人の日本への入国制限は一切行われておらず、春節休みの中国人観光客も多く日本に訪れていました。

同時期に武漢でのコロナウイルス騒動は日本国内でも報じられていましたが、ニュース等では半分は笑い話として、マスクや防護服をつけた人たちを嘲笑していたように思います。

3月にはほぼ全国の小中高校が休校となりました。マスクの不足が目立ち、一時的にトイレットペーパーの大量購入騒動が起きました。

緊急事態宣言が日本国内で発令されたのは4月7日。全国主要7都市に向けてのものでした。この時点ではマスクが日本国内で深刻に不足しています。

いわゆるテレワークが推奨され、インフラの整備が可能な会社はそれを試行しはじめますが、中小企業にその余力はありません。

ここからわずか数日後の4月16日、日本全国に向けて緊急事態宣言が拡大発令されました。

都市部の飲食店が相次いで休業。都市の歓楽街はシャッター街となり、廃業しかないと叫ぶ声がネットに溢れ始めます。

医療崩壊が目前とテレビで報道されていますが、実情は現場にいる医療従事者にしか分かりません。

4月20日、全国民に一律に10万円の支給が行われる事が決定。こうした中でも与野党間で景気とコロナウイルス対策についての対立がみられます。

 

今年にはいってからの国内の社会状況をざっと振り返ってみましたが、これだけの出来事がわずか三か月ほどで進行しているのです。

たったの三か月です。学校における1学期間の間に、日本社会に絶望感が蔓延しました。おそらくは、諸外国においても。

 

岡本は、自分に何か社会を変えられるような事が出来るとは思っていません。私は無力です。私の助けたい人にこの手は届かず、愛したい人に与えらえるものはほんの僅かです。

 

ただ、私は一介の物書きとして、無力な人間であっても、今の状況を記録しておこうと思うのです。

今後、今の状況が良くなるのか悪くなるのか、それは誰にも分かりません。ただ、どちらに転ぶとしても、教訓というものは残るでしょう。

 

1985年アメリカで発売された有名な楽曲「ウィーアーザワールド」にこうした歌詞があります。ジャスラックが怖いので要約して記載します。

 

「人々が死んでいく今このときにこそ、手をとりあおう。誰かが何処かで(世界を)変えないといけない。知らないふりはもういい。

 心が届けば、きっと皆が力と自由を獲得する。見放されたら、何の力も無くなるさ。負けないと、信じよう。

 変化は必ず起こると信じよう。ただ、僕らが一つになって、立ち上げるだけでいいんだ」

 

この曲に参加した多くのアーティスはいまだ現役ですが、マイケルジャクソンや、ケニーロジャースら、既にこの世にはいない人もいます。

 

彼らの35年前に残した「無力感と戦おう」というメッセージを、岡本はこの記事に託して残します。誰かの心に残ると信じて。少しでも何かが変わると祈って。

自分が決意した、文章を書く事をもう決して捨てないとは、そういう事なのです。私は、人の想いとそれを伝えようとする文章の力を信じます。

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


短編小説(SS) 窓の中、碧い世界 (前編)

2018年01月27日 | 小説 (プレビュー版含む)
(1)


その画面の向こうには、果てしない青空が広がっていた。


小さな部屋の片隅、背中を丸めて、私はモニターを見つめていた。

もう何日もお風呂に入っていない。私の長い髪は縺れて、歪んで、小さな胸の先で揺れている。

…気にしない。何も気にしない。私はもう「女の子」ですらないんだから。

マウスをクリックし、《世界》にログインする。私の生きている場所。本当の私のいる世界。



そこには勇敢な騎士が、魔法使いが、可愛らしい妖精が、私を待っている。

本当の私。世界を守る、明るくて強い、魔法戦士。

困難な使命。守るべき仲間。愛する世界。全部私のもの。



戦いは困難。だけど私たちは怯まない。倒せない敵なんていない。



けれど。やっぱり。それは現実ではないのだ。

午前四時。新聞配達の自転車のブレーキの音。差し込む朝の光。

ログアウトのアラーム音と共に、仲間たちは帰っていく。それぞれの居場所へ。

…私の居場所は、どこにもないのに。



「こんな現実、なくなっちゃえばいいのに」

私はポツリと呟く。その声は誰にも届かない。誰にも。


(2)


私の毎日の日課。朝起きて食事、一日分。歯を磨いて部屋に戻る。着替えはお母さんが用意してくれたものを、そのまま着る。どうせ誰も訪ねて来ない。

パソコンの電源を入れる。仲間たちが来るまで、地道にレベル上げだ。

強くならなくちゃ。みんなを守ってあげなくちゃ…。

ひたすらマウスをクリックする。BGMは消したまま。だって、本当の世界にBGMなんてないから。一人の冒険は大変だけど気楽だ。狼、巨人、亜人間。次々に切り伏せて、次のエリアに向かう。




何時間ゲームプレイを続けていただろう。パソコンの画面に没頭していると、いつの間にか、何かが頭の奥で鳴った気がした。

・・・なんだろう。目の前に光? 眩暈?  

そして、突然何かに吸い込まれるような、そんな気配を感じた。

私は、意識を失った。




気がつくと、私は碧い草原の上に倒れていた。片手には一振りの剣。身に纏った鎧はやけに軽くて、まるで手編みののセーターみたいだった。


「…!!」


しばらく経って私はやっと理解した。

来たんだ。あの場所に。ずっと憧れていたあの場所に。私は、自由なんだ! 私はもう、あっちの、現実の世界の私じゃないんだ! 

なんて素敵な出来事なんだろう。私はこの奇跡を起こしてくれた、今まで一度も信じたことのない神様に、心から感謝した。








立ち上がる。私のみじかい長く美しい金髪が揺れる。深く息を吸う。私は、ここに居る。本当に、ここに居る。剣を軽く持ち上げ、鞘にしまう。カチャリという音。僅かな重さを感じる。胸の高鳴りが止まらないまま、私は近くの村へと走り出した。青く眩しい空が、駆ける私の上に、どこまでも広がっていた。






(3)


モニター越しに、何度も何度も訪ねたその村は、私の想像よりずっと大きくて、活気に満ちていた。

村に一つしかない宿屋も、小さな雑貨屋も、広場にある二階建ての教会も、そしてなにより、そこに住んでいる人々も、私にはすべてが新鮮だった。そこにいる誰もが笑顔で、私にあいさつをしてくれる。この村には珍しいものは何もなくて、めったに冒険者が立ち寄ることはないのだけれど、ゲームをプレイし始めた時、私はこの村を気に入って、時々訪れていた。だから、住人や行商人たち、村の子どもたちとも、ゲームの初期から、私はすっかり顔なじみになっていた。

「おやおや魔法戦士様。珍しくおひとりで?」

村長さんが優しい笑顔で私に訪ねる。

「ええ、少し…仲間たちとはぐれてしまって」

私は、少しはにかんで、ぎこちなく答えた。こんなふうに外で誰かと立ち話するなんて、一体何年ぶりだろう。

「大変ですな。よければこの村で、お仲間が来るまで過ごされるとよい。住むところと食べ物くらいなら、用意できますので…」

「でも、皆さんにご迷惑をかけるわけには…」

「ならば子どもたちに、剣と魔法を教えていただければ。こんな山奥の村ですからな、教えられる住人などおらんのですよ」

…先生? 私が子どもたちの? 驚いて、私は村長さんの顔を思わず見返していた。

「いやいや、かえってご迷惑ですかな?」

村長さんが戸惑う私を見て、慌てて言った。とても心配そうな顔だ。

(ああ、この人は本当に、子どもたちに先生が必要だって思ってるんだな)

そう思うと、私はなんだか安心して、小さく息をついて、言った。

「ぜひ、やらせてください。私で…私なんかでもよければ」

笑顔で、私はそう応えていた。何年ぶりかわからない、本当の笑顔で。


(4)


日差しが暖かく、私たちを照らしていた。

「いーち。にーい」

子どもたちの元気な声が、村の片隅の原っぱに響く。たったの3人。でも、みんな大切な私の生徒たちだ。

「せんせー。すぶりおわりましたー」

一番背の低い男の子、アインが元気よく叫ぶ。

「せんせい。次は何するの?」

そばかすの女の子、フィアがおずおずと尋ねる。三人の中で一番おっとりした、でも頭のいい子だ。

「魔法だよな? 絶対魔法!」

みんなのまとめ役、しっかり者のゼクスが目をきらきらさせて言った。冒険者になるのが夢で、一番声が大きくて、一番優しい男の子。

「えっとねー。うーん今日は」

私が村の子どもたちの先生役を引き受けて一ヶ月。永遠に変わらない春の日差しを浴びて…このゲームの世界に季節の設定がないことを、私は最近になって気付いたのだけれど…私たちの授業は毎日続いていた。

子どもたちは皆、素直でかわいい。この村には何もないけど、みんなとても楽しそうだ。

「んー。魔法もいいんだけど…」

私は、すこし考えてから、言った。

「サッカー、してみようか? この人数ならフットサルかな?」

この世界に来る前から、少し憧れていたのだ。グラウンドでキラキラ汗を流してボールを追いかける女の子たち。彼女たちみたいになれたらなって、そう思っていた。

「さっかーやる!」

「先生フットサルだって言ってるだろー!」

「ケンカしちゃダメなのー」

何の説明もしていないのに、子どもたちはもうすっかりはしゃいでいる。そうだ、ボールを用意しないと。

「ゼクス、ボールって知ってる? 丸くて、投げたり蹴ったりして遊ぶ…」

「鞠か? 鞠ならあるぞ!」

返事を言い終わる前に、ゼクスは村の中央へと駆け出していった。

「ゼクスにいちゃんまってよー」

アインが慌てて後を追う。フィアも、仕方ないなぁという顔でついて行く。三人とも、本当のきょうだいみたいに仲がいい。親を亜人間退治で亡くしていたり、大きな街から逃げるように移り住んだり、生まれた直後から孤児だったりと、みんなの身寄りは様々だけど、そんなことを感じさせるひまもないくらい、彼らは元気だ。




「せんせー。まりとってきたー!」

アインが、自分のお手柄、という表情でにかっと笑う。

「お前ついてきただけだろ! ほら!」

ゼクスがアインを手から鞠をすくい上げ、私に投げた。

「せんせい、それでサッカーできる?」

フィアが不安げに尋ねる。本物の、リアルの世界のサッカーボールよりもずっと軽くて扱いやすい。これなら私にもロングシュートが出来そうだ。

「ばっちり! じゃ、サッカーの授業をはじめます! 足で受けるんだよ?」

私は明るく、とびきりの笑顔でみんなに応える。ずっと、こんな時間が続けばいい。心からそう思いながら、私はボールを足もとに置き、子どもたちに小さくパスをした。ボールはポンと音を立てて、青い原っぱの上をゆっくりと優しく転がっていった。

私は、まだ何もわかってはいなかった。本当に、まだ何もわかってはいなかったのだ。それを思い知らされるのは、もっと後のことなのだけれど…。

ボールは転がり、私と子どもたちの笑い声の間を、駆け巡って行った。日が暮れるまでずっと、私たちはそうやって遊んでいた。


(5)


季節も天気も変わらない村にも、たまには変化がある。行商人の持ち込む商品は時折その品を変えるし、ごくたまには、巨人や亜人間が村を囲む壁の周りをうろつくこともあった。私は村の人々と力を合わせて、侵入者を追い払った。皆に頼りにされるのは嬉しかったし、なにより子どもたちを守れたことが誇らしかった。そうして私がこの村に来て三ヶ月が過ぎ、村の生活にすっかり馴染んだころ、その出来事は起こった。

「通達? ですか?」

村長さんが、村の中央の掲示板に大きな張り紙を貼った。そこには「運営からのお知らせ」と大きな字で書かれていて、その下に細々とした注意書きがあった。

「わしらには中央の言ってることはさっぱりわからんが、貼るのが決まりごとなんです」

その張り紙の内容は、私が久しぶりに目にした、ゴシック書体の日本語で書かれていた。この世界の文字以外で書かれたその張り紙が貼られている事に私はひどく不安を感じて、目で必死に内容を追った。

「PK解禁のお知らせ。エリア攻防戦機能追加。季節表示機能追加。よりエキサイトするゲーム展開。《world》サーバーで戦いまくれ! 仕様変更をお楽しみに!」

何を書いているのか、私は最初、まったく理解できなかった。一瞬意識が遠のき、目の前が白くなり、そして理解した。ああ、そうだ。これは、私がかつて何度も目にした、パソコンの運営サーバーからのメールだ。なんのことはない、ゲームの世界はゲームのまま、現実の世界は現実のまま、ずっとそのままで存在していたのだ・・・。




「せんせー、なんてかいてあるの?」






アインが不思議そうに首をかしげる。アインだけではない、他の村人たちもみな、この張り紙の内容を誰一人理解することは出来ない様子だ。これを読めるのは。理解できるのは…。

「わたし、だけ」

また、一瞬、目の前が真っ白に光った気がした。一瞬の間、暗く閉ざされた小さなあの部屋が、私の視界の奥に広がった。本当の私は、いま、一体どこにいるのだろう。

【後編はこちらから】