論文IX 1.5章 機能、情報そして人間意思について
~~~本文
1.5 機能、情報そして人間意思について
上述の節の結論は、情報と機能の原初的な基礎概念に立ち戻るものことに導くものであった。
上で述べてきた生命理論の始まりでは、情報はエネルギー転換を可能にする機能をもつというものである。
このことについて筆者はさらに詳細に論ずべきことを要求するものである:
情報と機能の概念では「技術圏」科学に深く結合しているのであり、したがって筆者の非-人間中心的なアプローチへの究極的動機を与えるものである。
情報は現代科学での核心的用語である(Baeyer, 2003; Hidalgo, 2016)。
しかしながら、Shannon の情報概念である一般理論での意味での定量的な使用と、コンピュータ科学や、情報意味論での実際的応用との間ではバランスがわるいものがある(Floridi, 2017)。
これはShannonの枠組みは、送る側と受け側との間の区分をもつものであることを、暗に意味するものである。
Shannonは通信システムでのチャネル容量の問題に焦点を置いたのであり、送る側と受け側という明確な関心から意味論や情報が意味するものに焦点を当てたのである。
この論文では、これらの区分についての入りこんだ議論への解の説明のためは十分は紙数を持たない(Deacon, 2010が参考になろう)。
意味論では、人間中心的意味で理解されるべきという傾向を顕著にもっているということは深刻なことである、なぜなら送り手と受け手の概念は共通に、人間送り手であり、彼は然るべき交信の意味を意図しており、一方、(人間)受け手はその交信を翻訳するということに関心にあるからである。
伝達されたものが情報である、その情報は暗号化されたものが解読され、元の意味に再構成されるものであり、かくしてメッセージへと解読意図されるものである。
しかしながら情報の意味論への現代的アプローチでは、この観方は過激的につぎの道筋に転換されるのである、つまりCharles S. Peirceが確立したような初期の意味論理念の復活である(概観については, Short,2007を見よ)。
これは「技術圏」科学での情報概念の基盤化のためにはもっとも生産的のように見える:
別な術語ではあるが、関連するアプローチとしてはAyres' (1994: 42ff.)の「差別化する意味の情報」と「生存ために関わる情報」との区別がよく引用される。
記号論Semioticsは情報の流れとプロセスthe flow and processing of informationに着目して起因性に関して、より複雑な理念を確立するものである。ここでは、三元系triadicであり、記号論的semioticな関係として送り手と受け手の間の因果的なつながりを結合するものであるが、この関係において効率的起因プロセスefficient-causal processが記号signによって媒介され可能にするのである( Millikan, 2009をみよ)。
情報は、記号が実体(対象)に伴っていて、なにかあるもののためにそこに立ち、なにかあるもののためにそこに居るものである、かくして、それはつねに汎関数的functional(数学での変分的な存在)であり[1]、あるいはアリストテレス学派的意味のものであり、現象の説明への、最終起因性(因果性)を加えるものである。
情報と機能(関数)の両方の場合で、われわれは「なぜ」と「何のために」‘why’ and ‘what for’ questionを問う。
かくして、この単純さは、情報がつねになにかあるものに「ついて」‘about’ somethingであること、そして観察者に対して相対的であり、その観察者にとってはその情報が然るべき機能を実現するために妥当であるものである。
記号論では、情報は記号であり、それは対象を代表する、しかしその代表は単独でここに立っているのではなくて、その記号の解釈の意味でのみ妥当になるのである。
これらの解釈は精神現象ではなく、我々が人間機関human agentsについて語る場合でさえ‘それ自体’情報としての記号を受信することが引き金となる事態である。
換言すれば。「何のために」の質問の答えにおいて、送り手の意図を参照する必要がないのである。
現代意味論では、この視点は曰く「目的的意味論」あるいは「生物的意味論」アプローチso-called ‘teleosemantics’ or‘biosemantics’ approachと呼ばれている。これは進化論的な選択プロセスへの意味につながるものである(Macdonald and Papineau, 2006; Millikan, 2009)。
[1] 記号をつかった機能をfunctionalと表現したことに、筆者が数学上のヒントとして「変分法」を意味するなら、思考の幅を広げるであろう。 数学的の世界でこれと対比するのは「微分法」である。いまy=f(x)という関数関係があるとしよう、xは独立変数で、yは従属変数としよう。微分法は関数の独立変数の変化Δxに注目して従属変数の変化Δyを見てそれを独立変数の指定した区間で積分してyの積分値を得る方法である。一方、変分法は指定区間での独立変数の値xiをあらかじめ選んでおいて、その各点での従属変数yiを独立変数と見てとりあつかう法である。そして各yiをその区間全点で仮想的に揺らし、全体としての揺らぎのエネルギーを最小にする。この結果のyiを選びその和を以て積分値とするものである。 本論でのniche最適化問題のケースでは評価(たとえば消費エネルギー最小のような評価基準が与えられているときは)変分法的アプローチが方策としてわかりやすい。(訳者)
この結論は、つぎのようになる、意味するものは、送り手が表現する意図には関わらないものとなり、受け手の行動そのものの解釈へと繋がるのである。そして、コミュニケーションの過程では、送り手の行動でのフィードバックとなる。
この直接的な結論はつぎのことになる、我々は意味の範疇をすべての種類のシステムへ応用することができる、そこでは技術システムのような情報の流れであり、そして意味についての非-擬人的な概念が作動していて、また意味についての人間的領域の間の境界線は切断されてしまっている、それは、思うに、物理的世界とその中のこととしての特定のアプローチへのみアクセスする状態である。
この要約的な議論は分散化したようにみえるが、事実は「技術圏」の存在論的問題の中核へと導くのである。
意味がその情報によって起因された行動ならば、このふたつの間のより深い関係はなんであろうか?
情報は、受け手にとって意味あるのはつぎのような場合である:それは、情報の受け手が、さらなる行動をとるための事前条件preconditionにつながるような、さらに大きなネットワークのなかにあることが現実にわかるような機能実現化を可能にする場合である。
これはつぎのことを意味する;記号論的アプローチは、意味と機能meaning and functionのふたつのカテゴリーを結びつけるのである。
このことは、交差的な学際間領域のギャップであるエンジニアリングと社会科学を埋めるために基本的なものである。
エンジニアリング的なアプローチでは、技術的な人工体は、定義によって、ある機能を満たす。
この機能は、通常、人間意思が定義したものとして概念化されたものであり、したがって、擬人化技術anthropomorphising technologyである。
しかしながら、事実、ほとんどの人工体は、人工体ネットワークの文脈での機能(関数)を提供しているので、結果的に、人間からの目的はしばしば位置付けを低めることになる、たとえば、エネルギー生産と分配システム問題という次元問題といった次元となり、技術システム全体としての高位水準の機能へと棚上げされてしまうことがしばしば起こることになる。
しかし、もし我々がこの高位水準にいざ立ってみると、人間意思からの機能をどのように効果的に決めるべきかの質問の対応は迂遠なものになってしまっていて、具体的な差配が困難になってしまっている。つまりうわべだけの一般化の呈に帰してしまっているのである。
さらに、このことを、もし技術による定義課題の解を見いだすものとしてエンジニアリングを位置付け、そのエンジニアリングについての研究での観察を考えるなら、問題をさらに迂遠となり希薄になっていまっていることになる(Petroski, 1994, 1996; Arthur, 2009)。[1]
エンジニアリングはそれ自体、人間ニーズとゴールに応えるものとして社会に供するのであるが、もっとも日常的しごとは、エンジニアリングによって克服されるべき然るべき技術的挑戦によってみちびかれている。
それは、ひとつの人工体の機能が人工体のネットワークのなかで、少なくとも近接的な意味で定義されることを含んでおり、そして人間意図性はその機能の実現に奉仕するのである。
いま、ふたつの道筋がある、それらは思考の道筋として、人間の意図性がいかに「技術圏」を理解するかの命題を究極的に意味なくしてしまうかの問題である。
・第一は、人間の役割りはネットワークにおいて、発生する機関制generating agencementsのなかにある:双対性の意味で、我々は人間が技術によって定義された機能を実現するにおいて演じ、役割りを切り替えたり、その役割りが問われるかもしれない。
これは、Jacques Ellulのような思想家の系統の技術的決定主義に接近する位置である。
エンジニアは技術のうえに人間目的を持ち込まないが、技術がエンジニアのうえに機能を、持ち込むのである。
自動運転技術においての人間がもつ機能が自動運転を再生産する。
これは自律的人間活動と創造性のために余力をのこす、それは「技術圏」でのそのシステム水準が起源となって、そのケースでの機能的必要性をひとに示すことになって、それからの道筋がはじまっていくのである。
・第二は、本来的な人間意図がもつ機能への設問である。
上の第一視点においては、上述の理念は車の利用者でさえもが自動運転技術の再生産への機能をもつであろうということであった。
しかしながら、我々が生物学的展望を拡張するなら、つぎの類似性へ向かう;生命理論と技術の出発点において、エネルギーと情報の抽象モデルの間での類似性を意味するのである。
この場合、人間目的は、一方で、人間意思によって決まるのではなくて、むしろ生物学的機能を充足しようとするであろう。
第二の観察はとくに経済学の文脈において重要である。
経済学はエンジニアリングの共通概念と共起するのである。それは経済が究極的に人間目的に、さらに具体的には人間消費に奉仕することであるという信仰に基づいている。
非常に概念的なこれらの目的性は、人間主体性の領域において定義されないはままにあった。
このことは、基礎的であり、またきわめて重要な存在論的仮定である。それは啓蒙時代へ立ち返らせるのである。それは、人間性基本となるものは、その人間自身にその目的があるべきであるというカントの理念へと立ちかえる存在論上の仮定である。
この伝統では、経済学は個人絶対的な自由理念が基礎であり、その自由理念では、経済目的は人間福利human welfareであることを意味している。
実際、選好preferencesについての生物的説明については、経済学では未だ、稀にしかおこなわず、その基盤はできていない(overview in Robson and Samuelson, 2010)。
もし、生物的機能として人間消費を含めることを問うならば、我々は、人間目的を理解する人間中心主義から事実上、第一次的に離別を意味する概念上移動が現実化する(Saad, 2007の示唆ならびにCorning, 1983, 2005についての構築についての思考の系統)。
この動きは次のことを主張する;人間消費は生物学的現象であって、これは技術によって生物圏に定義化された機能への相互微調整適合構造化human niche constructionしていくものであり、ここでは、たとえば複雑な人間社会の物質再生産性をも可能にするような場合がそれである。
この視点は一般的なダーウィン進化理論において技術を総合化するであろう、それは個人次元の人間目的のためでなく、人口規模レベルでの現象として、(相互微調整していく)人間ニッチ構築のための機能的な状態である(Odling et al., 2003)。
換言するならば、この動機は、非-人間中心的となるものである。そこでは、人間のゴールを説明するに、人間主体性と自律性が説明されない状態でままで、一方で、生物学的ならびに文化的な進化を参照していく場合である( Boyd and Richerson, 1985, Richerson and Boyd, 2005の講演).
しかしながら、文化的進化の自律性という地位について、初期そして現在までの理論は廃れてたが、この閉塞はいま破られようとしている(ミーム学‘memetics’の概念がこれである, Dawkins,1989, Aunger, 2000)、 ここでは理論的可能性があって、生物学的進化は、あたらしい人工体水準でのあたらしい進化プロセスの発生となるというものである。この人工体水準では、生物学的機能以上に人間機関での別タイプの機能性を持ち込むのであり、それら実体の再生産性に奉仕するのである(初期の文献では、‘genes’の代わりに‘memes’を使っている)。
この質問は「技術圏」科学において再度明言されなければならない:
我々が曾て、人間ゴールについて人間中心的な説明から第一回離脱を完了したが、第二の動きは直裁的である:「技術圏」進化は人間目的のために、非-生物学的機能を確立するか?
[1] (訳者からのコメント)~~~~
この指摘は、研究開発支援情報システムのようなエンジニアリングと基礎科学、それに経営科学へとつながるような、交差学際間システムで、システム設計として使用者の満足を勝ちうることのむずかしさを意味する難題conundrumを意味している。これ自身がエンジニアリング課題である。 筆者が人間設計よりも、人間行動をHayekを前面にだし、システム対象事態が改良進化をする生命現象系としてみていくこと、つまり「技術圏」も存在を考えることの動機になっていると理解するものである。
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