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代表的日本人-二宮尊徳-内村鑑三 私訳(2)

2009年08月31日 09時01分47秒 | 代表的日本人/内村鑑三
 また、村民の一人は手に負えない怠け者で、彼の計画のすべてに対する猛烈な反対者だった。
 その男の家は崩れ落ちるばかりの状態だったが、彼の窮乏は新しいやりかたの弱点の確かなしるしだと、彼は自分の隣人たちに広言していた。
 ある時、たまたま長官の家の者がその男の家の便所に入った。それは長い間、手を加えていなかったので、はなはだしく腐っており、ちょっと触れただけで倒れてしまった。
 その男の憤りは止まるところを知らなかった。
 棍棒を持って出て来て、一打ちあるいは二打ちその過ちを詫びる男を打ちすえた末に、長官の家に辿り着くまで追いかけた。
 そこで彼は長官の家の門前に立って、彼の周りに集まってきたたくさんの群衆にこれ聞こえよがしに、自分の被った過酷な災難と、この地方に平和と秩序を与えられない長官の無能力とを並べ立てた。
 尊徳は男を彼の前に来させ、できるだけ柔和な態度で彼の召使の過ちの許しを請い、そして続けて言った。-
 「それほど便所が倒れそうになっていたからには、おそらく住まいも完全な状態ではあるまい。」
 「私は貧乏人ですから」とその男は不愛想に答えた。「住まいを修復することができないのです。」
 「そうか」、が尊徳先生の柔和な答えだった。
 「それならお前のためにそれを修繕するように、我々が人をやってはどうか?
 お前はそれを承知してくれるか?」
 驚きにとらわれると共に、すでに羞恥の念が圧倒して来ていたその男はこう答えた。
 「そのようなたいへんご親切な申し出に私が反対することができましょうか?
あまりにもったいないおめぐみでございます。」
 彼は直ちに、古い家を取り壊して、新しい家を建てる敷地の手配をするために帰された。
 翌日長官の部下たちが新築の用材一切を整えて現れ、何週間かの内に近所隣中で、もっとも素晴らしい体裁の家のひとつが出来上がった。
 便所も誰が触っても大丈夫なように、修繕された。
 村民の最悪の者がこのようにして降伏したのである。
 以来この男ほど長官に忠実だった者はいなかった。
 後になって彼がその時経験したまざまざとした恥ずかしさを物語る時は、涙がいつもほとばしり出るのであった。

餌を運ぶ親のなさけの羽音には 目をあかぬ子も口をあくなり 二宮尊徳(穴沢道夫氏製作)

 ある時、村人の間に不満が広がり、どんな<愛の業>もこれを鎮めることができないことがあった。
 我が長官はすべてこのようなことに対して自分自身が責められるべきだと考えた。
 「天がこのようにして私の誠の足りないのを罰し給うのだ」と、彼は自らに言った。
 ある日彼は突然人々の間から見えなくなった。それで彼らは、どこに行ってしまわれたのだろうかと不安になった。
 何日か後に、彼は遠方の寺に行っていたことが分かった。そこで祈り瞑想するためと言うより、実はおもに民を導くために彼自身がさらに多くの誠を着せられるようにと、さんしち21日の間断食するためだった。
 村人たちは、彼にすみやかに戻られるようにと懇願した。というのは、彼の不在は人々の間の無政府状態を意味したからである。彼らは今こそ、彼無くしてはやって行くことができないことを悟ったのだった。
 寺での断食の期間が終わり、それから彼は少しの食事を摂って体力をつけた。そして実に「三週間の断食のあと、村までの二十里を、村人が後悔していると聞いて、彼は心喜ばせながら、徒歩で帰って行ったと言う。
 まさしく、この人は鉄でできた体を持っていたに違いない。
 こうして数年間の倦むことのない勤勉と、節約と、それに何にもまして<愛の業>とによって、荒廃の面影は消え失せ、農地には耐えられる程度の生産力が戻り始めた。
 長官は他の地方から入植者を招き、彼らをそこで生まれた住民たち以上に思いやりをもって待遇した。「というのも」、と彼は言った。「よそから来た人は、より多くのやさしさを我が子以上に必要とするのである。」
 彼にとってある地域が完全に復興したということは、ただその土地が再び肥沃になったということを意味するのではなく、十年の飢饉に備えるに十分な食料があるということであった。
 その点で、彼は「九年分の蓄えがない国は危険に瀕しており、三年分の蓄えがない国はまったく国ではない」と言った、ある中国人賢者の言葉に文字通り従ったのである。
 すなわち、我らが農夫の聖者の見るところによれば、今日の国々中で最も誇り高ぶっている国(アメリカ?)は「まったく国ではない」のである。
 -しかし飢饉はこれら食料の備蓄が完了する前に始まった。
 一八三三年は、東北地方一帯にとって大いなる困難の年であった。
 尊徳は、夏に茄子を食べてみてその年の凶作を予言した。
 それはまるで秋茄子のような味がして、<太陽がすでに一年の光を射しつくした>明らかな徴だったと、彼は言った。
 彼は直ちに人々に一戸当たり一段の稗の種を蒔くように命令を発し、その年の米の不足分を供給しようとした。
 そしてこれが実行された。次の年、食糧難が近隣の地方いたるところを見舞った時、尊徳の管轄下にある三つの村はただの一軒も欠乏に苦しまなかったのである。
 「誠を尽くして生きる道は、前もって来るべきことを知ることができるのである。」
 我らが長官は預言者でもあった。
 約束した十年の終わりには、藩の治世下で、かつて最も貧しかったところが、全国で最も秩序整然とした、最も十分な蓄えのある、そして自然の肥沃さから言う限り、最も生産的な地方となったのである。
 単にその村々が昔の繁栄の日々のように米一万俵の収入を毎年生産するようになっただけではなく、今では長年の食糧難に備えるために十分な穀物で満ちたいくつかの倉庫を持つようになった。そして、我々が喜んで付け加えたいことは、長官自身が自分のために、数千金を残し、後年それを慈善のために自由に用いるに至ったということである。
 彼の名声は今や遠くまで広まった。そして全国の諸侯は使者を遣わして、その領内の荒れ果てた村々の復興のために、彼の教示を求めた。
 以前には決して誠実さだけでこのように顕著な成果が得られたことはなかった。
とても単純で、非常に安上がりに、人はただ「天」と共にあって、これだけのことを成就することができるのである。
 当時の怠惰な村社会に対して、尊徳が最初に公的に達成したものの、道徳的感動は途方もなく大きかった。

 <四、個人的援助>
 彼のそのほかの国に対する公的な業績について語る前に、彼の悩める同胞に捧げることを求められた親切な力添えのいくつかをここで私に物語らせていただきたい。
 彼自身はまったく自主自立の人だった。彼はどんな場合にも、勤勉と誠実とが独立心と自尊心を育てることを知っていた。
 「宇宙は次から次へと進化する、そして我々の周囲のすべてのものの成長は一刻も止まることはない。
 もし人がこの永遠に止まることのない成長の法則に従い、それと共に働くならば、貧困は求めても得ることはできないであろう。
 ある時、貧困に打ちひしがれている農民の一団に向かって彼は言った。彼らは領主の悪政に対して不平を訴え、まさに先祖伝来のふるさとを去ろうとしていたその時に、尊徳のもとへ彼の導きと教えとを聞くために来たのだった。
 「お前たち一人一人に手鎌一丁ずつさしあげよう」と、彼は言葉を続けた。「お前たちがもし私のやり方を取り入れ、それに従うならば、お前たちの荒れ果てた田畑を楽園とし、すべての負債を返し、自分たちの土地の外に幸運を探し求めることなく、もう一度豊かさの中に喜び楽しむことができる」。
 人々はその通りにして、この聖人の手から「手鎌一丁づつ」を受け取り、その忠告したように熱心に仕事にいそしみ、数年にして彼らが失ったすべてのもの、いなそれ以上のものを取り戻したのだった。
 またある時、村民にまったく声望を失ってしまったある村長が、尊徳のもとに彼の智恵を求めてやって来た。
 この聖人の答えは、想像され得る最も単純なものだった。
 (こうなったのは)「自己への愛があなたの中に強いからである」と、彼は言った。
 利己主義は動物的本能から来る。そして利己的な人間は動物のようなものである。あなたは自分自身を、そしてあなたのすべてを彼らに捧げることによってのみ、あなたの民に声望を得ることができる。」
 「どうしたら私はそうすることができますか」とその村長は尋ねた。
 「あなたの土地、あなたの家、あなたの衣服、あなたの一切のものを売り払いなさい。そしてそれによって得た金銭はことごとくこれを村の基金に寄付し、あなた自身をまったく村民への奉仕のために捧げなさい。」これが尊徳の答えだった。
 普通の人にはこのような厳格な手続きをやすやすと実行することはできない。 
 村長はその決心ができるまでに数日の猶予を願い出た。
 その犠牲は彼にとっては全体としてあまりにも多すぎると、彼が言うのを聞いて、尊徳は言った。「おそらくあなたは家族の窮乏を心配しているのだろう。考えて見よ。あなたが自分の役目を果たすのであれば、私はあなたの助言者として、どうやって自分の役割を果たすかということが分からないのですか?」
 その男は帰って行って、教えられた通りに実行した。 
 彼の声望と評判は直ちに戻って来た。
 一時の窮乏は、彼の尊敬する指導者が自分の蓄えから供給してくれた。だが、すぐに全村がこの指導者を支えるようになり、そして短い期間のうちに、彼は以前にもまして富める者となったのである。
 藤沢という地区のある米穀商は、凶作の年に高値で穀物を販売して莫大な資産を作った。しかし、その後彼の家庭を見舞った、続けざまの不幸によってほとんど破産状態になってしまった。
 彼の親戚の一人は、尊徳の親しい知人だったので、失われた資産を回復する手段を考え出そうと、この聖人の智恵を求めた。
 尊徳はいつも個人的利害を問題とする人の相談に与ることには、あまり気が進まなかったが、長い間の執拗な懇請の後、ようやく彼らの要求に応じることになった。
 その男についての彼の<道徳的見立て>は、その災難のただ一つの原因をたちまち明らかにした。
 「その方法とは、今あなたに残っているすべての財産を慈善のために施すことにある」と、尊徳は言った。「そして素手でもって新しく始めることである」
 彼の眼には、不正な手段で得た財産は、まったく財産ではなかった。
 それはただ我々が直接に自然から、我々自身がその正しい法則に従うことによって受けた時のみ我々のものとなるのである。
 その男が資産を失ったのは、それがもともと彼のものでなかったからである。そして男の残しておいたものもまた「清くないもの」であって、それだからまた何事もそれによってなされるべきではなかったのである。
 貪欲は、長く苦しい苦闘を通らずには、このような根本的改革に屈服させることはできない。
 しかしこの「道徳の医者」の評判は、その「処方」を疑うには余りにも大きかった。そうして彼の助言の結果は、その男の友人、親戚一同の驚嘆に、そして(言ってみれば)驚愕になったのである。
 その男は残してあった七百両(三五〇〇ドル)すべてを、地区の人々に分け与えた。そして彼自身は回漕業を始めた。これは彼が少年時代から身に着けていた唯一の裸一貫でできる仕事だったのである。
 その男にとっても、また大概のその地の人々にとっても、そのような決断が及ぼす道徳的効果を、我々はたやすく想像することができる。
 すなわち、その貪欲によって引き起こされたすべての苦痛はたちまち取り去られ、彼の不幸を喜んだ人たちが彼を助けようとしてやって来た。そして彼はほんの短い期間、櫂を握ったに過ぎなかったのである。
 今回はすべての街の人々の善意と共に、幸運は彼に微笑みかけはじめた。そして彼の後半生はそのはじめ以上に繁栄したということである。
 ただ残念なことに、歳とともに、貪欲がもう一度彼に戻って来て、その晩年は極貧の中で過ごしたと聞く。
 孔子のある書に「幸福と不幸とは自分からやって来るのではない、ただ人々がそれらを招くのである」と言っているではないか?
 我らが師は、近づくのにやさしい人ではなかった。
 どんな階級の来訪者でも、いつも門前で「私は勤めに急きたてられております」と言う例の東洋流の弁解をもって追い払われた。
 ただ最もしつこい者だけが、彼に聞いてもらうことができた。
 尋ね求める者の忍耐が続かなければ、この教師はこう言うのだった。「彼を助けるべき私の時は、未だ来ていない」と。
 かつて我々は、ある仏僧が遠い道のりを檀家の人たちを安んずるために教えを請おうと歩いてやって来たが、そっけなく拒否されたことを聞かされている。だが、彼は忍耐の人であってその衣を師の家の前の土の上に敷いて、三日三晩、苦行と忍耐によって師が彼の言うことを聞いてくれることを信じて座りつづけていた。
 ところが尊徳は、一人の乞食坊主が犬のように門の近くに座っていると聞いて、烈火のごとく怒った。そしてその僧侶に向かい、直ちに立ち去って「民の霊魂のために祈祷と断食する」ように命じた。
 このような待遇が、尊徳がその僧侶を信頼をもって受け入れる前にいくたびか繰り返された。この人こそ、後年、彼の金力と智恵と友情との自由な享受者となった人である。
 彼の友情を得るのにはいつも非常に高くついた。しかし、ひとたびそれが得られた時には、何ものもこれにまさって貴重で、長続きするものはなかった。
 彼は自分自身を偽っている誠意のない人間には何もすることができなかった。
 宇宙とその法則は、そのような人間に敵対していたので、彼の中の、あるいはどんな人の中の力も、彼を窮乏と堕落から救い出すことはできなかった。
 その人を先ず「天地の理」と和解させ、それから何なりと絶対に必要な人的援助をするのが、彼のいつものやりかただった。
 「もしキュウリを植えたならキュウリ以外の何かを収穫しようとは思わない。
 人は蒔いたものを、また収穫しなければならない」
 誠実だけが窮乏を幸福に替えることができる。小手先の業や策略は何の役にも立たない」。
 「一個の魂は宇宙の中ではごくごく小さなものに過ぎないが、その誠実は天地を動かすことができるのである」。
 「義務はその結果に関わりなく義務である」。
 このような、そしてそれに似た多くの教訓によって、彼は指導と救いを求めて来た、もがき苦しみつつある多くの魂を助け出したのである。
 こうして彼は自然と人間との間の仲介者として立った。その道徳的歪みによって、自然が惜しみなく授けていた権利を失っていた彼らを、「自然」に引き戻したのだった。
 このような我々自身の骨肉である同胞が与える福音に比べて、近ごろ我々の土壌に洪水となって押し寄せて来た西洋のすべての智恵は何であろうか!

 <五、大きな公共事業>
 彼の信念がひとたび下野国の三つの荒れ果てた村の復興において素晴らしい結果として現われ、その名声がそれによって間違いなく確立すると、彼は全国各地の領主たちから絶え間なく、その仕事を中断されるようになった。
 彼はそのような割り込みに対していつもの無愛想な訪問者接待法で、自分自身を守ったが、彼の「信仰のテスト」に耐え抜いた者も、少なくはなかった。そしてこれらの人々は彼の賢明な助言と実際的な援助とによってあらゆる利益を受けたのである。
 彼の一生を通じ、広大な土地を領する約十人の領主たちが、貧窮に陥った領土の改良を彼の尽力に仰ぎ、そして同じように利益を受けた村々の数は数えきれなかった。
 彼の人生の終わり近くには、彼の国家への功績は彼が中央政府に登用されるほど計り知れないものとなった。しかし、彼の使命の素朴な性格は、自分と同じ階級の貧しい労働者たちの中にあって最もよく顕われたと言える。
 驚くべきはしかしながら、最も卑しい生れで、素朴な教養しか持たない一人の田舎者が、高い位の人々と交わる時にはまさに貴人のように振舞うことができたことである。
 当然のことながら、彼の藩主小田原侯が彼から最も多くのものを得た。
 同名の城下町に連なる広大な領地は、彼の監督の下に置かれた。そして多くの荒れ果てた、かつては田畑であった土地が、彼の倦むことのない勤労と、決してくじけることのない<愛の業>によって復興されたのである。
 一八三六年の大飢饉は、彼の同胞への最も目覚しい貢献を証しした。
 何千人という人々がまさに餓死の瀬戸際に瀕していた時、彼は当時江戸に住んでいた藩侯からそれらの人々を早急に救い出すように依頼された。
 尊徳は急いで小田原に向かった。当時はまる二日の道のりだった。そしてその地の役人たちに向かって、飢えつつある人々をただちに救うために、城の穀倉を開く鍵を手渡してくれるように求めた。
 「殿様の書かれた許可状を我々が得るまではできない」というのが、彼らのむしろ人を馬鹿にしたような返事だった。
 「よろしい、それならば」と、尊徳は応えた。
 「しかし、各々方、これから殿様の書状が到着するまでの間に、さらに多くの飢えた人たちが餓死することは分かっています。私たちは彼らの忠実な保護者として、彼らが今しているように、食事を断って、この役所にとどまり、使いの者が帰って来るまで断食しているべきだと信じます。
 このようにして我々は我らの民が被っている苦しみの幾分かを学ぶことができるでしょう。
 四日間の断食はこれらの役人には考えるにも恐ろしいことだった。
 鍵はすぐさま尊徳に渡され、救助はただちに効果を現した。
 願わくば、どんな時代、どんなところであっても、すべて、民を保護する者たちは、我が道徳先生の申し出を心に留めて欲しい。
 すなわち、飢餓が人々の戸口近くに迫っているのに、官僚主義はその苦しんでいる人たちに救いをもたらすことができる前に、無用の形式を通らなければならないのである。
(つづく)
 
穀物蔵を開けさせる尊徳 小田原市二宮尊徳記念館

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