三 暗黒の中で、そして暗黒よりの脱出
いくつかの疑問が彼の心の中に解決を迫って来た時、彼は仏教の根本的な知識の中へとまず導きいれられた。
最もはっきりしているのは、仏教に夥しい宗派が存在することだった。
彼は自問自答した。「一人の人の生涯と教えに源を持つ仏教が、今日こんなにも多くの宗派と分派に分かれているのは、何故だろうか?
仏教は一つ以上あるものなのだろうか?
自分の周囲に見ることは何を意味しているのだろうか?すなわち、一つの派は他のすべての派の悪口を言い、それぞれが自分こそ仏のほんとうの心を心としていると主張している。
海水の味はどこでも同じなのだから、仏の教えに二つあるなどと言うことはあり得ない。
ああ、この宗派がそれぞれに分かれていることについての説明はいったい何処にあるのだろうか?そしてこれらのさまざまな宗派の内で、どれが仏の道であり、我が歩むべき道だろうか?
これが彼の抱いた最初にして最大の疑問だった。まったく当然の疑問だったと我らは信ずる。
私もまた似たような疑問を仏教やその他もろもろの宗教について抱く。そして我々は我らの主人公に、その戦いにおいてまったく同情することができるのである。
彼の貫主も、ほかの誰も、彼をこの疑問から解き放ってはくれなかった。自然彼は一人祈りに打ち込むことになった。
ある日、彼が特に尊び、信仰する虚空菩薩のお堂で、祈りを終えて帰って来た時、彼の内心の重荷は耐え難くなり、口から大量の血を吐いてその場に倒れてしまった。
仲間の僧たちは彼を助け起こし、しばらくして彼は意識を取り戻した。
この事件があった場所は今でも記念されていて、葉にいくらかの赤みを帯びる竹の葉はその時に吐いた血が飛んで染まったものと言い伝えられている。
しかしながら、ある晩、この若き僧侶の目が涅槃経(仏陀が涅槃に入る直前に書いたとされる教え)に注がれていた時、次の言葉が彼の注目を惹いて、その迷える心からの言い表しがたい解放となった。
それは「依法不依人」(法に依りて人に依らず)の一句だった。
それは、人は人間の意見に信頼すべきではなく、どんなに説得力に富み、立派に聞こえても、信頼すべきなのはただ、「偉大な師」によって遺された経典だけであって、彼はすべての問題をそれによって、ただそれによってのみ決定すべきであるということだった。
彼の心は今や平安に満たされた。
彼はここに拠って立つべきものを見出した。これまでは全てのことが彼の足下に沈んで行く砂のようだったのである。
誰が、このような日本人僧侶の記事を読んで、四百年の昔、エルフルトの僧院における似たような場合を思い起こさない者がいるだろうか?多くの疑問(意識を喪失するほどの)の後、若いドイツの修道僧が彼の休息を一冊のラテン語訳聖書の中の、彼の目を捉えた一句の中に見出し、その時以来、それを信仰と生命との己が砦として固守したそのことをである。
しかしこの仏教僧侶の場合には、権威ある経典が何であるかの問題は、キリスト教徒であるルターの場合のように、それほど簡単なことではなかった。
このドイツ人には信頼するただ一冊の聖書が在ったのに対して、この日本人には数十の、時には度々矛盾する経典があり、その中から最高の権威を持つ正典を選択しなければならなかったのである。
これはしかしながら、いわゆる「高等批評学」がまったく知られず、何故、何のために(これを書いたか)を問うことなく、ただ古人の記録に単純な信頼を置いた時代においては、比較的容易な仕事だった。
我らの主人公にとっては、経典の一つ(無量義経)が大乗、小乗におけるすべての経典の年代順を示していることを見出したことで十分だった。
そこに示された順序は、釈迦の最初の公的説教を含んでいると想像されている華厳経から始まり、彼の伝道の最初の十二年を含む阿含経、第二の十六年間の教説を含む方等経、第三の十四年間の般若経、彼の生涯の最後の八年間の妙法蓮華経、すなわち法華経である。
この順序からの当然の結論は、最後に記された経典が釈迦の全生涯の教説の精髄を含んでいるということだった。
あるいは日蓮の言葉で言えば、その中に「万物の原理、永遠の真理、仏陀の本源の状態の隠された重要性とその悟りの美徳」があったのである。
ここからその妙法蓮華経という美しい名が来ている。
ここで仏教経典の正確な順序について、あるいはそれぞれの経典の比較による価値について批判的な検討に立ち入ることは、我々の目的ではない。
日蓮がこのようにも重視した経典は、釈迦の死後五百年という後代の産物であり、右に上げた種々の経典の順序を示している無量義経は明らかにこの新しい経典に対して信頼性と至高の権威を与えるために書かれたものであることは、今日においてはまったく議論のないところだと私は考える。
しかし、それがたとえ何であれ、我々は、我らの主人公がそれらをここに示された順序において受け入れ、そして法華経の中に仏教信仰の標準を発見し、その多くの不一致をことごとく包括する、明らかで単純な説明を見出したということを知るだけでこと足りるのである。
彼がこの結論に到達したとき、彼の内なる歓喜と感謝は溢れる涙となってほとばしり出た。
彼はついに自分自身にこう言った。「私は父と母を捨てて、この素晴らしい信仰に身を捧げて来た。どうしてありきたりの僧たちの伝統的な教えに固執して、如来の金言を求めずにおれようか?」
この聖なる大望が彼の中に沸き起こったのは、彼が二十歳の時だった。
田舎の寺に隠遁していることはもはやできなくなった。
管主と仲間の僧たちに別れを告げ、彼は大胆に世の中へ乗り出した。真理を遠く、広く求めるためである。
彼が最初に目指した地は鎌倉だった。時の将軍の都である。
一人の田舎僧が都にいた。-一人のルターがローマにいた。-奇怪な現象が彼の目にふれ、奇妙な教義が彼の耳に聞こえて来た。
その寺の造りの壮大さと僧階級の華やかさで、町はまったく虚偽に降参していた。
禅宗は上流階級を、浄土宗は下層階級を導いていたが、前者は無益な思弁の泥沼の中に、そして後者は阿弥陀仏を妄信する錯乱状態の中にあって、仏陀のほんとうの教えは何処にも見出されなかったのである。
それだけではなく、彼はお釈迦様の像が子供のおもちゃとして与えられ、伝説的存在に過ぎない阿弥陀仏が、彼らが仏教徒の礼拝と呼ぶものにおいて至上の位置を与えられているのを見た。
僧の衣をまとった人々が、彼らの公然とした恥をその誇りとしていた。
彼らは教えた。救いはただ阿弥陀仏の名を唱える中にあるのであって、徳を積み規律を守る行為の中にはない。そうして「南無阿弥陀仏」のやかましい唱名の中にあって、もっとも甚だしい種類の放縦が民衆の間に流行していた。
五年間の鎌倉での滞在の間に、彼はこの世がすでに「末法」の世であること、経典の中で如来によって預言されたように、光の新しい時代を来たらせる、新しい信仰が必要であること、そしてその好機であることを確信させるに足るものを見た。
つい最近、大阿上人という、世間から尊崇されていた僧が、彼に従う弟子たち一同に恐怖を与える死に方をした。
彼の体は「縮まって子供のように小さくなり」皮膚の色は「黒く墨を塗ったように」変わった、-これは彼が地獄に落ちたことの間違いない徴であり、そして彼が説いた信仰が悪魔的なものだったことの証拠である。
次いでまた空中に現れたこれらの奇怪な現象は何を意味するのだろうか?
「西の空に赤と白の雲がはっきりと三筋ほど立ちのぼった。そしてその内白い二筋の雲はやがて消えてしまい、赤雲が、<火の柱が天の頂を突き刺すように>残った。
すべてそれに続いて激しい地震が起き、たくさんの寺院が倒壊した。そして人間も動物も、彼らの救済のために造られたはずの建物の瓦礫の下敷きになって呻いた。
「すべてはこの国に真の経典が説かれず、誤ちが教えられ、信じこまれているためである。
我こそはこの国に真の信仰を復興する使命を天から授かっている者ではないか?
このような思いを抱いて、連長は鎌倉を後にした。「都は真理を広めるには良いが、それを学ぶところではない」と賢明な評を下しつつ。
少しの間両親を訪ねて後、彼はさらなる知識の探求へと出発した。
比叡山は天皇の都から一切の悪気を払うために、京都から鬼門(悪魔の門)の方角に聳えていて、過去千年の間、日本における仏教研究の主な宝庫だった。
海抜二千五百フィート、亭々とした杉の木立に囲まれ、鏡のように穏やかな琵琶湖の雄大な景観を眼下に、釈迦の道が探求され、黙想され、そして伝えられていた。
その盛んな時代には、全山が騒々しい植民地の体を装っていたに違いない。それは三千の強力な乞食たちの軍隊を匿い、民衆の脅威であり、代々の天皇たちの脅威となっていたのである。
源空(法然)はここで学んだ。そして山中において教えられるさまざまな教派とはまったく反対の顕教派仏教の一宗を開いた。後になってそれを極めて広く人々に採用されるものとした。
彼の弟子であって、真宗の開祖である範宴(親鸞)もまたここの学僧だった。信仰の奥義に達することによって国民的名声を得た他の多くの人々もまたそうだった。
こうして今や我が蓮長は、純粋な仏教を日本に伝えようとの大望を抱いて、安房の国の彼の生れ落ちた茅葺の家屋から四百里を歩いて、同じ山に啓示の光を求めてやって来たのである。
新しい研究の機会がこの地で提供された。蓮長は手に触れることができる限りの書物を貪るように読破し吸収した。
しかし彼の専門は法華経だった。-それは彼の経だった。-その貴重な写本と注解書をこの山中で手にすることができた。
実は叡山を中心とする天台宗は、この教典を重んじていたのである。
同宗の「六十巻」と称せられるものは、この一書についての六十巻の注解書だった。
同宗の中国人の開祖である天台(天台大師)はそれについて三十巻(法華玄義、法華文句、摩詞止観、各十巻。これらを天台の三大部と言う。)を著した。
そして彼の弟子の一人である妙楽(六代目の弟子)は師の注釈になお注解を必要とすることを見出して、最初の三十巻について更に三十巻を著したほど、それは驚嘆すべき書だった。
そのうちの十巻(法華玄義)はこの経典の題号となっている六個の文字の各々をそれぞれに論じたものである!
我々には特に異常なものとは見えないこの書の意味が古人には非常に深遠に思われた。
-十年間の長い歳月、蓮長は叡山に籠って、これらの複雑な問題を掘り下げて深く考えた。
我々はただ彼の到達した結論を示すことができる。
彼は今や完全に、法華経は他の一切の経典に勝って優れているという彼の抱いていた見解に、確信を抱いた。
すなわち法華経はその純粋なまま叡山の開祖である最澄によって日本に紹介され、彼の後に出たもろもろの僧たちによってそこにかなりの汚染が招来されたということである。
たびたび京都に、そして一度は奈良及び高野山に更なる確信を固めるためにその探求を深めた。
そしてこれ以上疑うことができなかったその時、彼は法華経のためにその生涯を捧げようと心に決めたのである。
一度彼はその目で日本国のすべての主神たちが、彼の守護を約束するためにやって来るのを見た。
そして彼らが空中に消え失せるや、天来の合唱が天上から聞こえて来た。それはこう言った。「この人、世間に行じて、よく衆生の闇を滅ぼす」と。
しかしながら彼は似たような啓示と迫りを受けた、ただ一人の神秘家ではなかった。
彼は今や三十二歳だった。友なく、名声なく、さらには独立独歩の不屈な人間だった。
彼には真宗の範宴(親鸞)のように、それによって自分の主張を述べるべき先祖代々の血統はなかった。
彼は一介の漁夫の子であり、彼自らが自称したように、「海辺の賤しい階級の人間」だった。
また彼の研鑽して来た学問も、最澄や空海その他優れた学者たちのように、外国の地で習得されたのではなかった。-それは当時も、今日と変わらずその道の秘密を解く鍵を持つ者として日本人に認められるために、もっとも肝心な事柄だった。
どのような種類の後ろ盾も彼にはまったく無かった;他のほとんどの開祖たちが受けたような皇室の庇護などとんでもないことである。
彼はただ一人、あらゆる勢力に対抗して、当時の有力なさまざまな宗派の人々とはまったく違う見解を持って空手で始めたのである。
彼は我々が知る限りでは、日本の仏教史の中で唯一の例である。彼は倣うべき何らの先例もなく、一つの「経」とひとつの「法」とのために、生命を投げ出して立ち上がったのである。
彼の生涯で興味のある点は、彼が主張し宣伝した教義的見解よりも、むしろそれを主張した勇敢な方法である。
真の意味においての宗教的迫害は、日本においては日蓮から始まったのである。
四、宣言
「預言者は自分の故郷においてのほかは、敬われないことはない」。
しかも預言者はその公生涯を自分の故郷から始めるのが常なのは痛ましい事実である。
彼はこの世にあっては戻るべき家もないのに、その故郷からの引力を感じ、そして必ずそこでどのような待遇を受けるかにかかわらず、鹿が谷川の水を慕い喘ぐように、ただ排斥され、石で打たれて追放されるためにその地に赴くのである。
蓮長の歩むべき道はそれ以外にはなかった。
小湊の彼の貧しい家では、彼は両親が息子の帰郷を熱心に待ちつつあるのを見出した。
そして彼の受けたすべての試練の中で最初にして最大の試練は、両親の<彼が少年時代に養育された寺の管主に任ぜられるのを見たい>という自然な望みに対して異議を申し立てることだった。
彼は今やその名を日蓮と改めた。日―蓮とは彼を生まれ出させてくれた日輪(太陽)と、彼がこれから世界に伝えるべき経典とを意味するものだった。
建長五年(一二五三年)四月二十八日、ばら色の太陽が東の水平線上に半ば現れたとき、日蓮はぼうぼうとした太平洋を臨む断崖の一角に立っていた。そして前面の海と背後の山に向かって、そしてそれらを通して全宇宙に向かって、彼は彼自身が定めた祈祷の言葉を繰り返した。
それは他のすべてのものを沈黙させるための祈祷であり、彼の弟子たちを地の果てまで導くため、そしていつの世においても彼らの合言葉となるための祈祷だった。まさにそれは仏教の真髄、人間と大宇宙の本質を体現したものだった。
これこそすなわち、「南-無-妙-法-蓮-華-経」、Namah Saddharmapundarikaya Sutraya,、「私はかしこんで妙法蓮華経に信頼する」との意味である。
朝に大自然に向かって彼は語りかけた。午後には彼はその地の人々にこのことを語りかけるべきだった。
彼の名声はすでに近隣全体に広がっていた。
鎌倉、比叡山、奈良において、十五年の歳月を研究に費やした彼には、郷里の人々に語るべき新しいものが、深遠でまた啓発されるものがあるに違いない。
こうして彼らはやって来た。老いも若きも、男も女も、ある者は真言宗の「ハラハリタヤ」を、ある者は浄土宗の「南無阿弥陀仏」を唱えながら。
堂内が一杯になり、「香の煙があたりに漂い始めた時」、日蓮は「出堂の合図を打たせ」て、高座に現れた。
まさに男盛りに達し、その顔には不眠の修行による傷跡を刻み、熱血漢の眼光、預言者の威風を帯びた一人の人-この人こそ、全会衆が注目する的だった。彼が口を開くのを彼らは息を殺して見守った。彼は彼の経典―法華経-を取り上げ、第六の巻の一部を読み、「顔色を和らげ、梵音静かに語り始めた」-
「多くの年月を私はすべての経典に亘って研究し、そしてそれらの教派がそれ自身について言わんとしていることのすべてを聞き、また読んで来た。
それらの中の一つには次のように語られている。すなわち仏陀が涅槃に入ってから後の五百年の間は多くの人たちが自分からは何の努力もせず、そして次に続く五百年間は不断の努力と瞑想によって成仏することができる。
これが正法千年である。
それから経典を読み続ける五百年が来、そして寺院を建造し続ける五百年が来る。
これが像法千年である。
それから純粋な教えが隠されてしまう五百年間が始まる。そこでは如来の教えは尽き果ててしまい、すべて、人々への悟りの道は失われてしまう。
これが末法の始めであり、それは一万年続くのである。
今ははこの最後千年紀に入って二百年である。
そして釈迦の直接の教えから遠く隔たっている我らにとって、仏教の悟りの境地に入るためには備えられた道は唯一つしかない。その道こそ、「妙-法-蓮-華-経」の五字である。
そうであるのに、浄土宗はこの尊い経文を閉じてしまえと呼びかけ、もはやこれに耳を傾けさせまいとする。真言宗は法華経は彼らの経典である大日経の草履取りにも足らないとこれを罵倒する。
このような者は、法華経の第二の比喩の項で、誉むべきお方が説いておられる、仏教の種を絶やす者たちであり、その最期は必ず終りのない地獄に落ちること明らかである。
聞く耳のある者、見る目のある者は悟れ、そして偽りから真実を弁別せよ!
浄土宗は地獄への道であり、禅宗は悪魔の一族の教えであり、真言宗は国を滅ぼす異端であり、律宗は国賊である。
これらは、私自身の言葉ではなく、経典の中に私はそれらを見定めた。
雲の上高く啼いているホトトギスの声を聞け!
それは時を知っていて、あなた方に田植えをするようにと警告している。
であるから今こそ(苗を)植えよ、そして収穫の時期が来たときに後悔するな!
今こそ法華経を植えつける時である。そして私はその末の世に遣わされた崇むべき御方からの使いである」。
彼は語り終わった。そして憤慨するわめき声が激怒した聴衆から起こった。
ある者は言った。彼は気が狂っているのだから許してやるべきだと。他の者は、彼の暴言はまさに極刑に値すると息巻いた。
法談に出席した地頭は、この冒涜者が一歩足を聖なる境内から踏み出せば、これを殺そうと願った。
しかし、老いた管主は慈愛深い人だった。
この弟子はいつか悔いて昔の正統な信仰に復帰し、迷える夢から覚めるかもしれない。
黄昏時、彼は二人の弟子に命じて、地頭の襲撃を受けることのない安全な道を通って、日蓮をその地方から連れ出させた。
五、単独 世に抗す
故郷において拒まれ、彼は一路鎌倉へ向かった。そこは国の首府であり、「法を広めるには最高の場所」であった。
そこの誰にも所有されていない、今でも松葉ヶ谷(松の葉の谷)と呼ばれているところに、彼は小さな草葺の家を建てた。
ここに彼はその法華経と共に、立てこもった。-一人の独立した人としてー彼の周囲の過ちを克服し始めるために。
大いなる日蓮宗はその起源をこの草葺の家に持ったのである。
身延山、池上、その他各地の広く壮大な寺院建築、それとともに全国五千以上の寺と,そこで礼拝する二百万の信徒たち-これらすべてはその起源をこの草葺の家とこの一人の人に持ったのである。
偉大な事業は常にこのようにして生まれた。
一個の不屈な魂と、それに対立する世界-その中に全ての永続的な偉大さへの展望が横たわっている。
二十世紀はこの人から多くを学ぶだろう、彼の教義でなくば、その信仰と勇気をである。
キリスト教自体は日本においてこのような起源を持っているだろうか?
ミッションスクールと伝道のための教会、金銭における庇護、人的援助は、-ああ偉大なる日蓮よ!彼はこれらを何一つ持たず、彼はただ身ひとつで始めたのだ!
一年間、彼はもう一度、研究と瞑想の中に沈潜した。
こうしている間に彼は最初の弟子を得た。後の日昭である。彼は日本における仏教の状態について日蓮と同じ見解を持っていることに心惹かれて、はるばる比叡山からやって来たのである。
日蓮の喜びは一入だった。なぜなら彼は今こそ公衆の前に現れて、そしてそこでこの国に彼の教えの絶えることを怖れることなく、命を投げ出すことができるのだから。
このようにして彼は一二五四年の春、この国において前代未聞のあることを始めた。-辻説法(路傍における説教)である。
彼はそのまま、彼をののしり馬鹿にする首都の聴衆の真っ只中において、最初に故郷の人々に宣言したことを繰り返した。
彼のような地位にある者が道端で道を説くのはふさわしくないとの反論に対して、彼の断固とした答えは、戦いの最中には立って食事をするのは適切であるとのことだった。
国の支配者が崇めている信仰を悪く言うべきでないとの非難に対して、彼のはっきりした答えはこうであった。「聖職者は仏の使いであって、世間と人々への恐れは彼の天職にそぐわない」。
他の礼拝の形式がすべて間違っているはずはないというもっともな疑問に対して、彼の単純な説明はこうだった。「足場はただ塔が出来上がるまでの用をなすものである」。
六年の間、時を得るも得ざるも、こうして彼はその行状と人柄が公の注目を惹き始めるまで説教し続けた。
彼の弟子となった者たちの中には、高位高官の者も少なくなかった。中には将軍家に属する者さえあった。それで適当な時期に阻止しなければ、全市が彼の感化に浮かれ上がってしまうのではないかという恐れがあった。
当時においては建長寺の道隆禅師,光明寺の良忠上人、極楽寺の良観、大仏殿の別当隆観など、大きな勢力を持った高位の僧たちがいた。彼らは首都において立ち上がりつつある新興宗教の抑圧を共に評議した。
しかし日蓮の大胆不敵さは、すべて彼らの一致協力の努力を凌いでいた。
このところ国を襲った多くの災害を捉えて、彼は「立正安国論」という、我が国に平和と正義をもたらすにはどうあったら良いかについての論文を作った。(これは現代においてもこの種のもっとも注目すべき著作と見なされている。)
その中で彼は当時の我が国が被りつつあったすべての災害を列挙し、それが人々の間に教えられている、誤った教義の故であるとの手掛かりを示した。
このことを彼は幅広く経典からの引証によって証明した。
それから救われる道は、彼の見解によれば、すべての経典の中の最高の経典である法華経を国民がこぞって受け入れることにあるとし、そしてこのような恵みを拒否すれば、その結果は必ず内乱(自界反逆の難)と外国からの侵略が起こらねばならないことを指摘した。
これまで決してこれ以上に痛烈な言葉が我が国の高僧たちに対して向けられたことはなかった。
それは全文が戦いの雄たけびであり、最も断固とした宣戦の布告だった。もし徹底的に戦い通せば、彼の宗派か、あるいは他のすべての宗派が根絶されるか、ただ一つしかあり得なかった。
それは狂気と区別できない熱心だった。それで北条時頼(我が国におけるもっとも賢明な支配者の一人)は、この狂信者を首都から立ち退かせることによってそれを鎮圧することを決定した。
しかしながら、この政略家は自分が処理しつつある人物がどのような人物かを知らなかったのである。
それは死を覚悟している魂だった。すでに自分と同じような他の魂を持っている真摯さを内に秘めて、後になってふんだんに証明されるように、あらゆる試練に出会うことを覚悟している人以外の何者でもなかった。
何ものもこのような人を威嚇することはできなかった。そして「仏敵に対する戦い」(折伏)は不退転の勇気をもって遂行された。そして遂に力ずくでこの小さな教団は解散させられ、その指導者ははるか離れた地に流刑されることになった。(つづく)
いくつかの疑問が彼の心の中に解決を迫って来た時、彼は仏教の根本的な知識の中へとまず導きいれられた。
最もはっきりしているのは、仏教に夥しい宗派が存在することだった。
彼は自問自答した。「一人の人の生涯と教えに源を持つ仏教が、今日こんなにも多くの宗派と分派に分かれているのは、何故だろうか?
仏教は一つ以上あるものなのだろうか?
自分の周囲に見ることは何を意味しているのだろうか?すなわち、一つの派は他のすべての派の悪口を言い、それぞれが自分こそ仏のほんとうの心を心としていると主張している。
海水の味はどこでも同じなのだから、仏の教えに二つあるなどと言うことはあり得ない。
ああ、この宗派がそれぞれに分かれていることについての説明はいったい何処にあるのだろうか?そしてこれらのさまざまな宗派の内で、どれが仏の道であり、我が歩むべき道だろうか?
これが彼の抱いた最初にして最大の疑問だった。まったく当然の疑問だったと我らは信ずる。
私もまた似たような疑問を仏教やその他もろもろの宗教について抱く。そして我々は我らの主人公に、その戦いにおいてまったく同情することができるのである。
彼の貫主も、ほかの誰も、彼をこの疑問から解き放ってはくれなかった。自然彼は一人祈りに打ち込むことになった。
ある日、彼が特に尊び、信仰する虚空菩薩のお堂で、祈りを終えて帰って来た時、彼の内心の重荷は耐え難くなり、口から大量の血を吐いてその場に倒れてしまった。
仲間の僧たちは彼を助け起こし、しばらくして彼は意識を取り戻した。
この事件があった場所は今でも記念されていて、葉にいくらかの赤みを帯びる竹の葉はその時に吐いた血が飛んで染まったものと言い伝えられている。
しかしながら、ある晩、この若き僧侶の目が涅槃経(仏陀が涅槃に入る直前に書いたとされる教え)に注がれていた時、次の言葉が彼の注目を惹いて、その迷える心からの言い表しがたい解放となった。
それは「依法不依人」(法に依りて人に依らず)の一句だった。
それは、人は人間の意見に信頼すべきではなく、どんなに説得力に富み、立派に聞こえても、信頼すべきなのはただ、「偉大な師」によって遺された経典だけであって、彼はすべての問題をそれによって、ただそれによってのみ決定すべきであるということだった。
彼の心は今や平安に満たされた。
彼はここに拠って立つべきものを見出した。これまでは全てのことが彼の足下に沈んで行く砂のようだったのである。
誰が、このような日本人僧侶の記事を読んで、四百年の昔、エルフルトの僧院における似たような場合を思い起こさない者がいるだろうか?多くの疑問(意識を喪失するほどの)の後、若いドイツの修道僧が彼の休息を一冊のラテン語訳聖書の中の、彼の目を捉えた一句の中に見出し、その時以来、それを信仰と生命との己が砦として固守したそのことをである。
しかしこの仏教僧侶の場合には、権威ある経典が何であるかの問題は、キリスト教徒であるルターの場合のように、それほど簡単なことではなかった。
このドイツ人には信頼するただ一冊の聖書が在ったのに対して、この日本人には数十の、時には度々矛盾する経典があり、その中から最高の権威を持つ正典を選択しなければならなかったのである。
これはしかしながら、いわゆる「高等批評学」がまったく知られず、何故、何のために(これを書いたか)を問うことなく、ただ古人の記録に単純な信頼を置いた時代においては、比較的容易な仕事だった。
我らの主人公にとっては、経典の一つ(無量義経)が大乗、小乗におけるすべての経典の年代順を示していることを見出したことで十分だった。
そこに示された順序は、釈迦の最初の公的説教を含んでいると想像されている華厳経から始まり、彼の伝道の最初の十二年を含む阿含経、第二の十六年間の教説を含む方等経、第三の十四年間の般若経、彼の生涯の最後の八年間の妙法蓮華経、すなわち法華経である。
この順序からの当然の結論は、最後に記された経典が釈迦の全生涯の教説の精髄を含んでいるということだった。
あるいは日蓮の言葉で言えば、その中に「万物の原理、永遠の真理、仏陀の本源の状態の隠された重要性とその悟りの美徳」があったのである。
ここからその妙法蓮華経という美しい名が来ている。
ここで仏教経典の正確な順序について、あるいはそれぞれの経典の比較による価値について批判的な検討に立ち入ることは、我々の目的ではない。
日蓮がこのようにも重視した経典は、釈迦の死後五百年という後代の産物であり、右に上げた種々の経典の順序を示している無量義経は明らかにこの新しい経典に対して信頼性と至高の権威を与えるために書かれたものであることは、今日においてはまったく議論のないところだと私は考える。
しかし、それがたとえ何であれ、我々は、我らの主人公がそれらをここに示された順序において受け入れ、そして法華経の中に仏教信仰の標準を発見し、その多くの不一致をことごとく包括する、明らかで単純な説明を見出したということを知るだけでこと足りるのである。
彼がこの結論に到達したとき、彼の内なる歓喜と感謝は溢れる涙となってほとばしり出た。
彼はついに自分自身にこう言った。「私は父と母を捨てて、この素晴らしい信仰に身を捧げて来た。どうしてありきたりの僧たちの伝統的な教えに固執して、如来の金言を求めずにおれようか?」
この聖なる大望が彼の中に沸き起こったのは、彼が二十歳の時だった。
田舎の寺に隠遁していることはもはやできなくなった。
管主と仲間の僧たちに別れを告げ、彼は大胆に世の中へ乗り出した。真理を遠く、広く求めるためである。
彼が最初に目指した地は鎌倉だった。時の将軍の都である。
一人の田舎僧が都にいた。-一人のルターがローマにいた。-奇怪な現象が彼の目にふれ、奇妙な教義が彼の耳に聞こえて来た。
その寺の造りの壮大さと僧階級の華やかさで、町はまったく虚偽に降参していた。
禅宗は上流階級を、浄土宗は下層階級を導いていたが、前者は無益な思弁の泥沼の中に、そして後者は阿弥陀仏を妄信する錯乱状態の中にあって、仏陀のほんとうの教えは何処にも見出されなかったのである。
それだけではなく、彼はお釈迦様の像が子供のおもちゃとして与えられ、伝説的存在に過ぎない阿弥陀仏が、彼らが仏教徒の礼拝と呼ぶものにおいて至上の位置を与えられているのを見た。
僧の衣をまとった人々が、彼らの公然とした恥をその誇りとしていた。
彼らは教えた。救いはただ阿弥陀仏の名を唱える中にあるのであって、徳を積み規律を守る行為の中にはない。そうして「南無阿弥陀仏」のやかましい唱名の中にあって、もっとも甚だしい種類の放縦が民衆の間に流行していた。
五年間の鎌倉での滞在の間に、彼はこの世がすでに「末法」の世であること、経典の中で如来によって預言されたように、光の新しい時代を来たらせる、新しい信仰が必要であること、そしてその好機であることを確信させるに足るものを見た。
つい最近、大阿上人という、世間から尊崇されていた僧が、彼に従う弟子たち一同に恐怖を与える死に方をした。
彼の体は「縮まって子供のように小さくなり」皮膚の色は「黒く墨を塗ったように」変わった、-これは彼が地獄に落ちたことの間違いない徴であり、そして彼が説いた信仰が悪魔的なものだったことの証拠である。
次いでまた空中に現れたこれらの奇怪な現象は何を意味するのだろうか?
「西の空に赤と白の雲がはっきりと三筋ほど立ちのぼった。そしてその内白い二筋の雲はやがて消えてしまい、赤雲が、<火の柱が天の頂を突き刺すように>残った。
すべてそれに続いて激しい地震が起き、たくさんの寺院が倒壊した。そして人間も動物も、彼らの救済のために造られたはずの建物の瓦礫の下敷きになって呻いた。
「すべてはこの国に真の経典が説かれず、誤ちが教えられ、信じこまれているためである。
我こそはこの国に真の信仰を復興する使命を天から授かっている者ではないか?
このような思いを抱いて、連長は鎌倉を後にした。「都は真理を広めるには良いが、それを学ぶところではない」と賢明な評を下しつつ。
少しの間両親を訪ねて後、彼はさらなる知識の探求へと出発した。
比叡山は天皇の都から一切の悪気を払うために、京都から鬼門(悪魔の門)の方角に聳えていて、過去千年の間、日本における仏教研究の主な宝庫だった。
海抜二千五百フィート、亭々とした杉の木立に囲まれ、鏡のように穏やかな琵琶湖の雄大な景観を眼下に、釈迦の道が探求され、黙想され、そして伝えられていた。
その盛んな時代には、全山が騒々しい植民地の体を装っていたに違いない。それは三千の強力な乞食たちの軍隊を匿い、民衆の脅威であり、代々の天皇たちの脅威となっていたのである。
源空(法然)はここで学んだ。そして山中において教えられるさまざまな教派とはまったく反対の顕教派仏教の一宗を開いた。後になってそれを極めて広く人々に採用されるものとした。
彼の弟子であって、真宗の開祖である範宴(親鸞)もまたここの学僧だった。信仰の奥義に達することによって国民的名声を得た他の多くの人々もまたそうだった。
こうして今や我が蓮長は、純粋な仏教を日本に伝えようとの大望を抱いて、安房の国の彼の生れ落ちた茅葺の家屋から四百里を歩いて、同じ山に啓示の光を求めてやって来たのである。
新しい研究の機会がこの地で提供された。蓮長は手に触れることができる限りの書物を貪るように読破し吸収した。
しかし彼の専門は法華経だった。-それは彼の経だった。-その貴重な写本と注解書をこの山中で手にすることができた。
実は叡山を中心とする天台宗は、この教典を重んじていたのである。
同宗の「六十巻」と称せられるものは、この一書についての六十巻の注解書だった。
同宗の中国人の開祖である天台(天台大師)はそれについて三十巻(法華玄義、法華文句、摩詞止観、各十巻。これらを天台の三大部と言う。)を著した。
そして彼の弟子の一人である妙楽(六代目の弟子)は師の注釈になお注解を必要とすることを見出して、最初の三十巻について更に三十巻を著したほど、それは驚嘆すべき書だった。
そのうちの十巻(法華玄義)はこの経典の題号となっている六個の文字の各々をそれぞれに論じたものである!
我々には特に異常なものとは見えないこの書の意味が古人には非常に深遠に思われた。
-十年間の長い歳月、蓮長は叡山に籠って、これらの複雑な問題を掘り下げて深く考えた。
我々はただ彼の到達した結論を示すことができる。
彼は今や完全に、法華経は他の一切の経典に勝って優れているという彼の抱いていた見解に、確信を抱いた。
すなわち法華経はその純粋なまま叡山の開祖である最澄によって日本に紹介され、彼の後に出たもろもろの僧たちによってそこにかなりの汚染が招来されたということである。
たびたび京都に、そして一度は奈良及び高野山に更なる確信を固めるためにその探求を深めた。
そしてこれ以上疑うことができなかったその時、彼は法華経のためにその生涯を捧げようと心に決めたのである。
一度彼はその目で日本国のすべての主神たちが、彼の守護を約束するためにやって来るのを見た。
そして彼らが空中に消え失せるや、天来の合唱が天上から聞こえて来た。それはこう言った。「この人、世間に行じて、よく衆生の闇を滅ぼす」と。
しかしながら彼は似たような啓示と迫りを受けた、ただ一人の神秘家ではなかった。
彼は今や三十二歳だった。友なく、名声なく、さらには独立独歩の不屈な人間だった。
彼には真宗の範宴(親鸞)のように、それによって自分の主張を述べるべき先祖代々の血統はなかった。
彼は一介の漁夫の子であり、彼自らが自称したように、「海辺の賤しい階級の人間」だった。
また彼の研鑽して来た学問も、最澄や空海その他優れた学者たちのように、外国の地で習得されたのではなかった。-それは当時も、今日と変わらずその道の秘密を解く鍵を持つ者として日本人に認められるために、もっとも肝心な事柄だった。
どのような種類の後ろ盾も彼にはまったく無かった;他のほとんどの開祖たちが受けたような皇室の庇護などとんでもないことである。
彼はただ一人、あらゆる勢力に対抗して、当時の有力なさまざまな宗派の人々とはまったく違う見解を持って空手で始めたのである。
彼は我々が知る限りでは、日本の仏教史の中で唯一の例である。彼は倣うべき何らの先例もなく、一つの「経」とひとつの「法」とのために、生命を投げ出して立ち上がったのである。
彼の生涯で興味のある点は、彼が主張し宣伝した教義的見解よりも、むしろそれを主張した勇敢な方法である。
真の意味においての宗教的迫害は、日本においては日蓮から始まったのである。
四、宣言
「預言者は自分の故郷においてのほかは、敬われないことはない」。
しかも預言者はその公生涯を自分の故郷から始めるのが常なのは痛ましい事実である。
彼はこの世にあっては戻るべき家もないのに、その故郷からの引力を感じ、そして必ずそこでどのような待遇を受けるかにかかわらず、鹿が谷川の水を慕い喘ぐように、ただ排斥され、石で打たれて追放されるためにその地に赴くのである。
蓮長の歩むべき道はそれ以外にはなかった。
小湊の彼の貧しい家では、彼は両親が息子の帰郷を熱心に待ちつつあるのを見出した。
そして彼の受けたすべての試練の中で最初にして最大の試練は、両親の<彼が少年時代に養育された寺の管主に任ぜられるのを見たい>という自然な望みに対して異議を申し立てることだった。
彼は今やその名を日蓮と改めた。日―蓮とは彼を生まれ出させてくれた日輪(太陽)と、彼がこれから世界に伝えるべき経典とを意味するものだった。
建長五年(一二五三年)四月二十八日、ばら色の太陽が東の水平線上に半ば現れたとき、日蓮はぼうぼうとした太平洋を臨む断崖の一角に立っていた。そして前面の海と背後の山に向かって、そしてそれらを通して全宇宙に向かって、彼は彼自身が定めた祈祷の言葉を繰り返した。
それは他のすべてのものを沈黙させるための祈祷であり、彼の弟子たちを地の果てまで導くため、そしていつの世においても彼らの合言葉となるための祈祷だった。まさにそれは仏教の真髄、人間と大宇宙の本質を体現したものだった。
これこそすなわち、「南-無-妙-法-蓮-華-経」、Namah Saddharmapundarikaya Sutraya,、「私はかしこんで妙法蓮華経に信頼する」との意味である。
朝に大自然に向かって彼は語りかけた。午後には彼はその地の人々にこのことを語りかけるべきだった。
彼の名声はすでに近隣全体に広がっていた。
鎌倉、比叡山、奈良において、十五年の歳月を研究に費やした彼には、郷里の人々に語るべき新しいものが、深遠でまた啓発されるものがあるに違いない。
こうして彼らはやって来た。老いも若きも、男も女も、ある者は真言宗の「ハラハリタヤ」を、ある者は浄土宗の「南無阿弥陀仏」を唱えながら。
堂内が一杯になり、「香の煙があたりに漂い始めた時」、日蓮は「出堂の合図を打たせ」て、高座に現れた。
まさに男盛りに達し、その顔には不眠の修行による傷跡を刻み、熱血漢の眼光、預言者の威風を帯びた一人の人-この人こそ、全会衆が注目する的だった。彼が口を開くのを彼らは息を殺して見守った。彼は彼の経典―法華経-を取り上げ、第六の巻の一部を読み、「顔色を和らげ、梵音静かに語り始めた」-
「多くの年月を私はすべての経典に亘って研究し、そしてそれらの教派がそれ自身について言わんとしていることのすべてを聞き、また読んで来た。
それらの中の一つには次のように語られている。すなわち仏陀が涅槃に入ってから後の五百年の間は多くの人たちが自分からは何の努力もせず、そして次に続く五百年間は不断の努力と瞑想によって成仏することができる。
これが正法千年である。
それから経典を読み続ける五百年が来、そして寺院を建造し続ける五百年が来る。
これが像法千年である。
それから純粋な教えが隠されてしまう五百年間が始まる。そこでは如来の教えは尽き果ててしまい、すべて、人々への悟りの道は失われてしまう。
これが末法の始めであり、それは一万年続くのである。
今ははこの最後千年紀に入って二百年である。
そして釈迦の直接の教えから遠く隔たっている我らにとって、仏教の悟りの境地に入るためには備えられた道は唯一つしかない。その道こそ、「妙-法-蓮-華-経」の五字である。
そうであるのに、浄土宗はこの尊い経文を閉じてしまえと呼びかけ、もはやこれに耳を傾けさせまいとする。真言宗は法華経は彼らの経典である大日経の草履取りにも足らないとこれを罵倒する。
このような者は、法華経の第二の比喩の項で、誉むべきお方が説いておられる、仏教の種を絶やす者たちであり、その最期は必ず終りのない地獄に落ちること明らかである。
聞く耳のある者、見る目のある者は悟れ、そして偽りから真実を弁別せよ!
浄土宗は地獄への道であり、禅宗は悪魔の一族の教えであり、真言宗は国を滅ぼす異端であり、律宗は国賊である。
これらは、私自身の言葉ではなく、経典の中に私はそれらを見定めた。
雲の上高く啼いているホトトギスの声を聞け!
それは時を知っていて、あなた方に田植えをするようにと警告している。
であるから今こそ(苗を)植えよ、そして収穫の時期が来たときに後悔するな!
今こそ法華経を植えつける時である。そして私はその末の世に遣わされた崇むべき御方からの使いである」。
彼は語り終わった。そして憤慨するわめき声が激怒した聴衆から起こった。
ある者は言った。彼は気が狂っているのだから許してやるべきだと。他の者は、彼の暴言はまさに極刑に値すると息巻いた。
法談に出席した地頭は、この冒涜者が一歩足を聖なる境内から踏み出せば、これを殺そうと願った。
しかし、老いた管主は慈愛深い人だった。
この弟子はいつか悔いて昔の正統な信仰に復帰し、迷える夢から覚めるかもしれない。
黄昏時、彼は二人の弟子に命じて、地頭の襲撃を受けることのない安全な道を通って、日蓮をその地方から連れ出させた。
五、単独 世に抗す
故郷において拒まれ、彼は一路鎌倉へ向かった。そこは国の首府であり、「法を広めるには最高の場所」であった。
そこの誰にも所有されていない、今でも松葉ヶ谷(松の葉の谷)と呼ばれているところに、彼は小さな草葺の家を建てた。
ここに彼はその法華経と共に、立てこもった。-一人の独立した人としてー彼の周囲の過ちを克服し始めるために。
大いなる日蓮宗はその起源をこの草葺の家に持ったのである。
身延山、池上、その他各地の広く壮大な寺院建築、それとともに全国五千以上の寺と,そこで礼拝する二百万の信徒たち-これらすべてはその起源をこの草葺の家とこの一人の人に持ったのである。
偉大な事業は常にこのようにして生まれた。
一個の不屈な魂と、それに対立する世界-その中に全ての永続的な偉大さへの展望が横たわっている。
二十世紀はこの人から多くを学ぶだろう、彼の教義でなくば、その信仰と勇気をである。
キリスト教自体は日本においてこのような起源を持っているだろうか?
ミッションスクールと伝道のための教会、金銭における庇護、人的援助は、-ああ偉大なる日蓮よ!彼はこれらを何一つ持たず、彼はただ身ひとつで始めたのだ!
一年間、彼はもう一度、研究と瞑想の中に沈潜した。
こうしている間に彼は最初の弟子を得た。後の日昭である。彼は日本における仏教の状態について日蓮と同じ見解を持っていることに心惹かれて、はるばる比叡山からやって来たのである。
日蓮の喜びは一入だった。なぜなら彼は今こそ公衆の前に現れて、そしてそこでこの国に彼の教えの絶えることを怖れることなく、命を投げ出すことができるのだから。
このようにして彼は一二五四年の春、この国において前代未聞のあることを始めた。-辻説法(路傍における説教)である。
彼はそのまま、彼をののしり馬鹿にする首都の聴衆の真っ只中において、最初に故郷の人々に宣言したことを繰り返した。
彼のような地位にある者が道端で道を説くのはふさわしくないとの反論に対して、彼の断固とした答えは、戦いの最中には立って食事をするのは適切であるとのことだった。
国の支配者が崇めている信仰を悪く言うべきでないとの非難に対して、彼のはっきりした答えはこうであった。「聖職者は仏の使いであって、世間と人々への恐れは彼の天職にそぐわない」。
他の礼拝の形式がすべて間違っているはずはないというもっともな疑問に対して、彼の単純な説明はこうだった。「足場はただ塔が出来上がるまでの用をなすものである」。
六年の間、時を得るも得ざるも、こうして彼はその行状と人柄が公の注目を惹き始めるまで説教し続けた。
彼の弟子となった者たちの中には、高位高官の者も少なくなかった。中には将軍家に属する者さえあった。それで適当な時期に阻止しなければ、全市が彼の感化に浮かれ上がってしまうのではないかという恐れがあった。
当時においては建長寺の道隆禅師,光明寺の良忠上人、極楽寺の良観、大仏殿の別当隆観など、大きな勢力を持った高位の僧たちがいた。彼らは首都において立ち上がりつつある新興宗教の抑圧を共に評議した。
しかし日蓮の大胆不敵さは、すべて彼らの一致協力の努力を凌いでいた。
このところ国を襲った多くの災害を捉えて、彼は「立正安国論」という、我が国に平和と正義をもたらすにはどうあったら良いかについての論文を作った。(これは現代においてもこの種のもっとも注目すべき著作と見なされている。)
その中で彼は当時の我が国が被りつつあったすべての災害を列挙し、それが人々の間に教えられている、誤った教義の故であるとの手掛かりを示した。
このことを彼は幅広く経典からの引証によって証明した。
それから救われる道は、彼の見解によれば、すべての経典の中の最高の経典である法華経を国民がこぞって受け入れることにあるとし、そしてこのような恵みを拒否すれば、その結果は必ず内乱(自界反逆の難)と外国からの侵略が起こらねばならないことを指摘した。
これまで決してこれ以上に痛烈な言葉が我が国の高僧たちに対して向けられたことはなかった。
それは全文が戦いの雄たけびであり、最も断固とした宣戦の布告だった。もし徹底的に戦い通せば、彼の宗派か、あるいは他のすべての宗派が根絶されるか、ただ一つしかあり得なかった。
それは狂気と区別できない熱心だった。それで北条時頼(我が国におけるもっとも賢明な支配者の一人)は、この狂信者を首都から立ち退かせることによってそれを鎮圧することを決定した。
しかしながら、この政略家は自分が処理しつつある人物がどのような人物かを知らなかったのである。
それは死を覚悟している魂だった。すでに自分と同じような他の魂を持っている真摯さを内に秘めて、後になってふんだんに証明されるように、あらゆる試練に出会うことを覚悟している人以外の何者でもなかった。
何ものもこのような人を威嚇することはできなかった。そして「仏敵に対する戦い」(折伏)は不退転の勇気をもって遂行された。そして遂に力ずくでこの小さな教団は解散させられ、その指導者ははるか離れた地に流刑されることになった。(つづく)