良い本を電子化して残そう

管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

代表的日本人-日蓮-内村鑑三 私訳(3)

2009年06月16日 05時46分45秒 | 代表的日本人/内村鑑三
六.剣難と流摘
 「立正安国論」の発表の後の十五年間、彼の人生は、彼の棲む世界の、権力と権威に対する絶え間ない戦いだった。
 彼は最初伊豆に追放された。そこに彼は三年の間留まった。そしてその流刑の最中に改宗者を作った。
 鎌倉に帰ると彼は弟子達から「折伏」をやめて専ら彼らを教え導くことに専念して欲しいと懇願された。それに対して彼の決然とした答えはこうであった。「今、末法の時代の初めにおいては、その誤謬から来る害毒が非常に強い。論争による攻撃(折伏)はその病状の重大局面においては治療薬として必要であり、傍目にはそう見えないかもしれないが、恵でさえある。」
 彼はただちに以前の態度を再び取り始めた-救い難い僧侶である。-今現在彼自身の身に迫る破滅を何ら顧みずに。
 ある夕方、数人の弟子達と伝道旅行をしている途中で彼は剣を手にした一隊の人々に襲われた。
 この襲撃隊の指揮者こそ、四年前,彼がその教えを宣言したとき、このふてぶてしい革命家を除こうと決意したあの地頭に他ならなかった。
 三人の彼の弟子たちが師の生命を助けようとして殺された。一人は僧侶であり、二人は平信徒であった。
 このようにして彼の教えは日本において最初の殉教者を出した。そして今日、彼の教えを奉ずる何百万の人々に尊い記憶となって残っている。
 日蓮は額に一つの傷を受けてその場を逃れた。この傷こそ、彼の法華経に対する忠信の印だった。
 しかしながら、真の危機は一二七一年の秋にやって来た。
彼の生命はこれまでのところは助けられていた。というのは当時の法律が僧侶階級の極刑を禁じていたからである。そして今や彼の傍若無人な振る舞いは耐え難かったけれども、彼の坊主頭と僧衣が厳格な法の執行に対して強い防御となっていたのである。
 しかし何ものも、国に現存する宗教とそれに伴う国家や聖職者たちの権威に対する彼のののしりの攻撃を阻むことができなかった時、北条氏は特別の事態における非常手段として、彼を死刑執行人の手に渡すことを決意した。
 いわゆる「竜の口の法難」は、日本宗教史上最も有名な出来事である。
その歴史的真実性が最近疑問とされたが、しかしその「法難」は後世の信仰によって、この事件に付け加えられた様々な奇跡を除けば、疑う余地はないように思われる。
 通俗的な説明は次のようである。
 処刑人が最後の太刀を振り上げたまさにその時、日蓮が処刑人が最後の太刀を振り上げたまさにその時、日蓮が臨刑欲寿終(りんぎょうよくじゅしう) 念彼観音力(ねんぴかんのんりき)刀刃段々壊(とうじんだんだんえ)(刑場での生命が終わろうとして、観音の力を念ずれば、刀の刃は粉々に砕けるだろう)との彼の経典を復唱すると、突然天から一陣の風が吹き降りて来た。
 そして彼の周りにいた全ての人々がまったくうろたえ果てているのに対して、刃は三つに折れ、処刑人の手はしびれて、もはや二の太刀を振り上げることができなかった。
 間もなく、鎌倉から赦免の礼状を持って使者が全速力で馬を走らせて到着した。 そして法華経を奉ずるこの人は救われたのである。
 -しかし我々はこの事件を奇跡の助けを求めなくとも、説明することができる。
聖職にある者の生命を絶つことへの迷信的な恐怖は、その時代においてはまったく自然なことである。
 そして彼がこの威厳に満ちた僧侶の、祈祷を捧げつつある態度の中に最後の一太刀を受けようと覚悟している落ち着いたさまを見たとき、この哀れな処刑人が、もし自分がこの罪のない人の血を流す下手人になったならば、どのような天罰がくだるだろうかと怖れ慄いていたであろうことは、我々には容易に想像できる。
 同じような恐怖が、この先例のない処刑を決意した執権(時宗)自身にも襲ったに違いない。彼は直ちに死刑に代えて流刑の判決文を携えた使者を送った。
 難を逃れたのは、まさに危機一髪の間だったろう。しかしそれはまったく自然のなりゆきだった。
 死刑にとって代わった流刑は、過酷なものだった。
 彼は今回佐渡に流された。それは日本海の孤島であり、全国でその当時においては最も近づきがたい地方であり、極悪の重罪人を好んで追放したところだった。
彼がこの島で五年の流刑の後にも生きながらえたのは、ひとつの奇跡である。
 ある過酷な冬などは、法華経を心の糧とする以外にほとんど食べるものもなく過ぎ越した。
 それは、肉体を越えて心の、暴力を越えて精神の、新たなる征服だった。
 流刑の終わり近くにおいては、彼は更にもう一つの国を彼の精神的領域に加えた。
 その時以来、佐渡および人口が緻密だった越後はこの宗旨に対して熱狂的に忠誠であり続けたのである。
 彼の不屈の勇気と忍耐は、今や鎌倉幕府の恐怖と崇敬とを呼び起こした。そしてこのことは急速に迫りつつあるモンゴルからの侵略が、彼の預言した外冦(他国から侵略される国難)において成就したことによって、彼に鎌倉への帰還の許可を与えるに至らしめた。(一二七四年)
 そこに到着した直後、彼は国中に彼の教義を自由に広める特許状を得た。
 精神は遂に勝利を収めた。そして七世紀の間それは国民の中の一つの勢力だったのである。

 七、晩年
 この人は今や五二歳だった。そして彼の生涯の大半はこの世に対する不眠不休の戦いに費やされて来た。
 彼は今や彼の同胞たちに語るに自由だった。しかし、その発効のための認可の与えられ方は、まったく彼を満足させなかった。
 北条氏を動かして彼に自由を与えさせたのは、恐怖だった。それに反して彼が目的としていたのは、執権とその国民が自ら進んで法華経を受け入れることだった。
彼は今や「インド人の師」に倣って山中に隠棲することを考え始めた。そこで静かな瞑想と弟子を育てることを以って生涯を終わるためである。
 我々は、ここに彼の偉大さがあり、彼の宗門が長く続いたことの主な原因があると信ずる。
 この世が彼を受け入れ始めた時、彼はこの世を去ったのである。
 ここにひとつの躓きの機会が、彼以下の魂にはあった。
 しかし、彼の弟子たちにとっては、この宗旨禁制の撤廃は、旧い諸宗派に固執する者たちに対する公然とした戦闘の始まりだった。
 寺から寺が「言葉による攻撃によって掻き乱され打ち倒された」と言う。
 我々はこれらの熱狂的信者たちのやり方がどんなものかを知っている。
 それぞれが手に太鼓を持って、そして全員が一斉に彼らの祈祷(題目)を繰り返し唱える。-「南無―妙―法―蓮―華―経」―その五つの音節に合わせて太鼓を五つ叩くのである。
 彼らの二十人は我らの耳をつんざくばかりの音を立てる。そして我々は彼らの数百人が、新たな元気と熱情に燃えて、家から家へ、寺から寺へと鎌倉の町を行きめぐり、新しい信仰へと直ちに降伏することを呼びかけて歩き回ったその結果を、容易に想像することができる。
 創始者の熱誠、その火のような情熱、不寛容さは、今日においても彼の信徒たちにおいてはっきりと見ることができる。-それはもともと非攻撃的であり厭世的な仏教においては、好戦的な熱心のただひとつの場合である。
 我らが主人公の晩年は、平和だった。
 彼は富士山の西の方、身延山に彼自身の棲家を定めた。そこは南方に素晴らしい眺めの大洋があり、そして崇高な山々が周囲に、また背後に控えていた。彼は全国至るところからの彼の崇拝者たちの敬意を受けた。
 ここで、彼は彼の預言が一二八一年の蒙古大襲来によって、文字通り実現したのを見た。このことが彼の名声と影響力を著しく増大させたことは言うまでもない。
 この大事件の翌年、彼は在家の一弟子、(池上宗仲)の客として池上(東京の大森駅に近いところ)を訪れ、そこで一二八二年の十月十三日に没した。
 彼の最後の望みは、天皇の都である京都に彼の教えを説き、遂には天皇陛下にお聞きいただくと言うことだった。そして彼は当時十四歳の少年だった日像にこのことを託した。
 彼の臨終の床での一つの光景は、我々の注目を必要とする。
 人々は彼の「いまはのきわ」の慰めになろうかと思って仏陀の像を彼のところに持って来た。しかし彼は直ちに手振りでそれを取り除かせ、明らかに面白くない様子だった。
 次に彼らは「南無妙法蓮華経」の題目が雄渾な漢字で書かれた掛け物(曼荼羅)を彼の前に広げた。
 彼はそのほうにゆっくりと体を向け、それに向かって合掌し最後の息を引き取った。
 彼は経典崇拝者だったが、偶像崇拝者ではなかったのである。

八、性格の評価
 我らが述べたこの主人公以上に、我が国の歴史において謎に満ちた性格の持ち主は現れなかった。
 彼の敵にとって彼は、冒涜者、偽善者、自己中心主義者、ヤクザの親分、というような者だった。
 多くの本が書かれた。その中には彼がどんなにでたらめな人間であるかを証明するために、非常にまことしやかに書かれたものもある。
 彼はまた、仏教がその敵に攻撃される時の格好の攻撃目標だった。
彼は彼自身の宗派以外の同じ仏教徒たちからも、その宗教の受ける一切の非難を担うスケープゴートとされた。
 誰一人として日本においてこれ以上非難中傷を積み重ねられた人物はいない。
そしてキリスト教がこの国に姿を現した時、それもまたこのことに組して、さらに多くの石つぶてがこの方面からも彼に向かって投げつけられたのである。
 かつてある有名な牧師の一人が、その全注意をその方向に向けていたことを私は知っている。
 実のところ、日本のキリスト者たちにとっては、この人に賞賛の辞を呈することは、イスカリオテのユダに好意ある言葉を語るほどに、不敬虔のように響くのである。
 しかし私としては、もし必要であれば、この人のために名誉を賭けよう。
 彼の教義のほとんどは、今日の批評学の試験に耐えられないことを私は認める。
彼の論争の仕方は上品ではない。そして彼の全体の調子は正気ではない。
 彼は確かにバランスを欠いた性格だった。あまりにもただ一つの方向にだけ尖鋭だった。
 しかし、彼からその知識的誤謬、遺伝的な激しい気質、そして彼の時代と環境がその上に印した多くのものを剥ぎ取って見よ!そうすれば諸君は骨の髄まで真実な一個の霊魂、人間の内で最も正直な人、日本人の内の最も勇敢な人物を持つのである。
 偽善者は二十五年間、そしてそれ以上にその偽善を保持し続けることはできない。
 また決してその人は、彼のためにいつでも生命を投げ出そうとする何千人もの彼に従う人々を持つことはできない。
 「いつわりの人間が宗教を発見したと言うのだろうか?」とカーライルは叫んでいる。
 「不誠実な人間はレンガの家を建てることもできないではないか!」と。
 私は私の周りを眺めて、彼の死後七百年たった今日、四千人の僧侶と八千の教師を擁する五千の寺院と、この人の定めた方式に則って礼拝しつつある百五十万~二百万の信徒たちを見る。そうして私は、これらすべては恥知らずのペテン師の仕事だと告げられるのである。
 私の人間性に対する信仰は、このようなことを信ずるには余りにも強すぎる。
 もし偽りがこの地上においてこのように永続的なものであるとすれば、他のどのような手段によって、我々は正直を虚偽と区別すべきだろうか?
 人間の内でもっとも怖れを知らない人。彼の勇気は、まったくもって彼がこの地に遣わされた仏陀の特別の使者だという確信に基づくものだった。
 彼自身は何者でもない。-「海辺のひとりの」である。-しかし法華経を持ち運ぶ器としては、彼の人格は天上地上、あらゆる重要性を持つものだった。
 「私は無価値な者だ、ひとりの平凡な僧侶にしかすぎない」と彼はかつて時の権力者にこう語った。「だが、法華経の宣伝者として、私は釈迦牟尼の特別の使いである。そうして梵天のようなインド神も私の右に仕え、帝釈天も私の左に仕える。太陽は私を道案内し、そして月は私の後に従う、そうして地上のすべての神々がことごとくその頭を垂れて私を敬うだろう」と。
 彼自身の命は彼にとっては取るに足らないものだった。しかし日本の国民がこのような法を担う人である彼を迫害するのは、彼には言葉に表せないほどに嘆かわしいことだった。
 もし彼が狂っていたというならば、彼の狂気は高貴な狂気だった。それはあのもっとも高貴な形の自尊心と区別することができないものだった。すなわち自分が成就するために送られて来た使命の価値によって、自身の価値を知るという自尊心である。
 日蓮だけが聖なる歴史において、自分自身にたいしてこのような評価を持ったのではなかった。
 であるから、聖なる経典の中の、特に彼自身の経典である法華経は、長い年月に及ぶ過酷な迫害の間、彼の不断の慰めの源だったのである。
 彼の特愛の弟子である日朗に向かって、彼がその主人の島流しにされるために船出しようとした際に、師の小船に追い迫ろうとして、怒った船頭に痛ましく腕を折られたとき、次のような慰めの言葉をかけた。「知るがよい、鞭と流罪は末法の世の説教者に必要な付随物である。
 二千年前に法華経の中の警告の章に書かれていることが、お前と私の間に臨んだのだ。
 だから喜べ、法華経が勝利する時は近い。
 彼の弟子たちに当てた流刑中の書簡は、広くさまざな経典からの引証で一杯である。
 その中の一つで彼は書いている。「涅槃経に<重きを軽きに転化する>と言う教義がある。
 我々が今生においてこの重い苦しみを受けるならば、それと共に、来世においては、軽きが保証されるのである。
 ・・・提婆菩薩は外道に殺され、獅子尊者は首を刎ねられた。そして仏陀蜜多はさまざまな誘惑と対面した。そしてそれらは正法の時代であり、仏陀自身の国においてすらそうであった。
 それならばこの地の果てにおいて、しかも末法の世の初めにおいては如何ばかりだろう?」
 キリスト教の聖書がルーテルにとって何よりも尊い書物であったように、法華経はこの人にとっては何よりも尊いものだった。
 「もし私が法華経のために死ぬことができれば、私は本望だ!」とは、多くの危機に臨んでの彼の言葉だった。
 ある意味で我々のルーテルがそうであったように、彼は狂信的経典崇拝者だったかも知れない。しかし、書物はあらゆる種類の偶像や権力よりも、より尊い崇拝の対象である。そして一書のために死ぬことのできる人は、英雄の名で呼ばれる大概の人々よりも更に高貴な英雄である。
 日蓮を罵倒する現代キリスト教徒よ!彼の聖書は埃に覆われていないだろうか?あるいはそれが日毎に口ずさまれ、その霊感が熱く擁護されつつあるだろうか?そしてその生命と霊魂を賭けて、自分が遣わされた国民に、それが受け入れられるために十五年もの間、剣難と流摘に耐えられるだろうか?
 日蓮こそは、他のすべての書に勝って人類の諸問題を良い方向に導いて来たあの書、(聖書)を自分のものとする者たちによって石打たれるべき最後の人であらねばならない。
 日蓮の私生活は想像され得るもっとも簡素なものだった。
 鎌倉に草葺の家を構えてから後の三十年、富んだ俗世間の人々が彼の弟子であり、安楽に気儘に過ごすことは望みに任せたときに、我々は彼が身延山において同じような草葺の家に住んでいるのを見出すのである。
 いわゆる仏敵には極めて仮借なかった彼は、貧しい者、悩める者に接する時には、もっとも柔和な人だった。
 彼の弟子たちへ宛てた手紙には、極めて穏やかな気分が息づいていて、彼の記念すべき「立正安国論」の熱烈な火とは大きな対照をなしている。
 弟子たちがあれほどまでに彼を思慕したのも不思議ではない。
 実際、日蓮の生涯は常に、多妻主義を除いたマホメットを私に思い起こさせる。
同じ強烈な人格、同じ病的なまでの熱狂、しかしそれにも拘らず、目的に対する同じ誠実さ、豊かな内なる憐れみの情と柔和さは互いにまったく似ている。
 ただ私はこの日本人が法華経に信頼したのは、かのアラビア人がコーランに信頼したに勝っていた点において、より偉大だったと信ずる。
 日蓮には外的な権力は必要ではなかった。なぜなら彼は信じ込むことのできる、かくも偉大なる書があったからである。
 それだけが、如何なる人間的な介在なしで、十分な力だった。そしてその価値を確立するのに何らの権力も必要ではなかった。
 マホメットを偽善の罪から無罪放免とした「歴史」は、日蓮の正当な評価のために、より多くのことをすべきだった。
 それであるから、彼の十三世紀的衣裳、彼の批評学的知識からの誤謬、彼の内に宿っていたかも知れない僅かな精神異常の気味(すべての偉大なる人間に宿っているように、と私は想像する)を剥ぎ取れば、そこには一個の注目すべき人物、世界中の彼のような人物で、もっとも偉大なる人の一人が我々の前に立っているのである。
 これ以上に独立的な人を、私は我が国の人物の間に考えることはできない。
 実に彼はその独創性と独立心とによって、仏教を日本の宗教としたのである。
 彼の宗派のみ純粋に日本的である。一方で他のすべてはその起源をインドに、あるいは中国に、あるいは朝鮮に持っている。
 彼の大望もまた、彼の時代の全世界を包容するものだった。
 彼は語っている。彼の時までは仏教はインドから東方に向かって進んで来た。そして彼の時からは日本からインドへ、その更に改められた形での仏教が西方に向かって進むのであると。
 彼はそれだから、受動的、受容的な日本人の間にあって一つの例外だった。-疑いなく、非常に御しやすい人間ではなかった。なぜなら彼は彼自身の意志を持っていたからである。
 しかしこのような人のみが、一人国家の脊椎骨である。一方において多くの他のことが御愛想で、謙遜ぶって、寛容に、あるいは請い願うことによって成される時に、それらは国家の恥以外の何ものでもない。それらはただただ彼らの生まれ故郷への<変節者の報告書>における改宗者の数を膨らませるだけなのである。
 争闘性を差し引いた日蓮こそは、我らの理想的な宗教家である。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。