伊藤勇雄の「見果てぬ夢」・・・69歳にして南米パラグアイへ移住し、理想郷建設を志す
天に宝を積め、汝らの宝のある所に、心もあるからである。
「事業」と呼ばれる卑俗な嵩の上に判決を下すべきにあらず。・・・「老いゆけよ、我と共に」;25節
ロバート・ブラウニング
伊藤勇雄は岩手県南部の雪深い小さな山村で生まれた。先祖達は山の中腹にやっと開いた五反分ばかりの田畑を代々守り続けてきた。彼は長男で跡取り息子だったが、生涯を墓を守るためだけに生きようとは思わなかった。岩手出身の多くの先人達がそうであったように、彼もまた若き時代、岩手の風土の外で生きようとした。明治32年、彼は親が決めた許嫁を捨てて上京し、働きながら英語やエスペラント語を学び、トルストイやホイットマン、ペスタロッチ(教育者)などの影響を受けた文学青年だった。そして戦前は激しい農民運動への参加を通して、戦後は三度にわたる開拓を通して、時にはキリスト教伝道者の内村鑑三を知り、また文学者の
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武者小路実篤と出会って、その「新しき村」の運動に参加したりもした。
彼が終生追い求めてきたのは、「大自然の中で働きながら人間が人間らしく生きる理想郷を作りたい」という、夢であった。
関東大震災に遭遇した彼は九死に一生を得て故郷である岩手の川崎村に帰り、そこで村議から県議、教育委員などを務めた。彼の巡ってきた開拓地はいずれも大きな成功を収めた。晴耕雨読の開拓者生活を続けて23年、当時彼を知る住民の誰もが、彼は生涯をこの地で送るものと信じていた。
しかし彼の理想主義はやがて、狭い土地の上で食べることのみを追い続ける他の農民たちの生活感情からは次第に浮き上がって行った。67歳の秋、4年にわたる綿密な下調べの後、伊藤勇雄は四度目の開拓を決意した。しかも場所は地球の反対側、南米パラグアイだった。そしてその夢の実現のために、余生をパラグアイのジャングルに賭けようと決意した。
岩手県岩手郡玉山村外山開拓地、それが彼の日本における最後の住処となった。移住の同志を求めて巡る彼に住民たちは「何故68歳にもなって移住を決意したのか?」と問うた。それに対して彼はこう語っている。
「私は別に今、生活に困っているわけでもない、また何かこっちに居づらいことがあって、困ることがあるから行くんじゃないんですよ。私は南米の移住地を見てきてね、この国は世界中の人たちが集まって、非常に仲良くやっている。こういう楽しい人間生活ができるところこそ理想郷を築くのに最もいい場所だと感じた。
あちらではどす黒い土で土地が肥えていて、20年も30年も無肥料で米も麦も収穫できる。大豆などは丈が3尺ぐらい伸びて、枝がたくさん架かって、一本に300莢ぐらいも採れる。
みなさんがたも今の生活に甘んじて、ここに満足しちゃいかんですよ、自分の考えを変えればもっといい生活をできる場所があるんです。
・・・
真冬の3か月の間多くの農民が南米の話に耳を傾けた。だが彼らは思った。
「まあ今まで20年間暮らして来て、今更昔の入植当時のことをもういっぺん繰り返すのはつらい」別に今の生活がいいわけでもないけれども、住み慣れたこの地を離れて、兄弟とか親類縁者とかと別れたくない。
・・・
やがて春来た。雪と寒さから解放された農民たちはいっせいに野良に出た。木々が芽吹き陽炎が立ち、土の香りが野山の水辺に立ち込めた。あれほど身近に感ぜられた異国の話も農民の胸からは次第に遠のいて行った。
結局7月乗船の移住希望者はついに一軒も出なかった。勇雄は何としても共に移住する最低十戸の農家が欲しかった。その後の説得が行き詰まるにつれ、伊藤は身内固めがより大切だと考えるようになった。一方で九月には訪れる南米の春は逃したくはなかった。彼は肉親たちにこう語っている。
「以前に病気して分かったことだが、健康が一番でいいんだ。まあこの土壇場に来てまで、行くとか行かないとかでごたごたするわけにはいかんから、ともかく三年も行って見て向こうでどうしても暮らせない、自分の健康にも合わないということであれば、帰ってお互い別々に暮らすというのも止むを得ない。
・・・
勇雄の妻エソさんは始め頑強に移住に反対した。その時のことを思い起こしつつ彼女はこう語っている。
「なかなかね、今更電気のないところへ行って、それこそ歳も取っているんだしね。下見に行くというので、送り出したわけだけれども、帰ってきた時にはもう移住するということで有頂天になっていて、こう言うんですよ。「お前、行きたくなかったら行かなくてもいい。その代わり俺は一人では許可にならないから、別なのをもらって行くから、あとから考え直して「自分も行く」って言ったって遅いぞってね。(笑い)
・・・
勇雄は言った。「長男の龍太郎は川崎村の家を維持してもらわなければならないし、お母さんを見てもらわなければいけないから、移住してもらうわけにはいかない。」
だが、それにしては五男六男があまりにも幼い。そこで長男龍太郎夫妻の中学生の息子、英樹に目を付けた。勇雄の申し出に対して龍太郎夫妻は長い間悩んだ。“たかだか二丁歩の百姓で終わるよりは、息子の一生を考えればこの際思い切って彼を南米へ旅立たせるべきかもしれない”と考え、夫婦は長男英樹を手放すことにした。
英樹に向かって両親は言った。
父:「ほんとに向こうさ行きたいか?」
母:「人に負けない気持ちを持たなければならないんだよ。いつまでもおじいちゃんが生きているわけでもないんだから」
父:「大牧場を自分で経営するような気持ち持たなくちゃダメなんだぞ。」
それから三男の鷹雄はぜひ俺と一緒に南米に行ってもらいたい。彼はブロック屋で、夫婦で稼げば月々十万を下らない。妻の美津子にとって月々十万の生活は捨てがたかった。だが夫の鷹雄は一生をブロック屋では終わりたくない。南米の大地に賭けるなら若いうちだと考えていた。美津子はみんなに言った。「できればね、母ちゃんは去年九月に死んでいるしね、お盆にはみんなで会って、いろいろ相談して、それから行ったら、少しは気が楽になるかなと思って・・・」
それから和夫はまだ独身で、(一級理容師で、良子という将来を誓い合った恋人がいた。彼女は三人兄弟の長女で、彼は良子の家へ何度となく足を運んだが、両親は、「結婚して盛岡に住むならともかく、地球の反対側の未開の地へ行く男に娘はやれない。」とその度に断られていた。)どうせこれから面倒見なければいけないから、一緒に行って協力してもらいたい。
長女の婿の勇君には子供たちの将来を考えて、いろいろ心配する点もあるだろうけれども、ぜひ行ってもらいたい。」
そして四一年七月二日、先発の二家族と長男の息子英樹たちは、南米の地に足を踏み入れた。
離婚まで考えた美津子であったが、結局夫の決断に従った。
先発隊に加わるかに見えた和夫は間際になって三月に延期し、二人は年が明けてすぐ婚姻届けを役場に出して結婚した。
やがて一二月の中旬、先発隊からの手紙と八ミリフィルムが送られてきた。
「拝啓、御無沙汰いたしました。一二月ともなればそちらは日一日と寒くなっていることと思います。こちらは伐採も終わり、火入れは十一月二〇日でした。姉さんの子供たちもみんな元気です。美津子も船の中で妊娠が分かりました。父ちゃんたちが着く頃にはきっと生まれているでしょう。勇さんは今毎日小屋づくりに追われています。正月は新しい小屋に落ち着くことができそうです。それから物価が高く、物が少ないので来るときはなるべく持てるだけ持って来てください。・・・
勇雄は移住を勧めるある講演会でこう語った。私はドン・ホーテである。なぎなたをふるって風車に立ち向かうような者である。そんな風に私自身も時々反省するわけですが、しかし私自身にとってはそれが他の人から見れば仮に失敗に見えるようであっても、失敗じゃない。それが真理であって人類の未来に対してそういう仕事が正しいということであれば、必ず後継者が出てくる。私自身は完成しないけれども、誰かが出て来てこれを完成してくれるという固い信念を持っているんです。・・・そういうことですから私はすこぶる朗らかなんですね。南米に行くのは実に楽しい
まあ、(おやじは)六十八歳という歳から言えばこの先長いとは思わない。だから親父が好きなことやるんなら、今まで世話になりっぱなしで何にも親孝行していないわけだからせめてでも親の側にいてやれることだと俺は思う。
・・・
「さよなら、げんちゃん、まこちゃん・・・さようなら」
四三年三月二日、伊藤一族、第二陣七人は移住船「アルゼンチナ丸」に乗船、日本を後にした。
岩手を去るにあたって伊藤さんは、日本での最後の思いを日記にこう書きしるした。
私はよわい六九である。この膨大な夢を実現する寿命は幾ばくもあるまい。おそらく小さなを作るのが精いっぱいであろう。しかし私は人類の楽園を築くという遠大な理想を終生持ち得るだけでも、満足して死ぬことができるのである。
・・・
出港後四九日目アルゼンチナ丸は終着港 ブエノスアイレスに到着した。一家はあわただしく国際列車でパラグアイに向かい一週間後に現地に着いた。
開拓地は国道沿いの日本人移住地からさらに十三キロも入った、巨大な樹木に取り囲まれた密林の真っただ中だった。
・・・
十年後に伊藤家を訪ねて
伊藤エソさん五十六歳(伊藤勇雄さんはすでに亡くなっていた)
こんにちは。
はーい、いらっしゃいませ。
ようこそまあ、しばらくでした。その節はいろいろとありがとうございました。
ほんとうに、十年一昔と言いますが、おかげさまで元気に今日まで過ぎ越して来れました。
こんにちは。(伊藤玄一郎さん二一歳)
あの時はこんなにちっちゃかったものね。
11歳の時でした。
おじいちゃんにすごく似てきたですね。
英樹君; やっぱり孫だからね。
奥さんのエソさんが勇雄さんの最後の様子を語ってくれた。
「俺は自分がやりたいように、やりたいことをやって来た。だから世界一幸せな男だ。そういう世界一幸せな男のそばで暮らせるというのはお前は世界一幸せな女なんだよ」と、主人が最後の時に言ったわけです。「だからもう誰のことも心配ないし、やっぱり私は世界一幸せな男の妻としてこれからも最後まで幸せに暮らせるでしょう。」って言ったら ・・・口を一杯あけてね、声は出さないけれども顔いっぱい あれしてね。それで・・・
主人は金があるうちに牛を飼わないと駄目だというのでね、イグアスに着いてすぐに、まだ牧草が生えないうちに試験場から買ったもんですから。ほかの人から物笑いみたいだったけど。
それでこの場所は米を作ったりマンジョカ作ったり、うちで食べるもの一切をここで作っていたんですけど、もうすっかり荒らしてしまって。一応バラ線を回しているんですが。
今のところ百二十町歩分ぐらい切り開いています。ここはほんとうにものすごいジャングルの原始林で、大きな木が多かったんですよ。主人が、開拓の土地を選ぶときは木が大きいのでなかったら土が肥えていないんだということを常々言っておりました。玄一郎が「まさかり」でカチリカチリと叩いて、いい木はチェーンソーで十本ぐらい切り目を入れて最後に将棋倒しでずーっと倒すんですよ。
玄一郎が、「母ちゃん、男らしい仕事だよ」と言っていました。
末っ子拓二郎君は日本出発当時四歳で、船一番のいたずら坊主と誰からも折り紙をつけられた子供でした。 その拓坊はすでに一六歳になっていて、アルゼンチンの学校に入っていました。
それは三育学園(アドベンティスタ)と言って、最初は小さい小屋を先生と子供たちと一緒に造って、そこで寝起きし、働きながら勉強ができる。そういう寺子屋式の学校で初まって、小学校から大学まで、今では立派な校舎ができています。
父が、「そうだ、俺も金がないとか何とか言っていないで寺子屋式でもいいから」ということを言いまして「人類文化学園共同農場」という看板をあげましてね。
当時大学生だった玄一郎君の夢
今学んでいるのは?
「教育学と、神学です。
神様?何になるつもりかね。
「僕の計画は学校つくりです。」僕と拓次郎が行っている学校がそういう学校で、やはりキリスト教の土台がなくてはそういう学校はできない、僕の考えでは、ぼくは親父ができなかったのをキリスト教の理想の中でね、それを完成することができるんじゃないかという考えに基づいていて、だから神学と教育学を勉強しているんです。
伊藤勇雄が最後に描いた夢は働きながら学べる学園村の建設であった。22年前のことである。
10年前パラグアイを訪ねてみると、牧場の一角に大きな門柱が立っていた。人類文化学園共同農場、そして遺書には
私の南米における施策は僅かである。しかし私の生涯は敗北ではない。勝利である。
人類を愛し |