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立ち止まる勇気

2018年04月07日 16時06分53秒 | 紹介します

 私はここ雫石に住んで思うことがあります。「ほんとうの豊かさ」とは何だろう。確かに近代になって、私たちの生活は大変便利になり、快適になったが、それによって失ってしまったものも多いのではないだろうか。それは一言でいうと、心の豊かさだ。

 私は2000年前のナザレやガリラヤ地方の情景を懐かしむ。また日本でいうと、江戸時代の武士や町人たちの生きざまに惹かれる。(もちろんその時代にはその時代なりの苦悩があったであろうが。)

 昔を今に帰すことはできないし、現代の科学技術がもたらした恩恵を捨てて、原始時代に帰ろうとも思わない。しかし、ここで立ち止まって、失いつつあるものを再認識し、本来の人間らしい生き方に立ち帰ることが人類には絶対必要だと思う。もしそうしなければ早晩この文明は破局を迎え、滅亡するだろう。

 そのことに関して先に、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を通して、そのような兆候が現れていることを指摘したが、さらに日本国内で起こったいわゆる水俣病事件を通して、近代化によって人々の心が如何に蝕まれたか、いや人間だけではなく、自然が破壊されてしまったかを指摘したい。

 題材は「100分で名著:「苦海浄土」を読み解く」から引用した。コメンテーター名を記号で記したのは、あくまでも私個人のとらえ方である一方、さまざまな見方を紹介するためだ。 

 番組そのものに興味がある方はユーチューブなどで上記番組名を検索してご覧になっていただきたい。

 

<100分で名著:「苦海浄土」を読み解くより>・・・

 敗戦後目覚ましい高度成長を遂げた日本、豊かさの代償として公害問題が各地で起こりました。大気汚染や工場排水で自然が汚れ、人体に深刻な影響を与えていたのです。

 中でも甚大な被害をもたらした水俣病、その水俣病と向き合い真実の姿を世の中に知らしめたのが「苦界浄土」です。作者の石牟礼道子さんは水俣に住む一介の主婦でありながら患者たちの魂の声を伝えようとしました。

 

I:「苦界浄土;我が水俣病」は、1969年に出版されまして、広く社会に水俣病を知らしめる作品になったわけですね。今年は水俣病公式確認から60年という年ですので、そんな節目に深く読み解いてまいりましょう。指南役のさんです。よろしくお願いします。

さんが「苦界浄土」を読まれたきっかけは何だったんですか?

W:たまたま古本屋で見つけたんですが、「もしこの本を読み通してしまったら自分の人生が変わってしまう」と感じたことを今でもはっきりと覚えています。

I:震災後に改めて読んだということですけれども。

W:我々が東日本大震災で直面したことは「命」と「生きる意味」という問題だったと思うんですね。この二つをめぐってこの本が書かれているということが、その時になってやっと分かったという感じがしましたね。

I:では基本情報を見ていきましょう。

苦界浄土;わが水俣病

作者は石牟礼道子(いしむれみちこ)

第一部が1969年に発表され、その後第3部「天の魚」/1974年を先に出しまして,次に第2部「神々の村」/2006年と、およそ40年かけて書かれた大作です。

 

 W:この本は何となく告発文学のようにとらえられています。しかしよく読んでみると決してそれでは終わらない、むしろこの物語の一番大事なところはそこにないと思います。

S:タイトルやなりたちを見たりすると、ルポルタージュと言いますかね、でもメインのところはそうじゃない・・・

W:やはりこの物語の主人公は言葉を失なった人たちだということが、とても大事なことだと思うんですね。水俣病というのは人間から喋る機能を著しく奪う病なんですね。

そういう人の、言葉にならない思いっていうのを石牟礼道子という人が掬い上げて書き上げたというところに、独自の意味があるんだろうと思います。

 

<苦界浄土が生まれた背景>

 熊本県の最南端不知火(しらぬい)海に臨む水俣市は昔から豊かな海が人々の暮らしを支えて来ました。今から60年前、保健所の医師からある届け出がありました。「手足のしびれや言語障害を症状とする奇病が発生している。」

 原因は化学肥料などを造る「チッソ」の工場が垂れ流していた有毒の有機水銀でした。しかし「チッソ」はその事実を知りながら排水を止めなかったのです。経済成長の名のもと国や県も規制をせず、被害は広がって行きました。

 ひとたび水俣病にかかると段々言葉が不自由になり、自分の苦しみを表すこともできなくなります。初期の患者たちは激しい痙攣や硬直を起こして亡くなっていきました。

 その姿を目にした、地元に住む石牟礼さんは思わずペンをとりました。

 最初に書かれたのは「ゆき女きき書き」という章です。(苦界浄土第3章)

******

 昭和34年5月下旬、まことに遅ればせに水俣病患者を一市民として私が見舞ったのは、坂上ゆき(37号患者、水俣市月の浦)と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。

 真新しい水俣病の特別病棟の階廊下は、かげろうの燃え立つ初夏の光線を透かしているにもかかわらず、まるで生臭いにおいを発している洞穴のようであった。それは人々のあげるあの形容しがたい「おめき声」のせいかもしれなかった。

ゆきは早くに夫を亡くし、同じく連れ合いと死に別れた漁師の茂平と再婚、夫婦(めおと)船で仲良く漁に出ていましたが、ゆきが病にかかると茂平がその世話をしていました。ゆきの体はずっと痙攣(けいれん)し続けており自分で食事をすることも、歩くこともできなかったのです。

 

 嫁に来て3年もたたんうちにこげん奇病になってしもうた。残念か。

 うちは自分の体がだんだん世の中から離れていきよるような気がするとばい。自分の手でものをしっかり握るということができん。世の中から一人引きはがされていきよるごたある。

 うちはさびしうしてどげんさびしかか。あんたにはわかるみゃあ?

 

 海の上はほんによかった。爺ちゃんが艫櫓ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで、今頃はいつもイカ籠やタコつぼやらをあげに行きよった。ぼらもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもも、もぞか(可愛い)とばい。

月から10月にかけてシシ島の沖はなぎでなあ・・・

 

I:ほんとに一部の抜粋ですけど、心を動かされるものがありますね。

S:病の様子だけではなくて、病に罹る前の元気で漁に出ていたころのきらきらした夫婦での生活も描かれていますね。


<水俣病はなぜ発病したのか>

「チッソ」水俣工場の排水に含まれていた有機水銀に魚介類が汚染され、その魚介類を食べた人が脳などの中枢神経が破壊される有機水銀中毒に罹りました。認定患者は2280人、うち死者1879人、認定を求める患者は1万2千人いるが、実際はその10倍だと言われています。未だにその治療法は見つかっていません。

 

S:さっきの抜粋した文章と重ね合わせると、二人で櫓を漕ぐこととかタコやイカを可愛いと感じられたりするほど海と寄り添った暮らしをしていたからこそ、罹ってしまった病なんですね。

W:病に罹った人たちは奇病ですから、そのことでまず差別を受ける。また貧しいからなったんだというほんとうに根も葉もないデマのような噂にも苦しめられざるを得なかったようです。

S:そういう状況の表現として「自分の体が世の中から離れて行くようだ」と仰っていますが、・・・

W:体が離れて行くと言うときに、彼女はとっても強く「自分の魂」を感じている。

S:つまり私たちは日ごろ世の中とくっついているんだという意識を持っているのに、これがあと数ミリで離れてしまうかも知れないという意識があるんですね・・・。

 

<「苦海浄土」の誕生>

 1969年「苦海浄土」でセンセーショナルに文壇に登場した石牟礼道子、詩をたしなむ主婦だった石牟礼さんは水俣病と出会ったことで作家になります。

 50年代からすでに奇病のうわさは町に広まっていました。

 石牟礼さんがうめき声が響く病室を訪ねると、そこで見たのは苦しさのあまり患者が壁をかきむしったその跡でした。その時出会った一人の漁師、その姿を目にした時の衝撃を次のように記しています。

*****

 「安らかに眠って下さい」などという言葉はしばしば生者たちの欺瞞のために使われる。この時この人の死につつあった眼差しはまさに魂魄(こんぱく)この世にとどまり、決して安らかに往生などしきれぬ眼差しであったのである。

 この日はことに私は、自分が人間であることの嫌悪感に耐えがたかった。この人の悲しげな、山羊のような、魚のような瞳と、流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄はこの日から全部私の中に移り住んだ。

 

I:石牟礼道子さんという人は普通の主婦の生活をしていらっしゃったんですよね。

W:それが病を得た人々の姿を見て彼女が書き手になって行く。彼女は自分でなりたくてなったのではなく、ならざるを得なかったと言っています。

I:この「苦界浄土」は聞き書きでなく石牟礼さんの創作もかなり入っていると伺ったんですが。・・・

W:水俣病の患者さんたちは話すことができないわけなんですよね。だけども石牟礼さんに言わせれば我々が聞いている言葉とは違う、心から心へ伝わるような言葉を彼女は引き受けているんだと思います。それは彼女にきわめて深い実感と自覚があるからだと思うんですね。ルポルタージュという純粋な意味での聞き書きではないし、また我々が今日考えるような創作とは違う、とぼくは思っています。

S:ここはとても大事なことだと思うんです。聞いたものを理解して、その場にいなかった人間に通訳として渡す、という行為が「創作」といえば「創作」なのかもしれないけれど、心の部分を伝えるためにぎりぎりの表現をするということですね・・・

W:やはり言葉を奪われた人の口になるっていうことなんだと思います。それは自分の思いを語るのとは違う。相手はほんとうに語りたいことがたくさんあるのに、語ることができなくなったという水俣病の患者さんたちだったわけですよね。その口になるというのが、石牟礼さんの書き手として立っていくときの覚悟なんだと思います。

水俣病というのは別の言い方をすると<沈黙を強いる>病だと思うんですね。我々が今「苦界浄土」という作品を通じて、その沈黙の中にこんなに痛切でたくさんの思いが潜んでいる。

I:そう考えると独特な本ですね。

W:石牟礼さんが「自分は詩のつもりで書いています」と仰っているのを聞いた時、ほんとうに心が震えました。でも何かわかるような気がしたんですね。今までにない問題が現れて来た以上、表現も生まれ変わらなくてはならない、というのが石牟礼さんの持っていた深い認識だったと思います。

S:彼女がここで暮らしていたこと、そこでこんな恐ろしいことが起こってしまったこと、そしてたまたま彼女が詩を嗜んでいたこと、すべてに意味があった・・・

*****

<ゆき女きき書き>

 病床にあってもゆきは我が庭のような海のことを懐かしがり、再び漁に出ることだけを願い続けます。しかし治る見込みがないことも感じており、こう語るのです。

人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。うちはやっぱりほかのもんに生まれ変わらず人間に生まれ変わってきたがよか。うちはもういっぺん爺ちゃんと舟で海にゆこうごたる。うちが脇櫓ば漕いで爺ちゃんが艫櫓ば漕いで二丁櫓で。・・・漁師の嫁ごになって天草から渡って来たんじゃもん。・・・うちはぼんのうの深かかけん、もう一遍きっと人間に生まれ替わってくる。


W:
ぼんのう(煩悩)と言いますと我々は欲望とか執着とか、捨てなくてはならないもののように理解しているんですけど、石牟礼さんは煩悩は情愛という言葉に置き換えられると仰っています。捨てるんじゃなくて深めることができる。ひらがなにすることで語り手がどのくらいこの世界を愛しているかということも伝わってきますね。

S:逆説的に言うとこの病気がどれだけ苦しいかということも・・・

W:肉体は、もう苦しいなんて言葉で言えないくらい苦しい。だけども彼女の存在の深みではとても豊かな命を生きている・・・

I:そこでこの人は生きていて、命を全うしている・・・

W:むしろ我々に命というものがどういうものかということをまざまざと教えてくれていると思います。

S:なんかほんとうに心に突き刺さりますね。

*****

<坂本きよ子さんという20代の患者さんとそのお母さんの話>

 きよ子は手も足もよじれて来て、手足が縄のようによじれてわが身を縛っておりましたが、見るのも辛うしてそれがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散りますころに、わたしがちょっと留守をしておりましたら縁側から転げ落ちて地面にほうっとりましたです。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で桜の花びらば拾おうとしとりましたです。曲がった指で地面に、にじりつけてひじから血出して「おかしゃん、ば」ちゅうて花びらば指すとですもんね。花もあなたかわいそうに地面ににじりつけられて。

 何のうらみも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった1枚の花びらば拾うのが望みでした。

 それであなたにお願いですが、文ば「チッソ」の方々に書いてくださいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に花びらば1枚、きよ子の代わりに拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に。

 
W:
とても象徴的な言葉なんですが、石牟礼道子さんという人がなぜ文章を書き続けているのかということがとても鮮明に描かれていると思うんですね。「苦界浄土」というのはとっても悲しいんですけど、それだけでは終わらない美しさがやはりそこにある。・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<近代の闇>

 1960年代、高度成長を果たした日本は大量消費時代に突入。人々が豊かな暮らしを手に入れ始めていたころ、各地で深刻な公害問題が起こっていました。そのさなかに刊行された「苦界浄土」は社会に大きな衝撃を与えました。それは作者石牟礼道子さんによる我々日本人への鋭い問いかけでもあったのです。

W:水俣病という病は近代という時代が生み出したものだと言っていいと思うんですね。石牟礼さんたちが暮らしていたのは、言わば古代的な自然と共に生きている世界であって、近代というのは人間中心の、人間が作った社会であって、その二つの世界がぶつかり合った、そういうところに生まれたのが水俣病だったと思います。

 

 S:では水俣がもともとどのような場所だったのか見て行きましょう。

石牟礼さんは天草で生まれ 水俣で育ちました。幼いころから親しんだ水俣のかつての

姿を「椿の海の記」で次のように描写しています。

 

 春の花々があらかた散り敷いてしまうと大地の深いにおいがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿は朝明けの靄(もや)が立つ。朝日がそのような靄をこうこうと染め上げながら昇りだすと光の奥からやさしい海が現れる。大崎ヶ鼻(うさぎがばな)という岬の磯に向かって私は降りていた。

 

 楽園のようなこの場所には近代とは全く異なる暮らしが根付いていました。水俣湾を包む不知火海は魚介類の宝庫であり、村人たちはずっと海の恵みとともにありました。

*****

 あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただでわが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこに行けばあろうかい。

 

S:病気の描写に対して逆にこっちは光の部分なんで、とても幸せなというか、・・・

I:素晴らしい場所だったんだなあというのが分かりますよね。

水俣というのはこの不知火海に面したところにあります。不知火海は九州本土と天草に囲まれた内海で、大変豊かな漁場だったんですね。

W:お魚も大変よくとれる場所なんですけれども、その分だけお米とか野菜などがあまり簡単に手に入らないわけですね。そうしますと漁民の人たちは自分で捕った魚をたくさん食べる、作品の中では一升の一升皿に入れたお魚を食べる、そういう人たちが水俣病に罹って行ったとありますね。

S:天の恵みであったお魚が逆に汚染されて行くという・・・

W:一番海を愛した人たちが、海によって傷つけられた。その海というのは自分たちの愛した海ではなくて、近代が冒した海ですよね。

 

I:ではその水俣が近代化の中でどう変わって行ったのでしょうか。

 水俣のシンボル、「チッソ」水俣工場、明治末期に工場ができて以来会社の発展と共に水俣市も成長して行きました。戦後の「チッソ」の主力製品は塩化ビニールやプラスチックに使用する化学原料、これらは冷蔵庫や洗濯機の部品にも使われていました。経済成長と共に生産量も増加し、工場からは膨大な量の排水が流されるようになりました。

 1959年熊本大学医学部は水俣病の原因として有機水銀説を発表。その時すでに「チッソ」は原因を突き止めていました。しかし、操業を止めることはありませんでした。国が「チッソ」の排水が原因と発表したのはそれから9年後のこと。長い間、謝罪もなく放置された患者やその家族の中にはこう語る者もいました。

*****

 銭は一銭もいらん。その代わり会社のえらか衆の、上から順々に水銀母液ば飲んでもらう。上から順々に42人死んでもらう。奥さん方にも飲んでもらう、胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人水俣病になってもらう。あと、百人くらい潜在患者になってもらう。それでよか」

・・・もはやそれは死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである。

 

S:ほんとうに怒りの凝縮された言葉ですよね。

W:言葉にならない叫びですよね。

S:さっき、「姉さん、魚は天のくれらすもんでごわす。要るだけ魚とってその日暮らす、こんな幸せな暮らしあります?」って言ってた水俣の人たちがここまでになる、それだけ大事なものが、それだけ傷ついたということの裏返しでもありますね。

I:そもそも会社としても原因がわかっていたという風にありましたけれども、会社は排水を止めることができなかったんでしょうか?

W:「チッソ」という会社は水俣市という小さな町の中で大変大きな影響力を持っていたんですね。それは経済的だけでなく、様々な影響力を持っていた。また暮らしている人にとっても「チッソ」という会社は誇りだった。地元で暮らしている人たちも「チッソ」で食べている、「チッソ」によって生きているということなんです。

S:「チッソ」というのは肥料を作る会社のイメージが少しあるんですが、実はプラスチックの原料を作っていた・・・

W:そうなんですね。

S:我々の世代は、夢のプラスチックとか言って、プラスチックはすべてに優る、なんかプラスチック製品ってかっこよく見えたんですね、子供心に。

I:そうなんですか。

S:ぼくらが小学校に入るころには、プラスチックのない世の中は考えられなくなってくるわけで・・・ほんとうにプラスチックこそが近代の象徴で・・・

W:やはり自分たちが何をしているのかということを知らないで、我々はその成果だけを手に入れようとしたんだと思うんです。

W:宇井純(1932-2006)という人が「公害に第三者は存在しない」という言い方をしています。どういう事かというと、一方で我々もプラスチックを使っているわけですよね。水俣病を客観的にみると、我々も知らないうちにそれに加担しているわけですね。・・・

 

<近代的知性とは>

W:当時の「チッソ」という会社はですね、大学を首席で卒業したという証明書がなければ入れなかったくらい、ものすごく優秀な人たちが勤めていた会社なんですね。ぼくはこれから考えてみたいのは、近代的な知性が独り歩きするとき、とっても危ないということなんだと思うんです。

S:ぼくは進歩も近代化も完全否定はしない。それは必要だからであり、みんなが幸せになるためだと思うんですけど、どこかで進化のための進化、なんか命題が変わってしまい、<プラスチックを作る>ということが目標になる。そういうことが起きるという自覚が、現代社会に今もあるかどうか分からないけれども・・・

W:幸せとは何かということを考える前に、プラスチックを増産してお金を儲けるということが第一目標になって来るんですね。幸せを求めていたはずなんですけど、ほんとうの意味での「幸せ」すら求めなくなる。

もっと言えば、「幸せ」とは何かをよく考えないまま、我々は「幸せ」だと言われていることに向かって走り出した。これが近代という時代じゃなかったかなと思うんですね。

 

<近代という人格>

W:石牟礼さんは、「近代産業の所業はどのような「人格」としてとらえなければならないか」と仰っていますが、・・・

I:実体のないものを「人格」、人であるという・・・

W:今日の我々の表現でいうと、「バケモノ」みたいなもの、人間の欲望ということだと思うんですが。これは大変見えにくいですよね。例えば国家であったり、巨大産業であったり、会社であったり・・・

 

I:ではその「近代という人格」によって押しつぶされようとしたものは何だったのか。ごらんいただきましょう。

*****

 杉原彦治の次女、ゆり、41号患者、無残に美しく生まれついた少女のことを、ジャーナリズムはかつて、ミルクのみ人形と名付けた。現代医学は彼女の緩慢な死、あるいはその生の様を規定しかねて、植物的な生き方ともいう。

 ゆりはもう抜け殻じゃと、魂はもう残っとらん人間じゃと新聞記者さんの書いとらすげな。大学の先生の見立てじゃろかいな。そんなら父ちゃん、ゆりが吐きよる息は何の息じゃろか。草の吐きよる息じゃろうか。うちは不思議でよーくゆりば嗅いでみる。やっぱりゆりの匂いのするもね。ゆりの汗じゃの息の匂いのするもね。身体ばきれいに拭いてやったときには、赤子のときとはまた違う、肌のふくいくしたよかにおいがするもね。娘っ子のにおいじゃとうちは思うがな。思うて悪かろうか。ゆりが魂のなかはずはなか。そげんした話は聞いたこともなか。木や草と同じになって生きとるならば、その木や草にあるほどの魂ならば、ゆりにも宿っておりそうなもんじゃ。なあ、父ちゃん。


S:いつの時代もあるマスコミの無神経さみたいなものと、それがお母さんの心ををえぐってしまうことも含めていろいろなことがこの中に入っているような気がします。

 

W:ジャーナリズム、もしくは現代医学というものは目に見えるものしか見えていない。お母さんがここでほんとうに目を離さないのは、娘の魂はどこに行ったんだという問題なんですね。ここでは「娘の魂の匂い」という言葉すら使っているわけですけれども、・・・

 

I:実際に産んでお世話をしているお母さん、我が子の存在を匂いや汗で感じているというのが、すごく迫って来ますね。

 

W:その匂いや汗っていうのもお母さんにとっては魂の現れなんです。生きている魂の現れとしてお母さんに受け止められているんですね。

 

 水俣病の訴訟、もしくは水俣病事件というのは、患者の人たちにとっては、ほんとうに今もですけれども、魂の問題なんです。

 

いわゆる現代医学とジャーナリズムは確かにそれを捉えにくい。けれども、魂の問題、命の問題と言い代えてもいいんですが、その問題を国が尊厳をもって受け止めてくれていないというこれは大きな「異議申し立て」なんだと思います。いくらお金をもらっても駄目なんです。

 

I:そしてゆりちゃんは41号患者というふうに呼ばれていたんですね。

 

 <番号で呼ばれる患者たち>

 

W;そうですね。ぼくはこれは決して見過ごしてはならないことだと思います。人を番号で呼ぶというのは、アウシュビッツがそうだったんですね。ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という本を開くと、「収容所に入れられた人たちは番号で呼ばれた、そして名前を奪われた。」という話が最初に出て来ますね。人を番号で呼ぶというときには、我々は人間がかけがいのない存在だということを忘れているんです。

 

S:この本はそのことをわざと投げかけてきていますよね。

 

W:番号にするというのは人間を量的な存在として考えるということですね。ですけれども我々の命と言うのは徹底的に質的なものですね。そして質的なものというのはかけがいのないただ一つのものということです。石牟礼道子さんの世界では、ほんとうは人間の命と言うものは、番号なんかで呼ぶことのできない何ものかであって、近代的知性というものはそれすら番号で呼ぼうとする。

 

I:石牟礼さんご自身はその近代の闇にどう立ち向かおうとしていたんですか?

 

W:石牟礼さんを頻繁にお訪ねして、ある時「苦界浄土」をどんなお気持ちで書かれたんですかとお聞きしたら「戦いだ」、「一人で戦うつもりで書きました。今も戦っているつもりでいます。」と仰っていましたね。

 

近代という「バケモノ」に我々が立ち向かおうと思ったときに、我々は最初は個人で立ち向かわねばならない。一人立つというときに何か計り知れない力がある。 

 

I:現代はすごく人とつながりますし、集まったり群れたりということが簡単にできますけれども、個人で立ち向かうという厳しさというのを聞きますと、・・・

 

S:自分が正しいと信じて独りでやっていたら誰かがわかってくれるということかな?

 

I:石牟礼さんの闘い続けているその強さと、そして今もなおその問題が続いているということを我々は忘れてはいけませんよね。

 

W:「水俣病は終わらない」ということを言った人がいます。我々はそこから今も大きな問いを突き付けられていると思います。

 

 

 

I:今日は<近代の闇>ということで読み解いてきました。公害に第三者はいない、近代化の恩恵を私たちも十分解っていて、このことは自分たちの物語でもあるんだなと感じ始めたところです。

 

Sさんいかがですか?

 

S:ぼくは「チッソ」という企業が、水銀を大丈夫だと思って流し続けた時代と、わかっていてそれでも止まれなかった時期の問題と、そこには結構大きな差があって、少なくとも自分たちは止まる勇気とか、スピードを落とす勇気とか、時には逆行に見えることをする勇気みたいなのがないと、いけないということを学びました。

 


   

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