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韓国孤児たちに注がれた神の愛

2019年04月11日 07時56分44秒 | 紹介します

韓国孤児たちに注がれつづけた神の愛

 

 
1)田内千鶴子の生涯
<知ってるつもり>より

 日本から一番近い国韓国、そして一番遠いかもしれない国韓国、その南端に木浦(モクポ)という港町があります。この町はずれにある養護施設「共生園」には現在およそ180人の、親と暮らすことのできない子供たちが生活しています。その園児、卒園生達から今もオモニ(お母さん)と語りつがれる一人の日本人女性がいたのをご存知でしょうか。 その人の名は田内千鶴子(韓国名 尹 鶴子)、韓国孤児の母と呼ばれた人です。昭和11年から亡くなるまでの32年間、孤児たちのために人生を奉げてゆかれました。

 

<生い立ち>
 
明治43年、日本は朝鮮半島を併合しました。その2年後の大正元年千鶴子は高知市若松町で田内徳治-ハルの一人娘として生まれました。千鶴子が故郷高知を後にし、母親と共に韓国の木浦に渡ったのは7歳の時でした。 当時朝鮮総督府木浦支庁の役人だった父の下で暮らし始めたのです。
 
その木浦とは、当時韓国で生産されたコメや綿、塩などを日本に送り出す港町で、韓国の中でも特に反日感情の強いと言われた町でした。しかし日本人町で育った千鶴子はそんな人々の心を知る由もなかったのです。
 
ところが二十歳の時に突然父が急死、母ハルは助産婦をしながら、千鶴子と一緒に韓国に残ることになりました。その3年後、今度は千鶴子自身が子宮筋腫に侵され、もう子供は産めないだろうと宣告されてしまったのです。
 
そんな時期、千鶴子は木浦の町はずれにあった孤児院「共生園」と偶然出会ったのです。その粗末な施設には一人の青年伝道師と40人の子供たちが生活を共にしていました。青年の名は尹致浩(ユン・チホウ)そして子供たちは行くあてもなく街をさまよっていた孤児たちでした。当時木浦では貧しさゆえ親に捨てられ、路上で命を終える子供たちが後を絶ちませんでした。彼はそんな子供たちのためにたった一人で「共生園」を作り食べ物や身の回りの世話をしていたのです。      

「共生園」を訪れて、千鶴子は驚きました。施設とは名ばかりで、壁もふすまもない、30畳程度の部屋が一つあるだけのみすぼらしい施設でした。
 
そこに50人ほどの子どもたちがいて、園長が一人で子どもたちの世話をしていたのです。ここで千鶴子は子どもたちに歌を教え始め、歌だけでなく子供たちの身の回りの世話を始めたのです。もちろん無報酬でした。彼女は孤児たちに本当の親のように接する尹園長の姿に感動していたのです。周囲から彼は乞食大将と呼ばれていましたが、1928年ごろから街で物乞いする子供たちを
連れ帰り面倒を見ていたのでした。


 
2年ほど経ったある日、尹園長は千鶴子のそんな人柄に惚れ込んで千鶴子にプロポーズして来たのです。
 
しかし千鶴子は朝鮮総督府という韓国を支配する役人を父に持った娘、その上子供ができないと宣告された身でした。一方チホウも日本人を妻に持つことは当時の韓国人には考えられないことでした。
 周囲の日本人は嫌悪感をもって陰口をたたきましたが、母は「結婚は人間と人間がするもの。天国では日本人も朝鮮人もありません」と言い切り、千鶴子の背中を押したのでした。
 突然のことに驚きながらも、彼女は結婚の意思を固めて行きました。そして、チホウの意志は固く、「二人でこの子供たちの親になろう」と千鶴子に語りました。それを聞いた千鶴子は周囲の反対や冷たい視線をも乗り越え、そして韓国人ユン・チホウの妻となる道を選んだのでした。

 
新婚の甘い夢とは、およそ無縁の生活が始まりました。電気もガスもない生活。子供たちは、裸足で出入りし、夜は雑魚寝状態。彼女は子どもたちに顔や手を洗うことを教え、食事前の挨拶を教え躾を教えることから始めることにしました。

<共生園卒園者の話>
 
田内さんは私たち孤児を全部集め、お腹がすいている時にはご飯をくれました。そして誰かが病気で食べられない時には、ご飯や水を口移しでくれました。
 
―そうやって孤児たちは命を救われたのです。道端で命を落としたかもしれない子供達、その小さな命を守るため千鶴子は生涯ふるさと日本に帰ることもなく、この「共生園」に骨を埋めたのです。そんな千鶴子を誰もがオモニ、オモニ(おかあさん)と慕ったと言います。
 
結婚した千鶴子は日本の着物を脱ぎ、韓国の服、チマチョゴリをまとい始めました。そしてみそ汁や漬物の日本食にも別れを告げ、キムチなど韓国式の食事をし始め、何とか韓国人になり切ろうとしたのです。しかし50人の子供たちを抱えての「共生園」での毎日は食事の準備だけでも大騒ぎ、そのうえ、掃除洗濯、子供たちの世話と目の回るような忙しい日々が始まったのです。しかも夫が食料調達に町に出かけている間、留守を任された千鶴子の責任は重大でした。
 
ところがそうして1年が過ぎたころ、無理だと宣告されていた子供が千鶴子に宿ったのです。母になれた喜び、ますます張り切る千鶴子は大勢の孤児たちの世話に明け暮れながらも夜我が子のもとに戻ればどんな疲れも癒される思いだったと言います。
 
しかし二人目の子供が物心つき始めたころ、園の子供たちと自分の子供達との間にトラブルが起き始めたのです。

<長男;田内基さんの話>
 
「園の兄貴たちからお前は橋の下で拾って来たんだよ。実の子じゃないんだということで非常にいじめられたりしました。・・・」
 
―それを知った千鶴子はある決心をしたのです。わが子と孤児を別け隔てすることなく一緒に園の中で育てようと。
 
「夜寝る時も離れて寝て、食事も大勢の子供たちの中で食事をしてね。母だというのに、私に特別声をかけてくれるかなあと一生懸命眺めてみても、いつもの通りみんなの母であって、やっぱり恨めしく思って育ちましたね。」
 
―どの子供にも平等に接したいという千鶴子の心は、わが子の恨みを買っただけだったのです。
 
1945年8月終戦、韓国は36年に及ぶ日本の占領から解放され人々は歓喜に酔いしれました。そして一瞬にして日韓の立場は逆転、千鶴子や子供達にも危険が忍び寄ったのです。このまま韓国にとどまりたい、しかし、韓国の状況はそれを許さないのです。悩みぬいた末、夫や共生園の子供たちに心を残しながらも彼女は木浦を後にすることしかできなかったのです。
 
そして生まれ故郷高知へ戻ったものの、寝ても覚めても思い出されるのは木浦のことばかり。まもなく宿していた3番目の子供を無事出産した千鶴子はますます木浦のことが気にかかります。あれほど手を焼いた子供たちは今どうしているのか。たくさんの子供たちを抱え、夫は一人で困り果ててはいまいか。しかし韓国に戻れば安全の保障はない。
それでも千鶴子は子供を連れ木浦へ引き返す道を選んだのです。そして共生園の門を潜った時、「オモニだ!オモニが帰ってきた!」と子供たちが叫び喜びました。
 
私の選んだ道は間違いではなかった。それから彼女は韓国人ユン・ハクチャと名乗り始めたのでした。
 
そんなある日、村人が集まって、日本人を妻にしている尹夫婦を殺す計画が持ち上がりました。不安に震える千鶴子に孤児たちは「お母さんが日本人でも、僕たちのお母さんだ。誰一人、お母さんに手を出させない」と言って抵抗しました。村人らが押し寄せた時、子どもたちが手に棒や石を持ち、盾となって叫びました。「僕たちのお父さん、お母さんだ。僕たちも黙っていない」。泣きながら訴える子どもたちの姿に村人たちは圧倒され、引き上げて行きました。千鶴子は子どもたちを抱きしめながら泣きました。そして、この子らのために一生を捧げる決意をあらためて固めたのでした。
 
園児の数は一挙に300人に膨れ上がりました。しかし千鶴子はどの子にも等しく手を差し伸べました。
 
路上には孤児たちが溢れました。かつて日本の支配下で行われた悲しい出来事が、今度は同じ民族同士の間で始まり、またもや子供たちが犠牲になったのです。
 
共産軍が木浦市内に入ってきたのは7月の下旬。千鶴子にもとうとう危険が迫りました。いわゆる人民裁判が開かれたのです。「共生園」の運動場に村人たちが集められ、指揮官が演説口調で叫びました。
 
やり玉に挙がったのが、尹致浩と千鶴子の二人でした。孤児救済という仮面のもとに人民から金銭を搾取した。また日本人を妻とする親日反逆者という嫌疑でした。
 
日本がこの国にしてきたことを思えば、自分が処刑されるのも当然と千鶴子は覚悟しました。しかし夫チホウは、混乱の韓国に身を置き孤児たちのためだけに生きてきた千鶴子を何とか救いたいと必死に弁明を始め、こう叫びました。「もし妻を処刑するなら、その前に私を殺してください。」
 
その瞬間一人の男が静寂を破って叫んだのです。ユン・ハクチャは無罪だ!
 
そしてその声に会場から拍手が起こったのです。かつて千鶴子に石を投げつけた木浦の人々が今千鶴子の命を救うため惜しみない拍手をしているのでした。
 共産軍の支配はわずか2ヶ月にすぎませんでした。
 
1959年9月マッカーサーの仁川上陸で連合軍は北朝鮮軍を38度線まで追いやったものの泥沼の戦いはこの後、3年も続きました。
 
そんな中で今度はチホウが北朝鮮軍に協力をしたのではないかという嫌疑をかけられて連合軍によって逮捕されてしまったのです。生活がどんなに苦しくなっても夫が帰るまでは子供たちを守らなければ、千鶴子はいよいよ懸命になるのでした。
 
やがて韓国はついに強制徴兵に踏み切り、共生園の子供たちも戦場に駆り出されることになったのです。
 
戦争で親を失くした子供たちが、今自らの命を失うかもしれない戦場へ送られる。出征する子供たちに何かしてあげられることはないか。駅に駆け付け、列車の窓に愛する子供たちを見つけた千鶴子はお結びを差し出したのです。
ところが、「兵隊に行けば白いご飯が食べられます。どうかこのお結びは園の子供たちにあげて下さい。」と言って彼らはお結びを受け取らないのです。そして子供たちは言いました。
 
もう一度オモニと呼ばせてください。オモニありがとう!オモニお達者で!

 共生園から戦場へ駆り出され、生還したのはわずか6人だったと言います。

<「共生園」卒園者の話>
 「戦場でのただ一つの希望は生きて「共生園」へ帰ることでした。そして園に戻った時、私をただ抱きしめて、「死なずに生きていたんだね。オモニはどんなに待っていたか。」と言って、頭にキスをしました。そんなオモニが今でも忘れられません。
共産軍から解放された市民の喜びは大きかったのですが、人民委員長だった尹致浩は、共産軍に協力したというスパイ容疑で逮捕されてしまいました。
3か月にわたる拘留の後、まもなくチホウが帰って来ました。やせ衰え、歩くのもおぼつかないほど弱っての帰宅でした。そのチホウが見たものは共生園のあまりの困窮ぶりでした。チホウは千鶴子が止めるもの聞かず翌朝食料の調達に出かけて行ったのです。そしてそのまま消息を絶ち、二度と戻ることがありませんでした。
衰弱して野垂れ死にしたのか、共産軍の残党に虐殺されたのか。千鶴子は不安で眠れぬ日々を過ごしながら、夫の帰りを待ちました。しかし何の消息もなく月日は無慈悲に流れるだけでした。千鶴子はまたもかけがいのないものを失ってしまったのでした。

<共生園の解散を決意する>
 園の食糧事情は深刻でした。女手一つで80人を越える孤児の世話には限界があります。彼女は悩んだ末、苦渋の決断をしました。10歳以上になる孤児50名に自活を求めたのです。10歳未満の幼い孤児たちを守るためでもありました。物乞いでも、ガム売りでもして、何とか生き延びれば、いつの日にかまた会える。各自が生き残るための解散に、千鶴子も園児も抱き合って泣きました。
 その日から、千鶴子は毎日、リヤカーを引いて町に出て、残飯をはじめ食べられそうなものは、何でももらい歩きました。
その年が明けた元旦の朝、嬉しいことがありました。年長の子どもたちが、風呂敷包みをかかえて園を訪ねて来たのです。風呂敷には、ほかほかのもち米が入っていました。幼い子供たちのために、食べるものも食べずに働いて準備したものでした。千鶴子は後に「あのご飯の味を、私は今も忘れられない」と語っています。
 
彼女は夫が行方不明になって以来、あまりの大変さに、逃げ出してしまおうと思ったり、死への誘惑にかられたことも一度や二度ではなかったと言います。そんな彼女を支えたのは、常に子供たちでした。食べるものが何もない時に、子供たちは率先して魚を釣りに海に飛び出して行きバケツいっぱいの魚を持ち帰りました。「お母さん、これで今日の夕飯はできたね」と言って、無心に喜んでいる彼らの姿を見るにつけ、「私はひとりぼっちじゃない。この子どもたちがいる」と思い直して、心を奮い立たせるのでした。千鶴子はそんな子供たちの姿に力づけられ、二度と共生園の解散を考えなくなったのでした。
 
もう一つ、彼女を支えていたものは、夫にまた会える日へのささやかな希望でした。夫が戻った時、共生園を守り抜いた姿を見てもらいたかった。彼女は周囲に常々「園長が帰ってくるまで辛抱するのよ」と語っていました。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。

<長女の話>
 
朝鮮戦争の時はまだ大丈夫でしたが、今度は夫まで失ったので、度重なる苦痛に彼女は痩せ、力も使い果たし、布団の中でお祈りしているのを私はよく見かけました。そして布団に伏して泣き崩れていました。父がいなくなったことで周りの人たちは母に子供を連れて日本に帰れと言ったようです。しかし父が帰るまでは私は帰国できない。孤児や園を守らなければ、気構えをしっかりしなければと言っていました。
 そして時は流れ、成長した子供たちは希望を胸に社会に羽ばたいて行きました。子供たちの巣立って行く姿を見るたびに千鶴子はオモニとして精一杯のことをしてあげたと言います。
 
そんなある日、卒園者のひとりが生まれたばかりの子供連れて里帰りして来たのです。今まで親のいない子供達ばかりを見て来た千鶴子にとってこの孫は卒園者からの何よりの贈り物でした。千鶴子はこの孫をいつまでも抱き続けていたそうです。
 
ところが翌朝、この夫婦は乳飲み子を残し木浦の海に身を投じてしまったのです。死を覚悟のうえで二人は千鶴子に子供を託しに来たのでした。その背景にはこんな現実があったのです。

<千鶴子をよく知るある作家の話>
 
当時は、さて社会に送り出す場合に彼がどういう職業にありつけるか、ということが非常に悩みだったらしい。その人のバックを知らなければなかなか雇ってくれないというのが韓国式なんですよ。これは身元を知らないから、いつ変なことをして、どこかへ消え失せたらどうしようかという、そういう懸念があったんでしょう。
 
1965年6月、日本と韓国はようやく国交を回復、木浦にも穏やかな日々が訪れました。その木浦で千鶴子が最も力を注いだもの、それは職業訓練学校の建設でした。巣立っていく子供たちが二度と社会の壁に挫折しないようにとの強い願いから精力的に募金活動を始めたのです。
 
そんな千鶴子に対し木浦市は第一回の市民賞を贈ることを決め、その功績を讃えたのです。しかし、千鶴子は、ほんとうはこんな物いらないと言っていました。
 
ただ夢中で孤児たちを育ててきた千鶴子の仕事はいつの間にか社会事業にまで発展していきました。そして1964年、日本でも支援の団体が発足するなど、活動範囲が広まって行ったのです。
 
しかし1967年その負担に耐えかねるように、千鶴子は肝障害で倒れてしまいソウルの聖母病院に入院してしまいました。かつて千鶴子は病床で長男にこんな思いを洩らしたと言います。

<長男田内基さんの話>
 
ある気分がいい日、私の靴下を洗ってね、あなたにはすまなかった、あなたの靴下を洗ったのもこれが初めてだ。こんな母親でもずっと面倒見てくれてありがとうと。
 
―このとき基さんははじめて母千鶴子のほんとうの思いを知ったと言います。
 
その病床の千鶴子に対して日本政府は外国人に対して尽くした日本人に対しては異例の藍綬褒章を送りました。しかし彼女は「ただ、主人が始めた仕事を、留守中なんとか守ってきただけですから……」と応えるばかりでした。彼女の偽らざる気持ちでした。大袈裟なことは何もない。食糧が尽きればリヤカーを引いて街にくり出し、子どもが病気になるとおぶって病院を駆け回る。こうして十数年の歳月が過ぎただけなのでした。
 
そしてその受賞に際しても勲章より子供たちに鉛筆一本でも贈ってもらった方がどんなに嬉しいかと彼女は言っていたそうです。
 
勲章授与の2年後、彼女は肺ガンに倒れ、摘出手術を受けなければならなくなりました。この時も彼女を助けたのは、園の出身者たちだった。彼らはみな、千鶴子の入院を知って、苦しい生活の中からなけなしの金を集めて届けてくれたのでした。
 
以後、彼女が命を落とすまでの3年間は、病気を押して、日韓の間を往復し資金集めに奔走しました。高熱に苦しみ、医者から入院を勧められもしたが、耳を貸そうとはしませんでした。入院費が払えないからであり、たとえお金があっても、共生園の子どもたちの生活や教育費用に充てたいと考えていたからです。こんな無理がたたったせいか、肺ガンが再発し、彼女は入院を余儀なくされました。体は日に日に衰弱、視力障害まで引き起こしてしまったのです。
 1968年10月20日、千鶴子は木浦の共生園に戻って来ました。せめて共生園の子どもたちに会わせてあげたいという配慮でした。彼女の意識はすでになくなっており、死期が迫っていました。10月31日、この日は千鶴子の56歳の誕生日。園内は祝いの準備でにぎやかだった。牧師による記念礼拝が終わり、牧師が眠り続ける千鶴子の頭に手を置き、祈り始めたちょうどその時、まるでその瞬間を待っていたかのように、たくさんの園児たちに取り囲まれ、千鶴子は静かに息を
引き取ったのです。

 11月2日、千鶴子の亡骸は木浦市民からの強い願いにより、初の市民葬が行われました。20人の園の出身者が千鶴子の棺を運び、懐かしい共生園の隅々を回り歩きました。園児たちは窓ガラスにへばりつくようにして泣いていました。その後、棺は霊柩車に乗せられ、市民葬が行われる駅前広場に向かいました。広場は3万人の人々で埋め尽くされていました。17歳になる園児が代表して哀悼の辞を述べました。
 
「私たちは、あなたの愛を飢えた動物のように探し求めました。でも、お母さんのその愛を今どこで探せばいいのでしょう。お母さん!私たちはあなたが望まれたいい子供たちになります」。涙をぬぐおうともせずに千鶴子に語りかける園児の声は、広場いっぱいに響き渡り、参加者の涙を誘いました。
 
かつては石を投げつけた木浦の人々が千鶴子の葬儀に駆け付けたのです。その数およそ、3万人。国境を越えた一人の日本女性の死を悼み、この日木浦中が泣いたのでした。
 語り尽くせない運命の荒波に翻弄されながらも、千鶴子は夫の事業を立派に守り抜き、3千名の孤児たちの母となりました。
 
今、千鶴子は韓半島に平和が訪れ、日韓両国が仲良くなる日を夢見ながら、韓国の地で両国を見守っています。

 2)38度線のマリア 

 動乱の歴史に翻弄されてきた朝鮮半島、そこでたった一人で100人以上の孤児たちを育てた日本人女性がいます。望月カズ、23歳です孤児たちから「母ちゃん」と言って慕われていました。

子育てに満面の笑みのカズ

<生い立ち>
 彼女は1927年は昭和2年、東京の杉並高円寺で生まれました。
 父親の記憶はありません。母親は望月近衛(ちかえ)と言いました。4歳の時(昭和6年)母親と一緒に開拓団が入植していた滴道という小さな町に移住したのです。
                   

 二人が渡った翌年に満州国が建国されます。満州国とは、現在の中国東北部と内モンゴル自治区の半分にあたる、日本の約3倍の面積を持ち、人口は約3500万人が暮らしていました。ここに満鉄(満州鉄道)が建設され、その警備のために日本の軍人たち、関東軍が駐屯していました。カズの母は、親族の軍人に進められて、この関東軍相手の物品納入という商売のために、満州に来たのでした。母の商売は成功し、カズは「お嬢様」と呼ばれるほどだったそうです。ところが昭和8年(1933年)、カズが小学校に入る直前、大変なことが起こりました。母親が突然亡くなったのです。原因不明の不審死でした。一説によると、使用人による毒殺とも言われています。何故かというと、使用人は財産すべてを持ち出し、6歳のカズを農家に農奴として売り払ったのです。
 こうして6歳にして天涯孤独となり、通えるはずの学校にも行けないまま、彼女は満州で農奴として他の農家に転売されたり、アヘン窟で働かされたりもしたそうです。また、主人たちからは日本語を使うことを禁じられました。それでも幼いカズは、寝る前に「自分の名前、母の名前、日本と富士山と日の丸、東京高円寺」という大事な言葉だけは、忘れないようにいつも復唱していたそうです。
 以後、人から人へと売られていき、何度も逃亡を図りましたが、その度に捕えられ連れ戻されました。昭和13年(1938年)の冬、12歳の時ついに脱出に成功し日本人の多い勃利の町に逃げて、牡丹江駐在の日本軍に保護されました。そこで、掃除、洗濯、などの仕事をし、仕事の合間に彼らから文字と算数を教わりました。

 1950年6月に北朝鮮軍が北から南へ押し寄せ、国連軍が押し返したものの、支那義勇軍がまた北から南へ蹂躙しました。そして約3年の間に戦死者277万人・行方不明者39万人も出し、結局、朝鮮半島は南北に分裂されることになりました。
 街には戦争孤児が溢れていました。カズはソウルから釜山に向けて避難していたのですが、その最中胸を撃たれて銃弾に倒れた女性に抱かれて血まみれになっていた男の子を助けたことが「孤児たちの母」になるきっかけとなりました。
 
その時カズ自身も孤児でした。天涯孤独で辛苦の人生を歩んできた彼女にとって彼ら孤児たちに何を感じ、何を見たのでしょうか。そして、何を心に決めたのでしょうか。
この時、カズは23歳でした、昭和26年(1951年)。一人で生きて行くことさえ困難であった過酷な環境の中にあって、彼女は道すがらなおも孤児を拾いながら一緒に暮らしはじめました。休戦の翌年、ソウルに戻った時には、孤児の数は17人になっていたと言います。
 
そこでバラックを建て、港湾で荷揚げ作業をしながら、さらに青空床屋を始め生活しました。彼らの暮らしはそれは、それは貧しいものだったようです。軍手を編んだり豆炭を売ったり、時には自分の血を売ったりして彼女は孤児たちを育てました。食べることにとても困っていたようで、他人が捨てた野菜くずなどを拾って来たりしていました。
 けれどもカズは卑屈な生き方を嫌い、子供たちにも甘えは許しませんでした。家の壁にだるまの絵を飾り、「これは日本のだるまだよ。だるまのお尻はまんまるだろう。だから転んでも、転んでも立ち上がれるんだよ。」と教えていたそうです。
 
端午の節句にはこいのぼりを毎年上げました。「こいのぼり」を掲げるとき、カズは孤児たちにいつも、「日本では、今日はこどもの日で、子供たちが丈夫に育つように、これを掲げるんだよ」と教えていたと言います。
 
彼女は、どんなに貧しくても子供たちを学校に通わせました。孤児の数は50人にも上ったこともあります。
 
子供の一人だった東由利子は「お母さんに差し上げる手紙」で、次のように書いています。・・・多くの子女を、人に後ろ指をさされない人物に育てるために、母ちゃんが血を売り、他人の捨てた葉っぱや、じゃがいもを入れたかゆをみんなで食べながら、学問を続けさせてくださいました。

 
カズはソウルに戻っても青空理髪屋を続けました。そして1960年4月に、仁寺洞に土地を手に入れ、「永松理髪」のカンバンを掲げました。ところが、その2年後、彼女は、理容師資格と身元が問われ、警察に連行されてしまいました。
 
学校や職場から帰って来た子どもたちは、彼女が警察につれて行かれたことを知って、警察署に押し寄せ「オンマ(カアちゃん)を帰せ」と泣き喚いたそうです。
 
そのとき32人いた子供たちは、そのまま警察署の前で一夜を明かしました。それで警察もやむをえず彼女を一時釈放しています。
 
この連行の一件が世間の関心を引きました。「韓国人孤児を育てている日本人がいる。」新聞に取り上げられたのをきっかけにカズの献身的な姿が韓国人の心を動かしました。そして世論の後押
しを受け、晴れて美容師の免許を取得、バラック小屋を改良し店を構えました。
 
そのころ彼女は過労で倒れ、入院することもしばしばでした。それでも新たな孤児を引き取り続け、そして1971年、日本人としては異例の大韓民国名誉勲章を受章し、その後も孤児も育て続け、孤児の合計は133人にのぼりました。こうして彼女はいつしか「38度線のマリア」と呼ばれるようになったのです。
 
1971年の大韓民国国民勲章の叙勲式では、彼女は平服と下駄履き姿で大統領府に現れました。そこで職員から、せめて靴だけでもはきかえて欲しいと要求されましたが、カズは「私はほかに何も持っていません。これでダメなら帰ります」と拒否し、結局そのままの姿で式に臨みました。
 
こうしたカズの頑固さは、韓国にいながら常に日本人であることにこだわった姿勢にも現れています。当時も非常に強い反日気運の中にありながら、カズは和服かもんぺ姿を守り、端午の節句には、堂々と鯉のぼりを上げたといいます。
 
「望月カズ」と姓を変更したのは1982年のことで、カズが亡くなる前年のことです。「満州で殺害された母の霊を慰めてあげたい一心」からだったそうです。

 
1983年11月12日、カズは脳内出血で倒れ、帰らぬ人となりました。56歳でした。

 
「私たちは知っていますよ。温室の花のようには育てず、どんな強い嵐に遭っても、耐え抜ける根の深い木に成長させようとして下さった、あなたの深い愛を!」
 これはカズの死後、残された子供達の中の一人が葬儀の時に朗読した「母に捧げる手紙」の一節です。カズは子供達に深い愛情を注ぎました。育て方は傍から見て、どこか乱暴なところもあったようですが、何よりも卑屈な生き方を嫌い、決して甘えを許さないという、厳しい一面もあったようです。彼女が言い続けたことは、子供には家族が必要だということ。さらに彼女自身が学校に行けなかったという思いから、どんな苦労をしても、学校に行きたい子には学問を続けさせました。
 
彼女は言っています。「戦争がどんな理由で起こされたか知りませんが、子供から親を奪う権利が、誰にあるでしょうか?」
 
また、カズの伝記『オンマの世紀』を著わした麗羅氏は、彼女はきわめて直感直情行動型の人物で、物事を計算しながら行動するタイプではなかった。」と語っています。カズの困窮した生活を見かねて孤児院を国の公認の施設にするよう勧めた人もありましたが彼女は断固として聞き入れませんでした。それを麗羅氏は、「公認の施設になったら『オンマ』ではなく園長先生になるわけだ。カズは子供達から『オンマ』と呼ばれたかったのだと思う。『オンマ』とは、 韓国語でいう『母ちゃん』である。彼女を呼ぶのにこれほどぴったりする言葉はない。」とも語っています。 

参考動画
https://www.youtube.com/watch?v=OLZ-9uZIFs8&t=5s 

https://www.youtube.com/watch?v=zq0N4TuFxnU

https://www.youtube.com/watch?v=ZsFUZdIJqK8

https://www.youtube.com/watch?v=vWoSBYYyXXg 


<編集後記>

 韓国孤児に尽くした二人の女性;田内千鶴子、望月カズについては、知っていた人もあり、知らなかった人もある。多くの人たちが後援会を作ったりして、今もその遺徳を偲び、彼女たちの事業を受け継いでいる。しかし戦争になれば確実にその犠牲者が出る、特に戦争孤児たちが生まれてくる。だが、現実にはこの世界から戦争はなくならない。
 
彼女たちの愛は愛さねばならないという愛ではなく、せずにおれない(英語では、OUGHT TO)の愛だったと思う。孤児たちに注がれつづけた神の愛、願わくば私自身も今生かされている場でそのような愛に燃やされて生涯を全うしたい。  4月10日 雫石にて 大山国男 

人その友のために己が生命を捨てる、これより大いなる愛はなし

(ヨハネ15.16)


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