ヴィクトール・フランクル「夜と霧」/強制収容所におけるある心理学者の体験」をどう読むかの続き
<運命と向き合って生きる>
それは彼がアウシュビッツ収容所に連れて来られた時のことでした。
持ち物はすべて出せ!ナチスの看守の声に彼は上着を抱きしめました。彼が隠し持っていたのは精神医学の論文、出版されれば処女作になるはずでした。彼にとっては自分が生きた証でした。上着の裏に原稿を縫い付けてまで、守りたいものでした。しかし結局大切な原稿は服もろとも没収、処分されてしまったのです。それでも彼は絶望しませんでした。過酷な収容所生活の中で紙の切れ端を手に入れ、わずかな時間を見つけては原稿の復元を試みました。何としてでも論文を仕上げ世に問いたい。収容所で彼の心を支えたのはこの原稿の存在でした。
M:彼は収容所生活の中で高熱を出すんですね。彼の誕生日に囚人の友達がくれたちょっとした紙の切れ端に、彼は高熱にうなされながら原稿の復旧作業に取り組むんです。自分の仕事に対する執念ですね。
彼は自分が何かの作品を作り上げたり、あるいは仕事を通して実現して行く価値のことを創造価値と言っています。
T:具体的にはどういうことに対しての創造価値ですか?
M:例えば芸術作品を作るとか、彼のように著作を書くとかはもちろん創造価値ですね。しかし彼は大事なのは仕事の大小ではないと言っています。ある時彼の講演を聞いたある若者が、「先生、先生はいいですよ。多くの人に役に立っています。けれども私は洋服屋の店員です。毎日決まった仕事をただ、して行くだけ、こんな自分の人生に意味や価値があると言えるんでしょうか?」と問いかけました。
彼は、それは関係ない。芸術だとか、論文を書くと言うことだけではない、人が人の喜びを作っていくそこに創造価値があると言っています。
S:そうすると、芸術家が彫刻を作る;そのこと自体が創造価値なのか、その彫刻を見て癒される人がいるんだと言うことなのか、その両方なのか。
M:この彫刻を見て誰かが喜んでくれると言う思いを持ちながら作品を作って行く、そのプロセスにおいて実現されるのが創造価値だと言っていいと思います。
T:Sさんにとっての創造価値とは?
S:僕は自分で深夜のラジオ放送が自分の使命だと思っているんですけど、時々する想像で一番怖いのは、この放送が流れていなかったらどうしようと言う妄想がありますね。やっぱり伝わっていると言うことに僕は相当な<創造価値>を置いています。
T:番組を見てくれている人がいて初めてね。
S:たとえ同じギャラ頂いたとしてもぼくは嫌です。(笑い)きちんとしゃべれないと思います。
<心をふるわす経験―体験価値>
労働に疲れ果て土の床に座り込んでいた彼ら、その時一人の囚人が外から飛び込んで来て言いました。「おい、見てみろ。疲れていようが、寒かろうが。とにかく出てこい。」しぶしぶ外に出た彼らが目にしたものは、あまりにも見事な夕焼けでした。
私たちは暗く燃え上がる雲に覆われた西の空を眺め、地平線一杯に黒鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思われぬ色合いで絶えずさまざまに幻想的に形を変えていく雲を眺めました。ひとりの囚人が誰に言うのでもなく、つぶやきました。「世界はどうしてこんなに美しいんだ。」自分たちの状況とは関係なく存在する美しい自然、それを見た時彼らはつらい生活を一瞬でも忘れることができたのです。
M:彼は言っています。あなたが経験したことはこの世のどんな力も奪えない。<体験価値>というのはたとえば、大自然に囲まれている時に私たちはものすごい、圧倒的な感動を覚えますね。それからものすごい芸術作品、例えばオーケストラの音楽を聞いて感動に打ち震えているような時に、「人生に意味があるかい」と問われたら、その人は「何を決まっているじゃないか」と答えるに違いありません。
逆にほんとうに苦しい時に美しさを感じたり、笑いが人の心を和ませます。
S:実際彼がその光景を見ていると言うことの説得力は凄いんですけど、人間はその地獄のような中で見る夕陽をきれいだと思ったりするのは、何故なのか。それが人間だからとしか言いようがないですね。
M:それが人間の人間たる所以なんですね。極限状態の中で、美に感動する。そういう能力が人間特有の力なんだと、彼は考えています。
S:確かになんかこう、自然を前にして、声も出なくなるようなことってありますよね。
M:<体験価値>は実はどの方も体験している価値だと思うんです。自然や芸術だけでなく、彼はこんな体験を「夜と霧」の中で記しています。
早朝、極寒の中で彼らは作業場へ行進して行きます。身を切り裂くような風が薄着の彼らを傷つけます。ほとんど誰もが口をきかない中、彼の隣の男がつぶやきました。
なあ君、もし我々の女房が今我々の姿を見たとしたら、たぶん彼女の収容所はもっといいだろう、彼女が今我々の状態を少しも知らないといいんだが。
それを聞いた時、彼は不思議な体験をしました。
私の目の前には妻の面影が立ったのであった。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし、勇気づけるまなざしを見る。たとえそこにいなくても。彼女のまなざしは今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのだった。
T:私、正直言ってここに一番感動しました。
M:私が知っている限りでも、女性の方がこの本を読んでこのシーンが一番感動したと言う方が多いです。
S:ただこの時彼は実際に妻に会っているわけじゃないですね。
M:しかも彼は奥様と実際に一緒にいることができた時間はかなり短いんです。けれども、彼はほんの短い時間だったけれども、支えてくれたあなたの愛は私がここで体験したあらゆる苦難よりも、もっともっと大きかった、というふうに語っています。
T:どれだけ愛を感じていたかということですよね。
M:そうですね。しかも奥様はその時すでに亡くなっておられたんですね。けれども後でそのことをふり返って、彼はそのことは問題ではない。あの時私はほんとうに妻と対話をしていたし、それは過去に過ぎ去った思い出かも知れないけれど、「ほんとうに愛した思い出」があれば、それはずっとそこに残り続けるんだと彼は言うんですね。
T:決して、ただの記憶ではない。記憶が記憶以上の力を持っていると言うか。
S:「それは問題ではない」と言う結論に彼がたどり着くまでにどんなに、悲しかったか。しかも彼が見たのは幻じゃないですか。しかし実際にそういう記憶も体験もあるから問題じゃないと言うことなんですか。
M:心から愛したという思い出があれば、単なる思い出であっても人の人生を一生支え続ける力を持っているんですね。
T:軽々しくは言えないことではありますけど、今回の大震災で多くの方が大切な方や家族を失った。そうした人たちにも過去の愛した記憶がきっといつか支えになりますよ、ということがこの本のメッセージの一つかも知れませんね。
M:こういうエピソードがあります。ご高齢の夫妻だったんですけれども、奥様が亡くなった後に、―日本でも残された男性が、うつ病で苦しむ場合がすごく多いんですが、―打ちひしがれたこの方が彼のところに相談に来て、愛し合った妻もいない、こんな時間がカラカラと過ぎて行くだけの、こんな人生に生き続ける意味があるんでしょうか?と彼に聞くんですね。
その時、彼はこう問うたんですね。「もしあなたが先に死んで奥様が残されていたらどうだったんでしょうね。」・・・「おそらく妻も私を失ったことで同じように苦しんでいると思います。」と、その方が言ったんですね。
彼は、そこにあなたの生きている意味があるんです。つまりあなたが今辛い思いを体験している、そのために奥様がその辛い体験をせずに済んだんだということ。そこにあなたの生きる意味があるのですと言ったんですね。
S:たとえば、後追い自殺をしちゃおうかなって思っても、この命があることを一番喜んでいてくれた人が、愛してくれた人だからと思うと。頑張れると言う。
<人生にどう向き合うか;態度価値>
収容所生活の中で医師の仕事を任されるようになっていた彼はある時チフスにかかっていた若い女性と出会います。この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていました。それにもかかわらず彼女は私と語った時、快活でした。
「私をこんなひどい目に遭わせてくれた運命に対して、私は感謝していますわ。以前の生活で私は甘やかされていましたし、ほんとうに精神的な望みを持ってはいなかったからですの。
あそこにある木はひとりぼっちの私のただ一つのお友達です。この木と良くお話ししますの。
木はあなたに何か返事をしましたか?
しましたって。
では何て木は言ったのですか?
あの木はこう申しましたの。私はここにいる。私はここにいる。私はいるのだ。永遠の生命だ。
T:収容所でもう自分は死ぬんだと言うその間際、自分の運命に感謝する。・・・
M:どんな状況に置かれても人間はある態度をとることができる。この価値は最後まで失われない。これが人生がどんな時にも意味を失わない、最終的な根拠であると彼は言っています。
彼は人生に対する態度を変えることによって、その人生を意味あるものに変えることができると言っています。私はですね、死を目前にした状況もそうですけど、今、格差社会と言われますね。どうせこの社会は格差社会で、こんなに開いているんだから仕方がない、こんな家に生まれたんだからというような状況がありますね。確かにどんな容姿に生まれるか、どんな家に生まれるか、これは選べないですね。けれども与えられた状況に対して人間はある態度をとることができるということは、現代の我々、普通に生きている人にも十分に通用する事実だと思うんです。
S:でもそれを絶望している人に対して、<態度価値>というものがありますよ 」と言っても、人の心は動くんでしょうかね。
M:語った直後に人生が変わるということはあり得ないんですね。けれどもそれがどこかで<種>として残り続ける。それがある時、ある状況で、ある場面を迎えた時に、ふっと花開くんだと思うんです。本当に必要な時にその言葉が生きてくると、私は思いますね。
<苦しみの先にある希望の光>
T:誰しも生きていて苦しみ悩むことがあります。それをどうとらえたらいいのか。
彼が収容所の中で考え続けたこと、それは自分たちを苛む苦しみにはどんな意味があるかということでした。
彼は晩年まで人生の苦難とどう向き合えばいいのかということについて語り続けました。
人間は目的意識を持てば単に愛したり楽しむだけでなく、誰かのために、何かのために苦しむこともできるのです。
K:私が17歳、高校生でちょうど中途半端な時で、たとえば、谷に丸太が架かっていてそれを渡ると大人の世界に行ける、でもなかなか渡れない、そういう逡巡している時に、この本をちらっと読んでそこから、「目からうろこ」と言うんでしょうか、悩むと言うことは決してネガティブなことではないと、それは非常に大きな発想の転換になりましたね。
T:苦悩と言うのを彼はどう見ていたのか。
強制収容所でフランクルは苦しみについて、思索を深めて行きました。
多くの収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるかと言う問いでした。生きしのげられないのならこの苦しみには意味がないと言うわけでした。しかし彼の心を苛んでいたのはこれとは逆の問いでした。すなわち、彼らを取り巻くこの苦しみや死には意味があるのかという問いです。もしも無意味だとしたら収容所を生きしのぐことなど意味がない。身の回りに溢れる苦しみや死、その意味を考える中で、彼は苦しみや死とどう向き合うかが、最も重要なのだと感ずるようになりました。まっとうに苦しむことはそれだけで、もう何かを成し遂げることだ。苦悩と死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ。
T:人生の中で苦悩と死が充満している中でそれは何だろう?という考えが及ぶということ、これをどういうふうに考えて行ったらいいでしょうか。
K:苦悩と言うのは人間の本性であって、我々はどうしても、まず幸福になりたい、苦悩を避けたいと願うけれども、それは逆の方向に目標を設定していることになる。苦悩と言うのは単なる逸脱状態ではなく、人間の本性がそうなっているんです。
S:子供のころから親に教わって来たことは、苦悩を解消するんだ、解消しつづけて苦悩の無い状態が人間の完全体なんだというふうに、漠然と教わって来たような気がするんですが。・・・
K:それが180度変わるんですね。
S:苦悩はあるもんだと言う。
K:苦悩というと何かを我慢してストイックなイメージがあるんですけど、そうじゃなくて、人間性の一番の最高の価値は苦悩することによって現れて来る。だから、芸術家も、俳優も、あるいは漫才をやる方々も、だいたい私生活で苦悩した人がいい芸や仕事を見せてくれる。
S:ぼく自身は色々くよくよする人だから今の言葉は嬉しいですが、まっとうに苦しむということはどういうことですか。
M:彼は苦労の意味を二つにはっきり分けているんですね。一つは苦悩するがための苦悩、悩むがための悩みです。それと、何かのために悩む、誰かのために悩む、つまり人生の中で何かを引き受けるために悩む悩みですね。
S:どちらかと言うと、僕は最初のほうの苦悩になりかけます。苦悩していないことが怖い、だから悩み続ける・・・それはまっとうじゃない苦悩ということになりますかね。
K:まっとうにと言うのは、まじめにという意味で、夏目漱石の言葉の中に「あなたはまじめですか?」と言う言葉が何度も出て来るんですけれども、まじめと言うのは、具体的な声に、具体的に答えていく、・・・それができなくなった時に、自己意識の罠に引っかかって、苦悩自体が自己目的化するのではないでしょうか。
T:私、悩むなんてまさに自分と向き合う行為だと、ずっと思っていましたけれども。
M:「自分探し」なんてことを言いますね。彼に言わせると、それは本来の苦悩とはちょっと違うんですね。我を忘れて何かを取り組んでいる、誰かのために、何かのために、その時に苦悩で満たされるのであって、くるくる自分のことを考えて「自分探し」をしている間は、ほんとうの自分と言うのは見つからないと思います。
S:自分が悩んでいて、悩み過ぎて、病気の一歩手前までに行ってしまう時に、何も悩んでない人がどこかにいて、それに比べて何で私はこんなに悩みが多いんだろうというようなことがある気がします。
K:どうしても我々は比較をしてなぜあの人は幸福なのに、なぜ私は不幸なのかと言う、それは怨念になったり、ネガティブな感情になりやすいですね。
T:何で私だけと思ったり・・・
K:本当の苦悩はそれを逆転させる可能性がある、つまり自分は今苦悩の中にあるけれども、それをしっかりと受け止めてまっとうに苦しむというところが、最も人間として崇高なことかもしれないと思うと、そこから何か自分が変わって行くと思うんです。
S:なんかちょっと救われますね。苦悩している時、「それこそが今、向上しようとしている時なんです、それはとても人間らしい状況なんです」と言われるととても温かく感じますね。
<運命は贈り物>
苦しみの中身は人によって違う、そこに大きな意味があるとフランクルは言います。
どんな運命も比類ない、どんな状況も二度と繰り返されない、そしてそれぞれの状況ごとに人間は異なる対応を迫られる。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人がこの苦しみを引き受けることに、二つとない何かを成し遂げるたった一度の可能性があるのだ。誰もがその人だけの苦しみ、そして運命を持っている。運命とは天の賜物、その人だけに与えられた贈り物だと彼は考えていました。
K:運命と言うのはドイツ語で贈ると言う意味があるんですね。おそらく神様からGIFTとして贈られたもの、それが運命なのかな、彼が言うには、人類史始まって以来、二人として同じ人はいない。与えられた運命と言うのはその人だけに与えられたものだから、贈り物というわけですね。
世の中で成功するかしないかを指して、良く我々はそれを運命と置き換えるけれど、彼は運命とはもっと本質的な問題として言っていると思います。
M:多くの人間は成功か、失敗かと言う水平軸の間だけを行き来している、その結果水平的なフラットな人生を生きることになってしまっている、ちょっと喜んだり、悲しんだり、グネグネするような状態ですね。
それでは生きる意味を感ずると言う厚みが足りないですね。
彼が現代社会に復活させるべきだと言っているのは、この垂直軸、つまり、絶望の極みにおいて生きる意味を問い詰め始めると言うことなんですね。
そしてものすごく深い人生の深みに達っしたり、ものすごい高みに昇って行ったりする。この精神性の高みに昇る、垂直軸を取り戻すことが、私たち現代人が生きる意味を日々感じるためには必要ではないかと、彼は提唱しているわけです。
市場経済と言うのは言わば、横軸だけで生きているわけですね。勝ち組か、負け組かとか?でも、成功したからと言って、それがどれだけ意味があったんだろうかとか、失敗をしたけれども、そこにはすごく意味がある場合もある。意味を問うと言うのは、今の市場経済ではほとんど失われたものです。
そうするとやっぱり悩むことを知らない人も出て来るし、悩みに対して非常に免疫力がない人が多くなる。だからこの深みが人間には必要だとおもいます。
<むなしさと向き合う>
経済的な豊かさを追求して来た現代社会、そこに豊かさゆえの苦悩が生まれることを彼は指摘しています。
(フランクルの講演より)
意味の喪失感は今日非常に増えています。とりわけ若者の間に広がっています。それは空虚感を伴うことがよくあります。昔のようにもはや伝統的価値観が何をすべきかを教えてはくれません。今や人々は基本的に何をしたいのかさえも分からなくなっています。
M:何でこんなに空しいんだろうと言うのは苦悩の中の一つではあろうけれども、まっとうな苦悩とはちょっと違うんですね。
K:社会が豊かに便利になったはずなのに、生きる意味が見えにくくなっている。何を信じたらいいのかとかどう行動したらいいのかと言うことが、個々人が決断しなければならない時代です。
我々は伝統的な価値や宗教的な価値から解放されて、個人が自由になった。そうしてどう行動すべきかを自分で決めなさいと、逆に投げ返されているんですが、結局それを見出そうとしても、自分を見つめれば見つめるほど、自分の中に入り込んで行ってしまう。
M:彼が言っているのは、今の時代にストレスが足りない。そしてプレッシャーが足りない、そして緊張感がないと言っています。
これが現代の大きな問題だと言って、本来こうありたいと言う自分との葛藤で苦しむことがあっていいはずなんですが、「みんな違ってそれでいい」と言う、全部そのままでいいんだよと言う社会になって行く。そうすると緊張感がない社会になって行って、ちょっとストレスを感じると免疫がありませんから、ぽきっと折れてしまう、そういう時代になって行くと言うことを彼は1960年代にすでに言っています。
S:それを凄く感じるのは携帯電話の呼び出しで、出ない奴すごいむかつきません?
昔だったら電話に出たら「わあ、いてくれたんだと言って、喜ぶじゃないですか。電話がなかなかつながらないのが、普通だったから。でも今はつながるのが普通だから、呼び出し音が10回鳴っても出ない奴ってのは、何だよと思うじゃないですか。ぼくの場合はそういう意味でストレスに凄く弱くなっている。
K:今の我々はとにかく欲望を満たすことが幸せで、現代社会は欲望を極大化させる社会、結局見たいものだけを見る、それはテレビの番組もそうですし、ネット上でもそうなるわけですよね。見たいものだけを見ると言うことが非常に閉塞感を作り出している。
しかし、見たくないものに目を背けないことが「悩む」ことにつながる。だから彼はある意味で先見の明があったと思います。
<過去は宝物になる>
彼は人生を砂時計に譬えて説明しました。
未来は現在を通過して過去になる。歳を取ると多くの人は未来が残り少なくなってしまうと嘆きますが、彼はそれを否定します。苦悩の人生を生き抜いたとき、過去はその人のかけがいのない財産になると、彼は語り続けました。
体験したすべてのこと、愛したすべてのもの、成し遂げたすべてのこと、そして味わったすべての苦しみ、これらはすべて忘れ去ることはできないことです。過去と言うのはすべてのことを永遠にしまってくれる金庫のようなもの、思い出を永遠に保管してくれます。
T:過去と言うのは過ぎ去って行くものだと思っていましたけれども、蓄積をされるものなんですね。
M:多くの方は今、この瞬間が大事だと言われるんですけど、彼のように過去こそ一番大切なものだと言う人はなかなかいないですね。
そして彼は何もせずに失われた時間は永遠に失われてしまうけれども、生き抜かれた時間は、時間の座標軸に永遠に刻まれると言っています。
K:我々はよく、若いから価値があると言いたがるんですけど、それは間違いだと思いますね。歳を取ることは決して恐れることではない。むしろ自分の金庫に忘れがたいものが溜まって行くわけです。
M:現代の私たちがこの本に出会い考えることは、ほんとうに意味が深いと思いますね。
K:ユダヤ人が日々大変な世界の中に入れられて、それでも人生にイエスと言うのは、大変な意味があったと思いますし、それぞれにその人にしかない運命的な状況があります。
3月11日は我々に、何時、何が起きるかわからない、そういう不安の中で我々は生きているけれども、しかし、人生にイエスと言う生き方ができるんだということを、この本は示してくれる。これは我々が3月11日を経たからこそ、この意味をかみしめるべきかなと思います。
それでも人生にイエスと言う、・・・これは強制収容所で歌われた歌詞の一節です。彼は晩年までこの言葉を語り続けました。どんな状況でも人生には意味がある。今私たちの心に強く訴えかけて来ます。