私達は、宇宙の中での生命体の常態として、本来はエネルギー体のみで存在していますが、特別な体験の機会を与えられて、物理的な肉体の中に入っているのだ、ということについては度々ご説明して来ました。
で、エネルギー体、つまり、いわゆる霊ですね、霊として存在している状態というのは肉体という負荷がありませんから、ありのまま、エネルギー粒子のエネルギー状態そのまま、なわけです。それは、「思い」だけの世界と言っていいと思います。
思いが、そのまま自分の状態であるということになると、ある意味、というのは、この世的な意味ということですが、ラクですね。食べたつもり、が食べたことになるのでしょう。美しく在りたいと自分の姿を思い描けば、その姿で居られるのでしょう。
ところが、肉体に入るということになりますと、それは物理的な世界、つまりこの社会ということになりますから、いろんな意味で、物理的な負荷がかかって来ますね。
食べるなど肉体自体の維持や、社会という虚構が生み出す人間関係から、社会的な立場や生活環境の維持などなど、「思い」だけでは済まないような部分がたくさんあります。そこに、自分の本来のエネルギー体としてのエネルギー状態と、物理的な存在状態とのギャップが生じて来るわけです。これをストレスということも出来るでしょう。
瞑想というものの存在は、そのギャップの幅を縮める為のものではないでしょうか。つまり、思いと、いわゆる現実(実は虚構ですが)での自分というものの差を修正する、ということですね。
そのためには、自分の本来の思いとは違うかも知れない物理的な状態の自分と、今ここに居る自分とをいったん切り離して、本来の「思い」の自分に立ち帰ることが有効だということになる訳です。
その手段、方法には、座禅のようなものもあるかも知れませんが、よく配慮された誘導瞑想やヒーリングのようなものを試みることもあるでしょう。あるいは、いろいろな束縛を離れて自分らしくのんびり過ごしてみるとか、好きなことや、やりたいことに打ち込んでみるのもいいでしょう。
要は、体裁や世間で言われているような方法論的なものを離れて、本来の自分の姿、思いに立ち帰る試みであることが大事で、本当に望むのであればともかく、いくら世間でいいと言われているからといって、無理をして聖地へ旅行したり有名なお寺で結跏趺坐ですか、ああいうことを辛い思いや緊張をしてやることもないのではないでしょうか。まあ、自分なりの思い思い(の過ごし方)がいちばん、というところでしょうか。
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