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悪人正機説の真義、親鸞のメッセージ、1986年

2020年05月31日 | 宗教
これは、先日の、親鸞のメッセージの続きです。(親鸞上人のお弟子の)唯円という方が、親鸞のご生前の言行について書かれたとされる「歎異抄」という書物の中に、「善人なおもて往生をとぐ。況んや悪人をや」という親鸞のお言葉があり、これが、よく知られた、いわゆる「悪人正機説」です。これについて、親鸞ご自身が詳しく語られています。

(ここから)

(次を語る前に)まず、言っておかなければいけないことがあります。それは則ち、あなた方(地上で肉体を持って)生きている人間には、何が善であり、何が悪であるかは分からない、という事なのです。

もし、親鸞が、何が善であり、何が悪であるか、ということを言い切れる人間であったなら、親鸞は、一人ひとりの人をつかまえて「お前はここが悪いから、ここを正せよ」と言ったでありましょう。しかし、何が善で何が悪かは、人間では分からないのでござる。これは、神仏のみが、知っておられることなのです。

この世には、悪を犯したと言われて命を奪われる者、悪を犯したと言って死刑を宣告される者がいる。そのような者は、悪を犯す前に、決して幸せであったはずがありません。人を殺そうと思うような心になるということは、その者が幸せではあり得ないのです。

そこで、その者は、その事実そのものに、既に罰せられているのです。

人を殺そうという気持ちを起こすこと自体が、既に罰なのです。そういう気持ちが起きたということは、その者は、どれだけ不幸で、どれだけ苦しんでいるかを証するものです。

あなた方は、幸いにして、人を殺したい、とまでは思ったことがないでしょう。人を憎んだことはあるでしょう。怒ったことはあるでしょう。ただし、人を殺したい、とまでは思わなかったはずです。則ち、あなた方は、それだけ幸福な、幸せな存在なのです。しかし、人を殺そうと思って、殺してしまった人は、その、もう消し難い事実によって、既に罰せられているのです。

その人が、そこに至るまでに、どれだけ多くの人が、その人に対して悪をなしたでしょう。その人が、そこまで至るまでに、一体どれだけの心の遍歴があったでしょうか。

その人の、ご両親、兄妹、親類、その人の先生、友だち、あるいは、道行く人々、そうした人々は、その者に対し、慈悲深い行為をして来たでしょうか。情深く接したでしょうか。そうではなかったはずです。

その者は、既に罰せられているのです。死刑にされる前に、既にもう罰せられているのです。ですから、その者を、さらに刑務所に入れ、なお生きている命を奪う。これは悪を重ねているようなものです。

人を殺すということは、これは、もう、死刑と同じです。生きている人間としては、仏性(ぶっしょう)が、最悪の所まで来て、最悪に曇っているのです。これだけで、既に、結果で罰せられているのです。

殺したい、とまでは思わない人は、恵まれた人たちです。そう思う、という事だけでも、もう罰せられています。その人は、人を殺す前に、その罪は、もう贖われているのです。それだけ苦しんだ魂です。よくぞ、そこまで苦しんだ。それを赦さないで責め続けるのは間違っています。魂が(すでに)苦しんでいるのです。

あなた方は、同じ時代に生きていて、人を殺したいとまでは思わないでしょう。人を殺したいとまで思わないのは、あなた方が優れているからですか、そうではないはずです。つまり、あなた方が、それだけ不幸ではないからです。人を殺したいと思う所まで不幸ではないのです。実際、人を殺してしまった者は、不幸な方なのです。むしろ、あなた方は(その人に)同情すべきであって、責めたてるのは間違っています。

また、人を裁く人がおります。(自分を)善人だと思っているのでしょうか。私は、職業が悪いとは言いません。ただ、警察官であるとか、検事、裁判官とか、その職業柄、人を裁かねばならぬ人がおります。

この人たちの中に悪はないのでしょうか。彼らの中に、悪はないのでしょうか。

彼らは、少なくとも、人を殺してしまうほど不幸な人ではないはずです。しかし、情心(なさけごころ)で(裁かれる人に)接したでしょうか。人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行ないを振り返ってみるべきです。それを問いつめるだけの、優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。人間、人を裁くことは、出来ないのです。

則ち、本当の世界とは、心の世界なのです。

外見を(本当の自分より)善人ぶることが出来る人もいます。外見を、偉い人であるかの如く、罪一つ犯さない、虫一匹殺さない人の様に、取り繕うことは可能です。

しかし、心の世界は、誤魔化すことは出来ません。神仏の眼から見た、人間の心は、一目瞭然(なの)です。

「汝らのうちで、罪なき者、悪を犯したことのない者のみ、この女に、石もて罰せよ」とイエス・キリストは言いました。

キリストは、罪を犯したことのない者、と言いましたが、では、もう一歩進めて「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を裁きなさい、罰しなさい」と言ったとしたら、裁ける人は、1人でもおりますか。あなたでも裁けないはずです。あなたも身に覚えがある。心に覚えがあるはずです。

私の、悪人正機説は、一見、奇異に聞こえるでしょう。

悪人こそが救われる、などと言うのは、邪宗そのものに聞こえるでしょう。善人が救われるのに、悪人が、救われないわけはない。悪人こそ救われるのだ。それが弥陀の本願だ。しかし, このようなことを言って、普通の頭の人が理解出来るとは、私は思いません。

それは、逆ではないか。善人こそ救われて、悪人は救われない。それが公平な裁きではないか、そう思うでしょう。しかし、悪人は、悪人というのは、悪人であるということ自体で、既に、もう罰せられているのです。既に、魂は苦しんでいるのです。あなた方は、人を殺そうと思うところまで苦しんだことはないはずです。いくらあなたが辛い人生を送ったとしても、刃物で人を突き殺そうとまでは思わなかったはずです。則ち、あなたの魂は、そこまで苦しんだことはないということです。彼らの魂は、そこまで 苦しんだ、これが悪人です。

ところが、世の善人たちは、どうでしょうか。自分たちは、法衣を被って、勉強して、その知識でもって淡々と事務処理を進めていきます。裁判官がそうです。彼らは法律をよく勉強して、刑法とか様々なものを知って、こういうことをしたらこの罰に相当する(という様な)ことが判っている。ですから、無期懲役であるとか、死刑であるとかを、いとも簡単に、決断を下しているのです。

ところが、悪を犯す人は、そうした法律を学んでさえいません。勉強したこともないのです。自分の行為が、一体どのような罰に当たるのかも知りません。そうしたことすら知らない人を、それを知っている人が裁いているのです。

それを知っている人は、自らの心の中に悪がなかったかどうか、反省して頂きたい。

悪は、きっとあるはずです。心の中に悪がある者が、他人の悪を責めるという事は、私たちの世界、心の世界においては、一体どれだけ辛い事であるかを知っていましょうか。分からないからこそ人を責めるのです。もし人の心と心が開けっ広げに分かるならば、罪に打ち震えている人でさえ、それを裁かんとする人々の、心の曇り、誤り、悪を知っているはずです。そこで「あんたの心の中にも悪はあるじゃないか」と言えるはずです。

その時に、裁きが出来るでしょうか。善悪は人間では決められないのです。決められないのにも関わらず、現代の人間で、やむを得ず、裁きをする人もいましょう。しかし、これらの人も、また、救うべき立場ではなくて、救われる(べき)人(なの)です。

これは、何も法の裁きをする人だけではありません。あなた方の大部分が勤めている会社という所にもあります。人間は、会社という組織の中で偉くなって行きます。しかし、出世をしていく途次において、その中には、それだけの悪を含んでいるはずです。栄達した人の陰には、数多くの泣いて来た人がいるのです。

例えば、重役となり、社長となれば、彼らは、即ち、偉い人だとみなされます。本人も偉い人だと思っています。しかし、世に(自分を)偉い人と思っている人は、その奥に、どれだけ悪を含んでいるでしょうか。一体、何人の人を苦しめて来たか、一体、何人の人を、人事で左遷して来たことでしょうか。

平社員で一生終わる人がいます。そういう人は不幸かも知れません。金銭的にも不自由かも知れません。しかし、そういう人は、人の悪口は言えても、人の首を切ったり人を左遷したりしたことはないはずです。つまり、そういうことは、立場上、しなくても済んだからです。

ところが、社長と仰がれるような人は、幾度、人の首を切り、幾度、人を左遷し、幾度、色々な家庭に不幸を起こしたことか。しかも、それを、本人は、善人であり成功者であると思っているのです。そして、世の人々は、社長のようになりたいと羨ましがっているのです。

親鸞が(言うところの)善人、悪人は、今の世で言えば、成功者とそうでない者(のこと)です。こう言えば、あなた方にも分かるでしょう。

神は、失敗した人と成功した人とでは、どちらを救って下さるでしょうか。

自分の人生は失敗したと思っている人、一生、平社員で終わった人、会社を首になって職を転々とする人、能力を持ちながらも、その芽を伸ばせず苦しんでいる人、あるいは、能力を持ちながらも、家庭環境、病、事故など、様々な問題が起きて、その才能を発揮出来なかった人。

あるいは、また、若い人たちが今、野球というものにうち興じているが、才能を持った子供が、たまたま晴舞台で怪我をしたがために、プロの選手として活躍する機会を失う。こうした事もあるのです。

神は、一体どちらを、いとおしいと思われるでしょうか。仏は、どちらを救いたいと思われるでしょうか。

答えは分かっています。則ち、世の失敗者こそ、神仏が、両手にとって抱きしめたいと思っている人々なのです。

悪人も、また、悩んでいる人です。悩んでいる人とは、失敗した人です。成功した人ではありません。

成功した人々は、自叙伝を書いたり、自分の成功談を人に話します。「俺はこうして社長になった」と。しかし、社長になった時に、どれだけの悪を含んでいるかです。その人は、それを恐らく生涯反省することはないでしょう。

そして、失敗者たち、成功しなかった人たちは、自分の人生は、何とつまらない人生であったことかと思う。一方、成功者たちは、何と素晴らしい人生であったかと、そう思って、その人生を閉じるのです。

しかし、その後の世界においてはどうでしょうか。

イエスが言った通りです。則ち、イエスは

「己れを低くするものは高くされ、己れを高くするものは低くされる」

と言いました。その通りなのです。

自らの悪を見つめ、自らの弱さを見つめ、自らの悩みを見つめ続けた人こそが、本当に神の愛を受けるに足る人間になるのです。

自らを成功者だと思い、この世的に偉いと思っている人、自分を、秀れた人、立派な人、善人だと思っているような人。こうした人たちこそ、この世を去ったときに、反省すべき事が多いはずです。

失敗者は、この世において、既に反省をしているのです。この世において、なぜ自分は失敗をしたのかという事を、日夜考えているのです。しかし、成功者は、この世においては、なぜ俺は成功したのかという点だけを、日夜考えている。そして、あの世に還って、初めて反省を始めるのです。

世に、総理大臣とか言われる人々もそうです。歴代の総理大臣の中には、今、地獄で呻吟している者もおります。しかし、彼らには、その理由が分かりません。俺は世の中で登りつめた人間だ。日本で一番偉かった一番の成功者だ。その俺がなぜ地獄に居るのか、と考える。則ち、自らの成功のみを考え、自らの失敗を知る事が少なかったからです。

しかし、この世で、自らの失敗を見つめた人は、あの世で、自らの失敗を見つめ続ける必要はないのです。一方、この世で自らの成功を追い求めた者は、あの世で、自らの失敗を、心の世界における失敗を、知る必要があるのです。それが分かるまでは、反省を続けねばならんのです。

ですから、善人悪人とは、現代で言えば、成功者と失敗者です。

私が、もし現代に生まれたら言うでしょう。失敗した方々よ、人生に失敗した方々よ、あなた方のために神仏の慈悲はあるのです、と。

成功した方々よ、驕るなかれ。あなた方は、本当の成功者かどうかは、未だ分かりませぬぞ。あの世に還ってみないと分かりませぬぞ。あなた方の成功の陰に、一体どれだけの悪があったか、一体どれだけの人が涙を流したか。

それを知っていますか。私は、そう言いたいのです。

人間心で、どう生きることが神の御意に適うか、を分かる人は立派です。その方は、神の心に適った生き方をして下さい。ただ、この世の人間には、何が神の意に適ったかは分からないのです。分からないのならば、謙虚に生きて行こうではありませんか。自らを成功者とするのではなくて、神仏の前に、謙虚な自分であろうではありませんか。

人を裁くような人間に、ならないようにしようではありませんか。人を裁くような人間とは何でしょうか。それは善人です。善人が人を裁くのです。悪人は人を裁けません。裁かれる立場です。善人が人を裁きます。

言葉を換えましょう。成功者が失敗者を裁くのです。人生の成功者が人生の敗残者を裁くのです。登りつめた人が落零れた人を裁くのです。合格した人が不合格の人を裁くのです。そうではありませんか。

しかし、私たちは、裁くような人間には、なりたくないものです。

裁きには驕りがあります。

神仏の心を分からない人間であるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。失敗者であっても、よいではありませんか。(自分が)成功者であることを祈る、願うよりも、失敗者として、自らの罪、自らの失敗、自らの弱さを徹底的に見つめて、どうしようもない自分であるならば「神仏」の大いなる慈悲に任そうではありませんか。お願いしようではありませんか。

生きているうちに、この事に気が付いた人は、死んでから気付く人よりも、私は素晴らしいと思います。その意味では「悪人」こそ救われるのです。善人ではなくて「失敗者」こそ救われるのです。

よいですか、成功者ではなくて、失敗者こそ救われるのです。

イエスが

「金持ちが、金持ちの天国に入るのは、駱駝が針の孔を通るよりも難しい」

と言ったのは、このことです。

そして、私が言った

「善人が救われるよりも、悪人のほうが救われる」

とは、イエスが言ったことを、別の言葉で表したものです。

成功者が救われるのは、駱駝が針の孔を通るよりも難しいのです。

成功者であって、しかも、その成功が、神の御意にあった成功であるならば、それは素晴らしいものです。

神仏の意を体現して、この世に地上天国を造って、そして、成功された方は素晴らしいです。恐らくは悪人たちよりも素晴らしい方でしょう。ですから、あの世へ行っても偉くなられるでしょう。

しかし、神仏の御意に適った成功が少ないのであるならば、失敗者であることを恥じないで、堂々と胸を張りましょう。そして、その分だけ、神仏をより多く信じましょう。

神と人間では比較にならないのです。相撲する相手ではないのです。神は、人間よりも遥かに偉大なる力を持っておられるのです。その大いなる力の前に、謙虚に平伏すことです。これが大事なことです。

私は、善人や悪人ということを言いました。悪人は、自ら悪人であるということを知っているからこそ、神仏に近い距離にあるのです。生きている時に、自らの悪を見つめて反省する機会があるからこそ、神仏に近い所にいるのです。善人は、自らの善に驕って、神仏を考えないからこそ、神仏から遠いところにあるのです。

成功者というものは、ある意味では、唯物的なのです。

自力というのは、素晴らしいのですが、自力は、ある意味においては、神仏を否定することになって(しまって)いるのです。

しかし、神仏のお力によって自らが成功した、と言っている経営者は、立派な方です。

松下幸之助氏のように「私が成功したのは、九〇パーセントまでが運でありました」と言っている方は、本当のことを知っている方です。

自分自身の力で成功したのではない。神仏や高級霊たちの力によって、今日の彼の成功はあった。それを、彼は知っていて、自らの成功は九〇パーセントが運であったと言っております。彼こそは名経営者です。こういう人は地獄へ行くわけはありません。

ところが、大抵の成功者は、そうは思わないのです。

自らが成功したのは、自分が努力をしたからだ。言葉を換えて言うならば、自分が秀れていたから成功したのだ。世の他の人々が成功しなかったのは、要するに、努力が足りなかったか、秀れていなかったからだ。人間として劣っていたからなのだ。こう思うのです。

しかし、こういう人たちは「天国」には遠いのです。天国の心から遠いのです。自らを高しとするもの、自らをして、この三次元において巨人だと思っている人は、あの世では、一番小さな人となるのです。

ところが、世の失敗者たちは、自らの失敗というものを、しっかりと考え、受け止めています。弱さを知っています。自分の弱さを、無力さを知っています。この点において、反省、要するに反省への「契機」があるということです。また、神仏を知る契機があるということです。この、契機があるということにおいて、神仏に近い所にいるのです。世の失敗者たち、世に、失敗を続ける人であるからこそ、神仏への道があるのではないですか。

病気というものを、例えば「悪」としましょう。そして、いつも健康でいる人を「善 」としましょうか。健康でいる人は、自分が生かされているという事が、なかなか、分からないのです。

体が強いだけで、体が強いということで、感謝を忘れています。当然だと思っています。体が健康なのは当然だと思うからこそ、感謝の気持ちがありません。ご両親のおかげ、あるいは、あの世の人たちのおかげで健康なのです。それを忘れています。

ところが、病人は、そうではありません。病人は、健康の大切さをよく知っています。健康が、どれだけ有難いか、それが幸せの基礎であるか、という事を知っています。それだけ、こういう人たちは、魂の修行をしているのです。感謝をするチャンスがあるのです。

ですから、健康になっただけで、こういう人たちは幸せなのです。言わば、マイナスからの出発です。

世に、プラスの人間とマイナスの人間が居るかも知れません。プラスの人間は、自分を驕っているでしょう。けれども、マイナスの人間は思うでしょう。零になっただけで 幸せなんですよ、と。実際、マイナスの人間は、零になっただけでも幸せなのです。そして、そう感じている。

そこで、これで、幸せを感じる人と、プラスを幾らかでも積まないと幸せを感じない人と、どちらが本当に幸せに近いかです。

ですから、私が「毒矢の喩え」で言ったように、まず、命を取り止めることです。つまり、そういう止血という行為、これは、1つの手当の、最初であり、きっかけとなるからです。

悪人が、成仏している場合も 、していない場合もあります。それは当然です。

ただ、悪人であるということにおいて、神仏の心を知る契機を持っています。そのきっかけを持っています。きっかけを持つとは、即ち、神仏に近い、ということです。自分を驕っている善人よリは、そのきっかけがあるだけ、神仏に近い。

(悪人と病気の人の、どちらが神仏に近いかと言えば、悪人には)病気の人よりも、神仏を知る近道があるのです。

誰もが、病気をして神や仏のことを考えるのではありません。健康で、何もかもうまく行っている時には、何も考えないはずです。ところが、病を得て、初めて、宗教というものを知る事が出来るのではないですか。医者に見放されて、初めて、宗教というものを勉強し始めるのではないですか。

つまり、悪のなかに、神仏への近道、契機があるということです。

ただ、この契機、きっかけを生かし得る人と、そうでない人がいるでしょう。ですから、結局、その後の人生、あるいは死後の人生は、そのきっかけを十分に生かし得たかどうかです。それによって、変わってきます。

「毒矢 」が当たっても止血することは出来ます。ただし、止血のままで放っておいたのではよくありません。手当が必要です。看護が大事です。後のことが大事なのです。ですから、腕を縛っておくだけではいけないのです。さらに先のことが大事なのです。

則ち「悪人正機説」とは、正しく救われるきっかけ、であるという事です。

きっかけ、だということ、則ち、きっかけを授っているだけ、悪人は天国に近いのだということです。死後、あの世で、きっかけが与えられるよりも、生きているこの世において、きっかけが与えられている。この世に失敗することにおいて、初めて、神仏を知るチャンスがある。

これは「失敗礼讃」ではありません「病気礼讃」ではありません。そういうことと間違って頂いては困ります。

ただ、失敗者の中には、神仏に目覚めるチャンスがあるということです。

一部の優れた人たちを、私は否定はしません。神仏の御意に適って成功している人、自力で成功を収める人、そうい う人たちも居ることを、私は知っております。しかし、そういう方は、そういう方です。
 
泳ぎの達人は、救う必要がありません。私が言っているのは、溺れそうな人です。泳ぎの達人に、私は説いているのではないのです。

ですから、現代の方々に言うなら、失敗しているから(必ず)救われるわけではありません、と。失敗しているから、救われる契機が、それだけ多く与えられているのです。病気をしているから、それだけ、本当の(世界)心の世界(霊界)で、救われるチャンスが与えられているのです。

つまり、健康な人以上に、それを忘れるな、ということです。

むしろ、あなた方は恵まれた方なのです。神仏の慈悲を受けるきっかけを持っている。ない人よりも、自分の力だけで(自分の)健康保険だけで生きている人よりは、神の保険にかかっている人の方が素晴らしい、ということです。そこが、とかく現代人の間違い易い所だと思います。

「悪人正機説」は、悪を犯せば救われる、という意味ではありません。それを、罪人礼讃、受難礼讃というふうに解釈し、そのように誤解されると、これは間違いになるということです。

止血の方法を知っているからといって、毒矢をいくらでも受けていいわけではありません。

毒を消す薬があるからといって、毒薬をいくらでも飲む人は馬鹿です。そうではありませんか。

よく効く注射があるからといって病に自ら罹る人がいますか。よく効く風邪薬があるからといって、裸で、酷寒の川の中で坐っている人は馬鹿です。そうではありませんか。

風邪薬があるから、風邪をひいても癒せる。よく効く薬があるから、裸で水の中に入っても平気だ。こういう人は馬鹿です。風邪を引かないように注意をするのが当然です。

同じように、悪人でも救われるからといって、悪を犯そうという人は馬鹿です。

もっと悪を犯せば、犯すほど、きっかけがあるのではないかと、それで悪を犯すような人は、これは間違っています。それは、たとえ溺れかけていても、救ってくれるからといって、わざわざ溺れる危険性のある急流の中に身を投げ込む人と同じです。

どうせ救って下さるのだから、死にそうなら死にそうなほど、一番救って下さるなら、一番救い難そうなところで溺れてみよう、と。こんなことをする人は馬鹿です。そうではありませんか。

そこを間違ってはいけないのです。そこを間違う者は愚かです。知恵が足りないのです。

ですから、あなた方の時代に、他力信仰ということをどう捉えるかは難しい(の)です。

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