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日時計のような暮らし、谷口雅春のメッセージ、1986年

2020年06月25日 | 宗教
これは、谷口雅春という方が、霊界から、あるチャネラーに語られたとされるメッセージです。35年ほど前のものですが、内容的には古くないと思います。
生前の谷口氏独特の、ユーモラスな語り口の特徴が感じられます。タイトルは、こちらで付けました。カッコ内は補注です。

(ここから)

谷口雅春です。今日は「真理は、汝(なんじ)を自由にする」という演題で話をしたいと思う。

私達は、一体、何のために、真理の学習に励んでおるのか。まず、ここから出発せねばならぬ。

一九〇〇年代の終わりが近付いた(当時)この現今の、宗教好きの人達を見ていると、どうも悩みが多い、私には、そう思える。

仏教徒というのは、どうも暗い。見ていると、カビ臭い。よく聴いておれば、どこかの木魚の音か何かが、聞こえて来そうな気がする。或いは、ナンマイダか、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とか、そういう声が、薄暗い御堂の中から聞こえて来そうな、そういう気がする。

また、クリスチャンにしてもそうだ。教会の建物自体は洋風であり、日本人から見れば、一つの素晴しい建築でもあると思う。しかし、教会でも、現在は、歌を唄うとか、聖書を読むと、相も変らず二〇〇〇年も、同じ聖書を読んでおるわけである。

二〇〇〇年前に、三十歳で法を説き始めて三十三歳で磔(はりつけ)にあった人間(キリスト)が語ったとされる言行録、弟子が編んだ言行録を、今だに、一字一句読んで、皆んな唱えておるわけだ。どれもこれも、なかなか、明朗な明るい発展という道が、ないように思う。

日本神道系にしてもそうだ。現在では、もはや、カビ臭いというか、陳腐(ちんぷ)なものとなってしまった様に思う。今、神社に行って悟れる人は、いないと思う。

神社に行って見るものは何か。まあ、狛犬(こまいぬ)が二匹座っておる位で、あとは御みくじだの御賽銭(おさいせん)だのを入れる箱があって、鈴か何かが上からぶら下っておって、ジャリンジャリンと鳴らすと、まあ、この辺が終りだな。あと、神道で、他のものと違うとすれば、まあ、柏手(かしわで)を二回ぐらい打つ、と、こういう事だろうな。こういう違いしか、ないと思う。

そして、神主は、何をしておるかというと、一応、神道系の装束(しょうぞく)を着て、烏帽子(えぼし)か何かをかぶって、眼鏡を掛けて、やっておるわけだ。普通のサラリーマンをやりながら、片手間に、やっておる者もおれば、色々だと思う。

ところで、そういった、神社とか仏閣、或いは、キリスト教でもいいけれども、まあ、そういう所を職業として働いている人達を見ると、神社の神主さんの家に、代々不幸が多い。息子が交通事故で死んだり、或いは、不具(まま)の子供が生まれたりする。仏様の方でも、お寺の方でも同じで、なぜか縁遠くなったり、事故が起きたり、病気がちの家庭になったり、色んな事に、なっておる様だ。

こういうのは、本来、聖域であるべき所が、霊的な場所であるというだけで、住んでいる人達の心が調和されていないが為に、色んな悪霊が巣喰っておるのだ。そして、そこに住んでいる人達をも不調和にしていく。こういう所があるようだ。

そして、神社も仏閣も、或いは、キリスト教の方も、何だかんだと、観光仏教とか観光神道とか、そういうふうになってしまって、お金儲けだな、観光客相手の、そういう事になってしまったようだと思う。

神道、日本神道の方では、なかなか、その教えというものが、はっきりと、今の形では残っていないが為に、確かに、多くを要求するのは難しいという面もある。たかだか、祝詞(のりと)をあげる位の事しか伝わっていない。また、禊払(みそぎはら)いという様な事がある、という位しか、分かっていないようだ。

神道系で、少し本格的な動きとして、近代で(地上に)出たのは、例えば、黒住(くろずみ)教、或いは金光教、或いは天理教、こうしたものであったろうか。そして、近、現代だけれども、出ロナオ、出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)、こういう人々の大本教。そして、また、戦後も、色々なものがあるようだ。PL教団とか、何だかんだと出ておる。

谷口雅春が、生命の実相哲学を奉ずる生長の家は、一体、如何なる宗団かと言われると、これも、万教帰一でやっているが為に、一律に、これだと決めつけるわけにはいかないけれども、流れとしては、日本神道系統であろうと思う。なぜなら、指導神、親神様というのが、日本神道の神様であるからだ。そういう事で、神道系と見てもいいかも知れない。

ただ、かつて、日本神道系は、古事記、日本書紀ぐらいしか、その理論的著書が、なかったのであるが、我が生長の家では、一大啓蒙運動となり、文筆によって、様々な思想を、人々に流布(るふ)する事に成功したのである。

さて、私は、今、そういう、仏教、キリスト教、神道、こうしたものが、だんだん形式主義となり、暗いものになって来たという話をして来た。そして、なぜ、そういうふうな形式主義、暗いものになったか、という原因を考えてみたいと思うのであります。

まず、仏教を検討してみようか。仏教が、なぜ、現在のように堕落して来たのか、という事を考えたいと思う。

仏教は、釈迦の時代には、人間が本当に悟るための道、であったと思う。ところが、釈迦没後、二千五百年位たった今日では、悟り、という言葉は、言葉としては、もちろん伝わっておるけれども、人々は、悟りということの、本当の意味が分からなくなっている。そして、特に、悟り、悟りと、今だに言っておるのは、主に禅宗であろうかと思う。

禅宗で、本当に悟っておるのか、というと、これも、結構、難しい問題がある。禅の中には、確かに深いものがある。禅の中で、無門和尚(むもんおしょう)というのが居て、「無門関(むもんかん)」というものを著わしている。そこで、無門という人の悟り得たレベルを、よくよく見てみるならば、結構、高いものを持っていたと思う。禅で、公案の集大成をした人であるという。

ただ、その流れ自体を見てみると、栄西を始め、公案禅の流れは、どうも、形式に堕して来たようだ。

禅は、全く奇抜な問答をすることによって、人間的な知識というものを切り取り去って、新境地を開拓するというのが、その本義である。しかし、平凡な坊主が、禅を教えているが為に、どうも、その森厳(しんげん)の理というものが、なかなか極められないようである。

本当に悟った人が教えたならば、只管打坐(しかんだざ)だろうが何だろうが、それは、素晴しい教えと、恐らくなるであろう。

ところが、悟っておらん人間が指導しているが為に、そうしたものは、なかなか、人間を、本当の方向に導かないでいるのだ。しかし、坐禅でも組みたい、という様な気持ちを持つ、という、つまり、人間が、そういう様な気持ちを持つ、ということ自体は、決して悪いものではないと、私は思う。

さて、今、仏教の暗い面の話を続けておるんだけれども、結局、釈迦が、説き来たり、説き去った教え、には、何百、何千の法門がある。その中に、法華経あり、その中に、維摩経(ゆいまきょう)あり、その中に涅槃経(ねはんきょう)あり、その中に、また、禅の源流となる様な教えもあった。色んな教えがあったのである。

そうした、複合した教えが、釈迦という、一人の悟った人間の中で、渾然(こんぜん)一体となって融合されておったのだと思う。ところが、後の世の弟子達は、師匠ほど優れた人材ではなかったが為に、その全貌を理解することが出来ず、その一端を、それぞれ行じたのに過ぎないのである。

であるからして、例えば、お経というものの本来は、釈迦と弟子との問答集であったのにも関わらず、それが漢訳され、そして日本に持ち来たられると、本来の意味を失ってしまう。つまり、漢語だな、いわば漢語の勉強としてだけ意味を持つようになった。或いは、音読する。とにかく、歌の練習でもしておればよいのだろうが、歌の練習の代わりにお経を読んでおると、喉(のど)は強くなるかも知れないけれども、意味も分からずに、経文をあげておる。

それでも功徳(くどく)があるのだ。或いは、写経をする。それだけでも功徳はあるのだ、と、こういう事を言われておる。しかし、そういう事は、一般的に言えば、何の功徳もないと考えてよい。

もちろん、写経をすることによって、規則正しい生活をするなり、向上心を持つなり、精進する、という姿勢を持つことが出来るがゆえに、それは悪い影響はないであろう。しかし、経文そのものに、それ程の価値があるかと言えば、そうあるものではないと思う。

ただ、漢訳されたお経の中にも、やはり、漢訳した人の力によって、つまり、漢訳をした僧侶達が霊能力を持っていた場合もあった為に、中には、言魂によって漢訳されている言葉も、なきにしもあらずである。

例えば、般若心経(はんにゃしんぎょう)などは、よく読まれており、また、現代でも人気がある様だけれども、これなども、これを訳した人が、霊的な能力を持っておったようで、訳語自体の中に、一つの言魂があるのだ。

あなた方も、今、様々な、神理の言葉というのか、そういう経文のようなものを作って読んだりもしておるようだけれども、やはり、言魂というのがあって、それは綴(つづ)られた文章の中に出て来るのである。であるから、一般に、お経というものは、それほど深い意味があるのではないけれども、中には、そういうものもないとは言えない。とにかく、「仏つくって魂入れず」の諺(ことわざ)があるけれども、外見だけを真似て、中味を知らないのが人間であったと思うのだ。

キリスト教でも、そうだ。現在、キリストの、本当の精神は、忘れ去られていると思う。そして、形式によって行われている。ただ、もちろん、聖書を熟読して、毎週毎週、日曜日に、教会か何かに行って教えを受けておる。その中に、聖書自体にも一つの波動があることは確かで、それに馴染(なじ)んでいることによって、多少の、悟りの、よすがとなることは事実であろう。

ただ、聖書を読んでいても、分からぬ事がある。つまり、イエス様が、現代に出ておったなら、どういう事を言ったであろう、という事が、なかなか分からん、ということだ。今から二〇〇〇年前に、ナザレの地で、漁師達を相手に、法を説いておったわけだから、それ自体は、立派な教えであったとしても、なかなか、現代の文明人達を納得させ、説得するには、少々不足するようである。ただ、イエスという人は、大変、詩人でもあり、言葉が美しい方であった為に、今だに、彼の言葉に、心酔し、影響を受けている人も多いかと思う。

こういう事で、仏教でも、キリスト教でも、その中味が、段々と失われて来て、形式に堕して来た。則ち、例えば、日曜日に集まって聖書を読めばいい、とか、或いは、お寺に篭(こも)って、坐禅を一週間やればいい、とか、そういう形式的なものになって来た。或いは、念仏をあげればいいとか、或いは、写経すればいいとか。そういうふうになって来た。

そして、本来、自由自在であった、神理というものが、いつの間にか、人間の形式的な行動の中に閉じ込められてしまった、と言えると思う。禅をやっている者は、坐らなければ、とにかく悟れない、とか、念仏をやっておる者は、念仏をあげなければ救われない、とか。こうした行為というのは、そうした教えというものは、本来の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の教えから言えば、ほんの一万分の一にも満たない教えであろうと、私は思うのだ。

であるから、私は、今、あなた方にも、様々な真理というものを学んで欲しいと思うのであります。真理を知るとは、どういう事か、というと、目の鱗(うろこ)をはがす、という事なのだ。人間の目には様々な鱗が入っている。自分自身は、色んな事を知っていると思っても、その知っておるという知識自体が、自分を歪める一つのフィルターとなっておるのだ。

キリスト教のみが真実である、と思っている人間は、その鱗の入った目で、仏教を見、神道を見るから、本当の姿が分からない。だから、イエス様によってしか救われない、などと言っておる。

しかし、じゃあ、イエス様以前の人達は、永遠に救われなかったのか。じゃあ、イエス様は、なぜイスラエルにだけ出て、日本だとか、中国だとか、印度(いんど)には出なかったのか。それらの人々を救う意図がなかったのか。そんな事は、恐らくないであろう。イエス・キリストは、ユダヤの民族神では、ないはずである。彼が説いた愛の教え自体は、普遍的な教えであり、人類共通の財産であると思う。

そうではないだろうか。そういう事で、イエスの教えというものも、ずいぶん誤解されている。イエスを熱心に信仰すればするほど、イエスの教えの枝葉末節ばかりに関わって、そして、本当のキリスト教の真理、というものが、人々には分からなくなって来ておる。

仏教においても、そうで、仏教者であれば、キリスト教では救われないとか、神道では救われない、とか言っている。こういう、宗教による宗派の違い、というものは、もちろん、根拠のないものではない。

というのは、やはり、日本なら日本を中心に活躍した神々があり、キリスト系統なら、キリスト教系統で、ヨーロッパ世界を中心として活躍した神々がある。また、仏教系なら、印度、中国、日本と渡って来た神々がある、という事において、魂の系統というのが、ないわけではない。しかし、だからと言って、他宗が全然間違っている、というわけではない、と思うのだ。

特に、キリスト教では、他宗排撃というものが、頑固に、頑強に、現在でもあると思う。他の目から、今、実在界(霊界)に居る私の目から、公平に見て、どの教えが、一番、真理を伝えているか、と言うと、どれも、どっちもどっち、というところだな。

仏教は、本当に、葬式仏教になって、一部の修行者だけのものになって来たようだ。神道は、本当に、金集めばかりをやっているようだ。キリスト教では、人間の生きて行くべき道という事が、まだ学ばれておるようにも思うけれども、ただ、真理という面で、他のものを学ぼうとしない、そういう傾向が恐らくあると思う。

私は、生長の家において、神道、仏教、キリスト教、これらを統合し、これを超える教えを説いたつもりである。なぜ、こういうことをしたのか。その理由を、一言で言うならば、「真理は汝を自由にする」という事なのだ。真理を知る、という事は、手足を伸び伸びと動かすことが出来る、という事なのであります。

例えば、哲学というものがある。現代でも、哲学というものがあって、大学の授業でやっておる。そして、大学の教授なんていうのは、自分が哲学をやっておると思えば、宗教を軽蔑して、ああいうものはインチキだ、と、淫祠邪教(いんしじゃきょう)であって、人を惑わすものだ、と、哲学こそ、本当の人間の理性を追究していくものであって、真理探究の近道だ、と、こういう考えをしておる。

ところが、その元を辿(たど)れば、哲学でも、(地上に)出ている偉大な指導霊達は、皆んな、光の天使であり、教えを説いた、その側面が、ただ仏教やキリスト教と違っているだけである。従って、自らが哲学を学んでいるからといって、宗教を排撃している人達は、結局のところ、真理を知らないんである。

また、仏教をやっているからといって、西洋哲学などを否定している人達は、まだ真理を知らない。結局、知らないという事から、そうした偏狭な心が生まれ、そうした偏狭な心から、争いがある。そして、不調和が生まれておるのだ、と、私は思う。

結局、本当に力を発揮するのは何か、と言うと、真理を悟る、という事であり、真理の全体像をつかむ、という事だ。真理は一つだ、という事を、本当につかんだならば、そういった宗教間の争いは、なくなるのである。これが、なくなる事によって、どれだけ世界が平和になるか、という事を、あなた方は考えたことがあるだろうか。

宗教によって、救われた人も数多いかも知れないけれど、宗教によって命を失った人が数多いことも事実である。そうではないだろうか。特に中近東の方では、イスラム教関係の国家同士の争いが非常に激しい。それも他宗教との争いではなく、イスラム教同士の、スンニ派だとか、シーア派だとか、私は、よく知らぬけれども、そうした派閥同士で、血を流す争いをしている。爆撃をしてまでも、争っている。また、アメリカとソ連との争いを見ても、キリスト教国が、唯物主義の国というのを、要するに叩(たた)き潰(つぶ)そうとしておるのだ。

唯物論というのは、結論から言えば、間違っている。この世は、物だけではない。その裏には、生命の実相、という、偉大なる実相の世界がある。共産主義においても、ユートピアを実現せん、とする、そういう希望が実際にあり、共産主義も、一つの希望の原理であったこと自体は、否めないと思う。共産主義は、全く間違った教えか、というと、その中にある、希望の原理、自体は、間違っておらぬのだ。人々を解放し、そして、豊かな平等な社会を作ろうとする気持ち、そのものは、間違っておるものではない。

ただ、唯物思考という考え方、或いは、暴力礼讃という考え方、こういうものは、明らかに間違っておる。

マルクスは、暴力は、革命の産婆である、と言っておる。つまり、革命という落し子、というか、赤ん坊をとりあげるためには、暴力という産婆が必要なのだ、と、マルクスは言っておるようだ。

しかし、こういう考えが間違いであることは明らかであって、人々が、本当に平和な社会を築いていく為には、やはり、暴力のない世界を目指すべきである。暴力によって、暴力のない世界を目指すということは、それ自体が一つの矛盾である事に気が付かねばならん、と、私は思うのである。暴力によっては、平和な社会は生まれないのだ。それは、革命という美名では、浄化され得ないことである。

例えば、ソヴィエト連邦でロシア革命が起きた時に、人々は、これが自由の勝利だ、と思ったであろう。これからユートピア世界が来るのだ、と思ったであろう。ところが、どうだ。この後の流れは、レーニン以後、スターリン、こういう悪鬼の如き者が出て来て、大量の粛清(しゅくせい)、とかいうのを始めて、色んな人を殺していったのである。

また、中国においてもそうだ。共産主義をやって、その時には、平和な民主主義革命のように装っておったけれども、対立抗争する者達を、次々と粛清していった姿を見れば、それが、一つの、地獄の現われであるという事を否(いな)めないであろう。

それは、やはり、マルクス自身にも責任があった、と、私は思う。つまり、暴力によって(生まれる)平和な世界がある、平等な社会がある、ユートピアが来る、という思想自体が、間違っておるからだ。暴力によっては、ユートピア社会は来ない。

本当のユートピア社会を作る為には、良き言葉の創化力を使いながら、人々が、お互いに、光輝いていく方向で生きていくべきなのだ。そうでなければ、本当の意味のユートピアは、出来るはずがない。

例えば、こうした唯物主義、或いは、キリスト教国を語っておるアメリカ帝国主義、或いは、イラン、イラクなど、イスラム社会の抗争、或いは、また、キリスト教、仏教、神道という、こういう教義の争い、こういうのを見ておると、結局のところ、真理とは何か、という事が分かっていない。これだけだと思う。

それぞれ、自分の信ずるものだけが正しい、という頑固な思い込み、これによって、争いが起きているのではないか。

釈迦が思っていた様な、広大無辺な思想は、普通の人は抱けない。また、イエスが思っておった大きな教え、というものを(普通の人は)理解することが出来ない。その為に、自分に都合のよい教えだけを取って、そして、それでもって他宗を排撃する。これが、人間の愚かな所だけれども、心が狭い、というよりは、そういう事を、つまり、真理を、理解するだけの容量がない、と見るべきなのだ。

また、今後、大きな教えが説かれていくのだろうけれども、この教えも、また、大き過ぎて、後の世の人々を、全て吸収することは出来ないだろう。そこで、また、幾つかの派に分かれていく。これは、ある意味では、やむを得ない流れだろう、と、私は思う。

さて、私は、真理を知らないという事、これが争いの原因だ、という事を言って来た。

実際、人間は、ずいぶん、言葉づらに執われているのである。神様の呼び名を、お父様、お母様というふうに考えれば、キリスト教系では、それを、パパ、ママと呼んでおる。仏教系では、それを、お父様、お母様と呼んでいるかも知れない。ところが、神道系では、父上、母上と呼んでいるかも知れない。じゃあ、父上とパパは違うのか。お父様が違うのか、と言えば、同じ人なのである。これを、呼び名が違うから違う、と思っている。

片や、アラーの神、というアラーがあったり、エホバがあったりしている。片や、また日本では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)とか、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)とか、こういう方が居たり、中国では、孔子の教えでは、天帝、天の御帝というのがおる、とか、色んな事を言われている。

これを、皆んな別のものだと思っているようだが、決して、別のものではなくて、実際は、神そのものでなくて、神近き高級霊の事を指しておるのである。そして、天上界では、彼らは皆んな友達であり、知り合いである以上、それぞれのお弟子さんの信仰は、違うものであっても、お弟子さん同士の争いの原因が、無知に起因することを理解し、他宗教の高級神霊をも礼讃する気持ちが、彼らにあってもいいはずである。まず人間は、この事を知らねばならぬ。

今、様々な宗教の、高級霊の霊言というものを世に送っているようだけれども、これも、また、万教は一つであり、同根であり、一つの神から分かれて来た教えである、という事を、理論的に実証しようとする動き、なのである。

そういうことで、あなた方が、今後共、何十巻も霊言集を出していかれるという事は、大変意味のある事であろうと思う。そうすることによって、人々は、やがて、それを否定出来なくなって来ると思うのである。そうしたことが事実である、ということを、やがて否定出来なくなって来るであろうと、私は思っている。こういうことが、「真理は汝を自由にする」ということであって、真理を知ることによって、宗教を学んでいる者達を自由にするのである。

ただ、この、真理は汝を自由にする、という事を、間違ったふうに捉えてはならぬと思う。真理は汝を自由にするからといって、間違った教えを堂々と説いていいか、と言えば、そういう事ではない。それは、明らかに違っていると思う。

私は(生前、生長の家の活動において)他宗排撃ということは、基本的にはやらなかった。あなた方に対しても、基本的には、同じ態度をとられるのが、賢いと思うけれども、しかし、時には、例外の場合も、あると思う。あなた方の所に教えを請うて来ている者が、明らかに間違った教え(を持つ団体)に所属している、こういう事もある。こういう人に対しては、それは、ちょっと違っている、と、教えてあげるという事は、好意であろう。

真理は一つであり、万教は一つなのであるけれども、ただ、これも、正しい教えも間違った教えも一つである、という意味ではない、ということだ。これを間違ってはいけない。

教えの中には、両立しない矛盾、というものが、あると思う。その、矛盾している点は、やはり、どこか間違っている所と正しい所があるのだ、と、この矛盾点そのものは、見逃してはならぬ。清濁(せいだく)合わせ飲むという器量は大変大事であるけれども、清濁合わせ飲むだけで、濁りを、いつまでたっても、濁りとして認めているようでは駄目であって、やはり、清の方が浄化していかねばならぬ。濁りをも浄化していく、そういう必要があるのではないだろうか。

こういう事で、あなた方が、もし、宗教をやるとするならば、仏教をやれば抹香臭くなり、キリスト教をやればアーメンばかり言って、懺悔の思想とか何とかいって、暗くなって来る傾向が多い。

人間を暗くする様な宗教は、私は、どこかがおかしい、と思う。宗教というものは、本来、人間を幸せにするはずだ。本来、人間を幸せにする宗教が、それを学ぶことによって人間を暗くする。これは、何かの誤りがあるのではないか。私は、そう思う。

キリスト教でも、罪の思想、があるし、仏教にも、カルマの思想、がある。こうしたものが人間を暗くしておるのだ。キリスト教では、何で自分がこんなに不幸なのか、と思えば、結局は、アダムとエバが犯した原罪によって不幸なのだ、と。仏教系で、今世に、何でこんなに不幸なのか、と思えば、きっと、これは三世の縁であって、過去世の業(ごう)に違いない、という、こういう思想を持っている。

業というものが、ないかといえば、ないわけではない。作用、反作用という法則は、厳然としてあるし、また、過去世の生き方が今世の生活環境に影響していることも、これも、また事実である。ただ、業はあるけれども、業に振り回されてはならん、という事も、また事実なのである。

例え、過去世において人殺しを犯しておろうとも、今世で、また人殺しを犯さなければならない、という理由はない。ショーペンハウアーという哲学者がおって、「盲目的意志」とか、言っておる。人間は、盲目的意志によって動かされている、と。従って、これは、仏教の業の思想だろうと思うけれども、盲目的意志によって生きておるのだ、と。どうしようもない所があるのだ、と、こういう事を、彼は言っておる。しかし、人間は闘牛の牛ではないから、赤い物を見たら飛びつく、という様なものであってはならぬ、と思う。

過去世の業があっても、それを乗り越えて行く様な人間でなければならぬ。

今ある仏教の一派では、釈迦の原始仏教の、はっきり言ってしまえば、阿含経(あごんきょう)というのを、根本教典にして、A宗などというのを立ててやっておるのが、どこかにおるようである。京都かどこかに。

こういうものに対して、私は、一言、言っておきたい。

何というか、まだ、こういう考え方というのは、学問的な考え方に偏(かたよ)っておる。

釈迦が、色々と説いたお経の中では、阿含経が、最初に説かれた教え、という事になっておるけれども、最初に説いた教え、だから正しい、とか、後のものは弟子が作ったから間違いだ、とか、こういう事を言うておる様だけれども、そういうものではない、という事である。

人間というものを、何というか、そういうふうに、一つの教えに縛(しば)りつけてしまう。こういうのは、私は、非常に、間違いだ、と思うのであります。

この教団では、人々は、さっき言った、業を背負っておるとしておる。業というのを、ここでは、因縁(いんねん)と言っておる様だけれども、因縁というものを持っておれば、この因縁を断たねばならぬ。父母の因縁を断つ、だとか、或いは、兄弟の因縁を断つ、だとか、或いは、失恋の因縁を断つ、だとか、何だかんだと言って、銭儲けをしておるわけだ。

因縁を断つ行法、というのを教えて、これで三年間やれば、両親の因縁を断てる、とか、こういう事を言っておるようだ。例えば、両親が非常に貧乏であった、とか、このままでいくと自分も貧乏になるんじゃないか、と、そういう事で、両親の貧乏の因縁を断たねばならぬ、と。こういう事で、何とかというお経を唱えて、三年間か何か、数珠(じゅず)を揉(も)んでおれば、因縁が断てる、なんて言っている。

こんなのは、はっきり言って、何も分かっておらん、と思う。

因縁というものは、ないとは言えないけれども、それは、先程言った、作用、反作用の連鎖であり、ある意味では、カルマであろう。

ただ、これを断つには、逆の事をやっていかねばならん、ということだ。

つまり、過去、不幸な人生を生きていたのならば、どこかで、幸福な人生を歩むように、切り換えていかねばならんのだ。それは、そうした経文を読んだり、数珠を下げたり、坐ったりすることによって、断てるものではない。百日坐ったから、千日坐ったから、なんて、そんなもので切れるものではない。

そうではなくて、過去、罪深いことをして来た人間であるならば、その因縁を切り、その業を断つ為には、今世で、いい事をするしかないのである。お経を読んだり、数珠を持って、数珠をちゃらちゃらさせながら千日坐ったからといって、切れるわけは、絶対にない。

こういうのは、邪教というのだ。間違っている。

人間は、過去、誤った宗教で迷ったならば、今世において、正しい宗教を修める以外には、ないのである。これ以外にないのだ。

因縁を切る、という方法は、この、因縁を断つ方法は、一体何かというと、これは、一つの光明思想であると思う。

人間は、例えば、キリスト教で言う様に、原罪を負った存在、罪深い存在だということで、連綿として生きて来た。こういう形で、いつまでたっても、子供の代になっても、孫の代になっても、原罪を背負って生きていくのが人間であるならば、人間は、その業を、カルマを、断ちようがないではないか。どうやって断つというのだ。

それを、これを断つには、人間、罪の子、の思想を改めて、くるりと、思考を一転し、光明の方に向くしかないのだ。

過去が不幸だから、といって、なぜ、現在も不幸でなければならんのか。それを、よくよく、あなた方は考えて欲しい。昨日の不幸を、なぜ今日に持ち込むのか。なぜ、明日には、悪い事ばかりが起こると思うのか。あさっては、もっと悪くなると思うのか。病気をすれば、増々悪くなる一方だ、と思うのか。

こういう、思い、というものは、一つの慣性であろう。そういう惰性であろう。私は、これを、一つの因縁とするならば、これを断ち切る為には、心を、光明の方向へ向ける、しかないと思うのだ。

要するに、日時計主義、の生き方です。日時計というのがあるけれども、札幌か何処かにも、花時計とかが、あるけれども、日時計というのは、太陽が出ている時、だけしか、時を刻まないのだ。日時計というのは、闇の時間を刻まない。太陽が出ている時しか、時を刻まない。

つまり、人間というのも、この日時計主義で、やっていかねばならんのだ。

我、太陽の時刻のみを標す。そういう事で、明るい事のみを心に刻んでいく、という事が、大事なのではないのか。

罪の子である、とか、業に翻弄(ほんろう)されている、とか、両親だとか先祖の因縁によって自分が縛られている、だとか、こういう、悪しき宗教信仰によって、自分自身を縛ってはならんのだ。そういうものは、本当に、拭い去って、捨て去る。

そして、ただ今から、自分は、明るく生きていく、という事を、まず、一大決意することだ。

これが、因縁を切る、カルマを断つ、一つの方法なのである。そして、今日ただ今、それを決意したのならば、今日、ただ今から、自分は、心の中に悪を刻まない、と、刻むまい、と、はっきり心に誓うことだ。

結局、この世で生きているうちは、色んな事が起こる。良い事も、悪い事もあるだろう。地獄に行っている人とは、どういう者たちか。結局、人が、自分にしてくれなかった事、人の(自分に対して)悪かった事、ばかりを心に刻んだ人達が、地獄に行って、今、呻吟(しんぎん)しておるのだ。地獄では、心にいいことばかりを刻んだ人、など居ない。

そういう事で、一日の内でも色んな事が起こるであろうけれども、悪い事は小さく(捉え)、そして、(心の中から)洗い流していくことだ。

そして、良い事が起こるのは、きっと、神様が自分を愛していて下さっているからだ、と思うことです。良い事が身に降って来たのなら、それに対しての感謝行をしていく。そうすれば、さらに良いことが来るであろう。また、良い事をしていく。それが、さらに良い事になっていくであろう。こうして、人間は、発展しかない生き方をしていくのだ。

ところが、今日、悪い事があったとする。それを、今日、一生懸命、一晩考えてしまうと、夜寝られない。翌日も寝られない、と。こうして、悪い事ばかりをひき継いでいけば、永遠に、明るい人生を生きることは出来ないのである。

悪い事は小さく受け止め、それを流し去れ。そして、良い事のみを心に刻んでいけ。そういう日時計の様な生き方のみが、人間を本当に幸福にする道であります。そして、そういう生き方こそが、人間を幸福にするのだ、ということを悟る事が、「真理は、汝を自由にせん」という事なのだ。

古き宗教の、因習に執(とら)われ、教えに執われ、自らを不幸にすることなかれ。

人間は、本当の真理を知った時、日時計の様に、太陽の輝く日のみを、時間のみを、我は刻す、そういう人生を生きることが出来るのだ。ここに至って、初めて、人間は自由自在となり、明るい人生を生きることが出来るのだ。

そして、その生活は、また、天国にある生活であり、あなた方が、あの世に帰った時に、その様に生きていく為の準備でもある、という事なのだ。この事を忘れてはならない。

どうも、長い間、私の話を聞いて頂いて、ありがとう。

もし、もう一度、さらに、再、再度、谷口雅春の教えを聞きたい、という声が、高まってくれば、また、時期をみて、出さないでもない。そういう時には、協力を惜しまない。

以上であります。

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