スポーツについて考えるとき、そこには大きく分けて、二つの違った在り方があることに気付く必要があります。一つは、体を動かすことを、単に自分で楽しむ為のもの、もう一つは、いわゆる競技ですね。体を動かしたことを、得点というような、評価に変え、それを競わせるものです。
後者の、競技というのは、具体的な行為としては前者と同じですが、それを点数なりの評価の形式にして、他の人と競い合うもので、殆んどの場合、現在のスポーツは、この競技としての形で行われ、私たちは通常、そのことを何の疑問もなく受け入れ、実行し、あるいは見物しています。
ところで、その、競技、という現代のスポーツの在り方ですが、果たしてそれは、本当に有意義な当然のこと、なのでしょうか。
子供の頃、みんなで縄跳びをした事があります。男の子も女の子も入り混じって、長い縄で楽しく跳びました。けれども、その時には勝ち負けもなく、みんなで一緒に跳ぶことが只々楽しく、それだけで十分だったものです。
いつ頃から人は、体を動かす事を、得点、勝ち負けで評価するようになるのでしょうか。
サッカークラブにいた事がありますが、サッカーというスポーツの要素は、攻撃、守備、邪魔、奪い合い、ごまかし、まあ、フェイントですが、こうしたことが殆んど、つまり対戦相手に対して究極的に不親切な訳です(苦笑)。当然ですね。相手に親切にボールを渡していたら、簡単に負けてしまいますから。これは、ほかの球技も同じですね。
ただ、これらの行為、つまりプレーですが、いままでご説明してきた趣旨からしますと、とても波動レベルが低いわけです。なぜ楽しかるべきスポーツが、こうした苦痛に向かうエネルギーに満ちていなくてはならないのでしょうか。
あるいは、考えても見てください。オリンピックで優勝した人と、しなかった人と、どれだけの身体能力の差があるのでしょうか。なぜ、参加者が、楽しく腕前を見せ合って楽しむだけではいけないのでしょうか。
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