ちょっと古い例になりますが、キリストが、十字架に架けられた時に、父よ、この人たちは自分たちがしていることが分からないのです、と言った、というようなお話がありました。つまり分かっていれば、そんな事はとても出来ない、という含みがあるわけです。
これまで、ご説明してきたことを理解されているならば、このキリストの言葉がご納得いただけると思います。これは、キリスト教という宗教とは、全く無関係に言えることですね。
まず、宇宙の法則ということがあります。作用反作用の法則です。相手にしたことは、いつか自分に返ってくる、ということでした。
それから、地球が設けられた経緯ということもあります。それは、地球は楽しく皆んなで過ごす体験ゾーン、ということで、宇宙中の存在の協力で作られてきた場所だということでした。本来、人を裁いたり、管理したり、殺し合ったりするための場所ではないということです。そこへ、入れて下さい、と申し込んで許可を得て過ごしている、ということです。
つまり、地上で誰か人に対して、暴虐的なことをすること自体、全く割りに合わず、後で自分がかえって苦しむだけの、破滅的な行為であることは明白なわけです。ですが、宇宙の法というもの(意思の自由)があるので、行動自体は許される、ということですね。
それでも、なぜ、その古い時代から今日までも、戦争やテロなどを起こす人々、そして、それを裏で操るようなことをする存在までいて、そうした悲惨な出来事が続いているかというと、それらのことが、自分にとって有用である、という認識を持つ人々がいるからでしょう。
その認識というものは、この今の、自分に見える世界、目の前にある現実だけが全てだ、というごく限られたものですから、いまのこの世界を思うように使って、欲望のままに行動してしまう、ということになるのではないでしょうか。
ところが、真実はそうではないということで、これまでたびたびご説明して来ました。キリストは、霊界の指導的立場にある霊人であり霊能者ですから、そのことが分かっていた、ということですね。
ですが、私たちにも、それを知る術がないわけではありません。例えば、物欲、金銭的利害、権勢欲、服従、そうした先行き自分を苦しい状況に追いやる、低いエネルギーレベルの視野から、自分を引き上げるエネルギー(想念)としては、善意、良心、誠実さ、などを自分の行動の動機にしていくことが、月並みなようですが、ものごとに対する認識を拡げていくのではないでしょうか。
認識を改(新た)める、という言葉がありますが、それはアセンションを待つまでもなく、早い方がいい、...そんな風にも思います。
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