日本は、フィリピン、マレー、ニューギニア占領などの第一段作戦を終えて、石油資源の確保という開戦の目的の一部を達成すると、特に海軍は、何をしていいか分からなくなったことと、順調な作戦経過から、無駄な作戦を行うようになった。英東洋艦隊撃滅と称して、インド洋に南雲部隊を派遣して、わざわざおんぼろ空母のハーミスを滅多打ちにして得意になっていた。肝心の東洋艦隊そのものは取り逃がしたのである。
第二段作戦のヒントはアジア諸国の独立である、と「真珠湾攻撃異見」に書いた。実は倉山満氏の「負けるはずがなかった大東亜戦争」に同様なことが書いてあったので、これをフォローしてみよう。ただし、倉山氏は真珠湾攻撃はすべきではなかった、というのが基本的考え方なので、前段で相違があることは一言しておく。繰り返すが小生は、日露戦争の開戦で旅順艦隊の撃滅を考えた如く、ハワイに米太平洋艦隊の根拠地となった時点で、何らかの方法で真珠湾対策は考えずにはいられなかったと思う次第である。
その点だけ一言する。確かに、日本の艦艇は、小笠原沖やフィリピン沖で米艦隊を迎撃するのが基本戦略だから、航続距離は米本土から進出する米艦艇に比べ余程短い。ハワイを併合した時に、日本は艦隊を派遣して抗議の意思を示した位だから、将来ハワイが米国のアジア進出の拠点となることは明白である。とすれば、その時点から対米戦略としては、ハワイの無力化、と言うことを考えて艦艇のスペックを考えなければならなかったはずである。無力化とは、色々な選択肢が考えられるであろう。思い付きを書けば、真珠湾を艦艇で直接攻撃する以外にも、機雷封鎖なども選択肢としてはある。
閑話休題。倉山氏は、まず石油確保のためだから、オランダを攻めればいい(P188)というのだが、そうは問屋が卸さない、と知っている。「百歩譲って、シーレーンの都合上、フィリピンを取るのは仮にいいとしましょう。それならそこで待ち構えておけばよかった。ハワイ攻撃をやったものだから、余計な戦力を削いでフィリピン全土制圧が遅れています。」(P189)というように、フィリピン攻略は避けられなかったのであろう。
確かに首都ワシントンに攻め込むことができぬ日本は「ベトナム戦争の時のように、アメリカに音を上げさせることをやらなければいけませんでした。」(P190)というのが唯一対米戦に勝つ道であったと思う。
そこに繋がる道として「とにかくイギリスを一瞬でも早く降伏させるしかありませんでした。」(P206)というのも正解であろう。そのためには、インパール作戦を早期にやっておき、プロパガンダとしての「大東亜会議」も同時にしておく必要がある(P206)という結論には同意する。希少本に属するが大田嘉弘氏の「インパール作戦」によれば、実際に発動した昭和十九年の時点でも、英軍将校自身が相当に苦しめられたことを認めている。
ビルマ制圧後早期にインパール作戦を発動していたら成功したことは間違いないであろう。そこで倉山氏の説にいくつかの疑問を出しておく。ただし小生も確信がないのだが。まずインド独立や援蒋ルートの遮断で英国が敗北し、蒋介石との講和も成立したかどうかである。軍需産業がないのにベトナムが戦えたのは、特にソ連が無制限に軍事支援したからで、戦争が延々と続いた結果、米国が逃げ出したのである。
日本には軍需産業があったし、兵士の士気も高かった。だが問題は米国を厭戦に持ち込むだけの継戦能力があったかである。それには、シーレーンの確保や本土爆撃をされないだけの占領地の確保が出来たかである。日本は北ベトナムのように外部からの軍需物資の支援は期待できず、米国が厭戦気分が蔓延するまで、自前で軍需物資を生産しなければならないのである。
以上の疑問は問題なかったのかも知れず、何とかなったのかも知れない。だが倉山氏の立論の前提の日本陸海軍が強かった、ということには最大の疑問を感じるのである。ノモンハン事変などで機甲部隊を動員したにも拘わらず、戦闘ではソ連は勝つことができず、スターリンは最後まで日本陸軍を恐れていて対日戦に踏み切れなかったという、倉山氏の指摘は事実であろう。昭和十一年の時点では、主力艦の大口径砲弾の命中率は日本が米国の三倍あったと言う黛治夫氏の指摘も読んだ。
陸軍の三八式歩兵銃は旧式なボルトアクションで、自動装填の小銃を使っていた米軍とは火力が比べ物にならない、というのも迷信で、ノルマンディー作戦の時ですら米軍も自動装填式は行きわたっていたわけではない。九七式中戦車にしても制式採用当時は装甲厚さや砲の威力にしても、世界水準はいっていた。ドイツ軍のⅠ号戦車などは20mm機関砲しかなかったのである。
というように軍隊の士気ばかりではなく、ハードウェアを含めた総合戦力で、日本軍はある時期まで強かった、と言える。しかし小生が問題にするのは、特に海軍に於いては米国が戦間期にカタログデータに見えないところで、長速の進歩をとげていたことと、同様に独ソ戦が始まる少し前からの、ロシア陸軍の装備の格段の改良である。また海兵隊も日本陸軍を手本に、相当の強化が為されていた。
特に米海軍とは直接戦っただけその差の影響は大である。何度も書いたが、日米の差はレーダーだとか、VT信管だとかいう特殊な兵器の差ばかりが強調されるが、実際には見えにくいところ技術の差が、開戦時点では広がっていったと思わざるを得ない。
別項で述べたような射撃指揮装置による防空能力の差は隔絶していた。艦艇が被害を受けたときの消火装置などのダメージコントロール、各種の無線機などなど、カタログデータに表れない、潜在的な技術の差である。例えば日本海海戦当時は軍艦自体のシステムも単純であって、電子機器もほとんどなかった。
これらについては、第一次大戦から第二次大戦の間に相当に発達し、複雑化していったので、日本の努力も相当あったのだが、目に見えにくい分だけキャッチアップが困難であったろう。また、素材である鋼材自体にも当時の日本の技術は劣っていたから、同じカタログデータの砲弾、爆弾、装甲でも性能に差があった。爆弾の日米の差については、兵頭二十八氏が「日本海軍の爆弾」で論じている。
もちろん特殊鋼に使う希少金属の不足と言うハンディもあった。また、日本は予算の不足から艦砲、装甲、魚雷と言ったカタログ上目に見えやすい兵器の研究に予算と人材が配分された。そのため、これらの主兵器をサポートするシステムの研究開発は後手に回り、兵器のシステムが複雑化すると、差は広がっていったと考えられる。
特に米国の進歩は大きかったように思われる。マレー沖海戦でも相手が米戦艦であったら、例え防空戦闘機がいないにしても、あれほどの戦果は挙げられなかったと思われる。軍事技術の専門家ではないので、実例を多く挙げられないが、カタログデータに表れない、日米海軍の技術力の差は相当なものであったと言わざるを得ないと思う。この差を考えたら長期戦になった場合には、生産力ばかりではなく、技術力の差も出たのに違いない。
こんなことをくどくど言うのは、倉山氏の前提が、士気、技量、兵器の質など総合的戦力で日本は米国より強かったことであるように思われるからである。少なくとも、第一次大戦直後の陸海軍の兵器システムが、質はそのままで、量的に拡大しただけの兵器体系を前提に、日本軍は強かった、と言っているように思われるのである。