洋画の技法のひとつとしてのデッサンは、対象の形状を正確に表現することが主眼であって、見たとおりに描くのではない。言葉の遊びではない。デッサンの初歩に使われる三角錐の石膏を例に取る。教科書はまず学生に対象が三角錐であることを確認させ、陰影を使って円形の断面であることがわかるように描くことを要求する。実際に光の当て方によってそのように見える場合もあるに違いないが、希である。学生は現実に見ていない円錐を空想で補って立体感をつけなければならない。
円錐形はごく単純なので分かりにくいかもしれない。富士山を例に取る。富士山の基本は円錐形である。これを表すのに西洋画はデッサンを基礎とするのであくまでも円錐形の立体感があるような形状を基礎として、これに詳細な凹凸をつける。北斎の富岳三十六景の富士山はほぼ完全な平面である。少年時代、毎日富士山を見ていた私が言う。西洋画の富士山はグロテスクである。浮世絵の富士山の方が見たままに近い素直な表現である。
実際は円筒形であっても、必ずしもそのようには見えていない場合が多いのである。夕方旅客機が羽田に着陸する直前に逆光の中に富士山を見た。かなり小さかったが、周りの景色の中に突然紙を三角に切り抜いたような富士山が見えたのである。日本画の表現力がなぜすたれたか。これは西洋画を知ったからである。西洋画は対象の形を立体感をつけて正確に表現する。これを見たままと誤解したのである。
そこで日本画は見たままを描いているということを忘れて、平面的に描くものだと誤解した。そういう無理な意識が日本画の表現力を低下させたのも一因である。日本画は見たままで、西洋画は無理に立体感をつけているという表現は必ずしも正しくはない。西洋の景色、人の顔をより正確に表現するためにはデッサンの基礎が有効である。日本のそれには浮世絵その他の日本の伝統的な絵画の手法が有効なのである。すなわち技法は対象によって、育まれていった。
雪舟の伝説を想起するとよい。雪舟が折檻されて足で書いたという鼠は本物そっくりで、今にも逃げ出しそうで皆を驚かせたという。当時の日本画の理想は写実であることを立証している。現在の日本人が雪舟の日本画に風雅を求めるのは、少なくとも同時代人にとっては見当違いである。いずれにしても、洋画の基礎技法としてのデッサンは、見たままの表現ではない。
西洋画を成り立たせるための1手法である。西洋人は科学技術を発展させたのと同じ論理的手法で、あたかも普遍的であるように誤解されるデッサンと呼ぶ手法を開発した。歌川国芳のデッサンと呼ばれる線描画が残されている。これが本来日本のデッサンと呼ばれるにふさわしい。