ハワイと満洲については、各々アメリカと支那により侵略されたことを描き、支那に関しては排日の実相と原因について述べている。アメリカは、東洋進出のための基地としてハワイを併合した。併合の手続きは手が込んでいる上に複雑である。多くの米国人を送り込み経済と行政を牛耳った上で、王政を廃止独立を宣言した後に米国併合を申し出る、という訳だ。バルト三国の侵略のように軍事力で威圧して併合を申し出させるという直截な手段に比べると対照的である。
ところがいったんは併合を承認しながら、大統領が変わると否認するが、結局は併合する。「強硬論があるかと思うと、リベラルな論もある。・・・ただし国内調整のための正論の登場は最初の国家意思を変えることなく、ひと皮むくとそれが、“仮面”にすぎなかったことも次第にわかってくるのが常です。」(P64)というのである。専制独裁ではないから、ソ連のように直截にことは運べないから、異論は言うだけ言わせて結局は国家意思を通す。この欺瞞には日本も日米開戦で大いに使われていて、あたかも米国に対日開戦の考えなど無く、無謀な戦争に日本自ら突入したという考え方の補強になっている。
ハワイ王家が断絶されて最後に併合されてしまった運命を見て「もし、天皇家が無くなり、精神的支柱を失ったら、日本は本当にアメリカの州のひとつにならざるをえないような事態に追い込まれるでしょう。ハワイと同じように、アメリカの軍事力に支えられているという・・・」という。当然であるが重い指摘である。だからアメリカは皇統が断絶するように長期スパンの仕掛けをしたのである。
満洲についてである。「・・・支配階級として北京にいた満洲人はどうなってしまったのか?私は満洲研究家の専門家にそれを尋ねたことがあります。すると、「まったくどこにいったのかわかりません。ちりぢりになってしまいました」という答えが返ってきました。要するに、侵略して民族浄化のようなことまでしているのは中国なんです。」(P160)という。この発想の転換は面白い。西尾氏は満洲人が北京に行ってしまい、希薄になってしまった所へ、封禁が解かれロシアや日本のおかげで支那本土より平穏だった満洲に大量に流れ込み、あたかも漢民族の土地であるかのようになったことを侵略と言っている。
そして共産党支配が始まると満洲人を強制移住させてしまい、他民族のなかに埋もれさせて民族の痕跡をなくしてしまったことを民族浄化と言っている。一面その通りであろう。元々外国であった土地に多数乗りこんで圧倒的多数になったから、俺の国のものだなどというのが通ったら侵略は簡単にできる。今満洲族であると自称するのはようやく増えて1000万人程度であると言われている。中共政権ができた当時は迫害を恐れて自称しなかったが、今はそれを恐れる必要が無くなったのだというのだが、支那北部と満洲にいる人たちは北京語すなわち満洲語を話す。この人たちは間違いなく満洲人と満洲化した漢民族である。満洲人は消えていなくなったのではない。西尾氏は言語は民族の根幹をなす、という考えのはずである。
隋も唐も支配者は漢民族ではない。それならば、当時の支配民族はどこに行ったのだろうか。漢民族の中に埋もれたのであろうか。そうではあるまい。清朝の直接支配した北京と満洲が満洲人と満洲化した漢民族の生息地であるように、漢民族を自称しながらいずれかの言語を使い、どこかの地域に棲息している。本来の漢民族は五胡十六国の時代に絶滅に瀕し、少数民族に落ち込んだ。今漢民族と称している民族のほとんどは、漢民族絶滅後支那大陸に繰り返し侵入した民族が支那本土に定住したものである。侵入は何回も繰り返された。だから漢民族と呼ばれる人々は、広東語、北京語、福建語、上海語その他などの多数の異言語を話すのである。これら言語の相違する人たちは同じ漢民族ではなく、出自が全く異なる人たちである。これらの過程はローマ帝国崩壊以後、ゲルマン民族大移動や、ペルシア帝国の支配などを通していくつかの言語の国家に分裂したヨーロッパにそっくりである。相違するのは適正規模の国民国家に収斂しなかったことである。
辛亥革命が成立してからは、支那は対外的には中華民国という政府があったことになっているが、実態は軍閥の分割支配する状態で、それも一定していたわけではない。例えば昭和3年に暗殺された張作霖のある時代は、例えば満洲から北京にかけては、張作霖、揚子江上流は呉佩孚、馮玉が西安の奥の支那北西部、大陸南方には蒋介石の国民党軍(P177)といった具合である。注意しなければならないのは、軍閥の意味である。日本の近代史では「軍閥支配」などといって、国軍である軍部の事を言っている。
しかし支那の軍閥とは事実上の私有の軍隊のことであり、悪く言えば匪賊である。パールバックの大地には金儲けが目的で、個人が「経営」する軍隊に入る若者が描かれている。清朝末期には清朝の軍隊が衰弱して支那国内が乱れたので自衛のために農民などが武装集団化したものが、統廃合を繰り返して規模が大きくなっていったものである。共産党政権になっても国軍というものがなく、共産党の軍隊となっている。ところが、軍管区に分かれていて軍事ばかりではなく、徴税したり農耕したりでかなり自活的である。そこで欧米では軍管区が軍閥化しているのではないかと見る向きがある。そのため、天安門事件が起きた時などは、各軍管区が独自の行動をとり、北京政府と敵対するのではないか、ということが注目された位であった。
植民地について「・・・植民地主義というと、悪いことの代名詞のように今はいわれています。しかしイギリスが世界に率先して進めた『近代植民地主義』は、元来は一種の解放の理念でした。後れた民族を生活指導し、近代化を推進し、文明のレベルにまで引き上げてあげ・・・イギリスは最初そういうことをいっていたのですが、実際には遅れた国々を隷属させ、そこから搾取することになってしまった。イギリスだけでなく、フランス・・・みな、そうです。ところが日本だけは、当初のイギリスの理念に近いことを実行したのです。」(P243)というのであるが、これは黄文雄氏の考え方に近い。
それどころか黄文雄氏は、イギリスが香港をまともなところにしたように、植民地主義の理念がかなり実現された場合がある、と主張している。香港を例に挙げると正しいかもしれないが、他の大部分では理念倒れになっていると言わざるを得ない。支那大陸のように何千年たっても民度が向上しない地域については当たっている面もあったのであろう。それとて搾取が目的で近代化は結果に過ぎない。アフリカのようにまだ部族社会であった地域が植民地支配された結果は、国家が成立しない古代以前の状態にいきなり近代文明を持ち込んだから、自然な進歩が阻害され、混乱を引き起こした結果になったのが大部分である。部族社会に殺傷効率がいい近代兵器を持ち込んだものだから、部族間の争いは凄惨なものになったのである。部族社会の時代には、殺傷効率の悪い兵器で穏やかに闘い、何万年もの時間をかけて部族統合から統一国家に自然収斂するのが本来の姿であるが、西欧の介入はそれを阻害した。アフリカの混乱の原因は欧米による植民地支配の結果である。アジアアフリカの現在の混乱は、欧米が介入した時点における現地社会の進化の程度が遅いほど大きいのである。
がっかりしたというか、納得したのは、宮崎市定である。宮崎の中国の通史を読んだことがあるがどうも中国の実際の姿が見えないきれいごとのように感じていたのだが、権威に押されていたのだろう、批判する気になれなかった。西尾氏は簡単に、中国大陸には蠅一匹いない、毛沢東の革命は成功したなどという「・・・デタラメをバラまいた張本人のなかに吉川幸次郎や宮崎市定や貝塚茂樹といった名だたる中国研究家がいた・・・」(P286)と言ってくれた。宮崎も底の浅い中国礼賛者のひとりに過ぎなかったのだ。
満洲は本当に独立できるのか(P358)というタイトルは重いテーマである。ある雑誌の増刊号である「満洲事変の経過」という本の末尾に長野朗という人がこの問題を考えている。それには「もし、支那本部が強力なるものにより統一された場合にはその力は満洲に働きかけてその独立を困難にするから日本が絶えず実力を以てこれを防いでゐなければ独立は保たれないが、支那の時局が各地分立に向ふならば、満洲の分立も亦容易となる。(P358)」とある。
この考察に西尾氏は注目している。多くの識者は満洲事変は昭和8年の塘沽協定で終わったと考えているがそうではなく、長野氏は「もう少し深く、シナ本土と満洲はほとんど一体だと考えていたようですね。(P359)」というのである。つまり満洲は封禁が解かれて漢民族が流入し、漢民族が満州族を圧倒するようになったとき、満洲は支那本土と一体になってしまったと言うのである。現に蒋介石が支那本土をほぼ統一した時点でも、日本が満洲を守っていたうちは独立していたが、引き上げて国共内戦で毛沢東が統一したとたんに、満洲は支那に吸収された現実が長野氏の先見の明を示しているというのだ。日本のバックなしに自然体で満洲が独立するのは、支那本土が小国に分裂するしかない、という見解は悲しくも事実であった。当時の世論は、支那本土の状況にかかわらず満州国独立を支持していて、長野氏のような冷徹な考察は例外であったから、いくつかの論文の最後に控えめに載せられていたのである。このような異論を許容していたのも戦前の日本であった、ということにも注目すべきである。