高志の国文学館に続き、今度は、富山城の中にある、富山市郷土博物館へ。
「佐々成正の悪評を広めたのは加賀藩か?」という企画展をしていたので、行ってきた。
織田信長の時代、富山城主だった、佐々成正。
「武者の覚え」と称えられた佐々成正には、「小百合伝説」によって、猜疑心が強く、残虐非道なイメージの、全く違う人物像が、共に伝えられています。
「小百合伝説」というのは、
佐々成正が、徳川家康を説得するため、厳冬の立山・北アルプスを山越えをして浜松城へ入ったという「さらさら越え」で、城を留守にしている間、成正が寵愛する側室の小百合が「家臣との不義密通を行った」との密告があり、激怒した成正が、小百合はもとより、一族十数名を神通川畔の磯部堤に立っている「一本榎」で吊るし切りにした。
このとき、小百合は「私は無実です。 私の恨みで立山に黒百合が咲いたら、佐々は滅びますぞ」と、呪って息絶えたという。
無実の罪で殺された小百合は、「ぶらり火」となって、夜な夜な神通川に出没し、成正を呪った。
小百合を惨殺後、成正は連戦連敗を喫し、豊臣秀吉に降参。
さらに黒百合の花を、北政所(秀吉正室)に献上したところ、不興を買い、秀吉から切腹を命じられ、佐々家は絶えた…。 と、いうもの。
この「小百合伝説」を、成正の後、越中を支配した加賀藩(前田家)が、意図的にゆがめて広めたのではないか? と考えられてきたのです。
しかし、加賀藩の歴史資料からは、「糠塚のふらふら火」という伝承で、わずかに触れられているだけで、むしろ好意的な記述もされています。
では、誰がこのような人物像を広めたのでしょうか?
初めて「小百合伝説」が紹介されたのは、江戸中期、加賀・能登・越中に伝わる奇談・怪談を集めた『三州奇談』に登場したのが始まりだそうです。
それから、江戸後期のベストセラー小説『絵本太閤記』では独自の脚色を施し、多くの読者を獲得したことで、「小百合伝説」は人々の間に広まっていきます。
さらには、明治32年に発表された、泉鏡花『黒百合』で、それまで小百合が惨殺された舞台は、神通川畔の「柳」だったのですが、『黒百合』の中では、「一本榎」へと、変わっているのです。
「磯部の一本榎」は、古くから妖怪が出ると、恐れられていました。
泉鏡花は、『三州奇談』や『絵本太閤記』をよく読んでいましたし、富山に滞在していたこともあり、「磯部の一本榎」をよく見ていたことから、小説の場面設定のモチーフにしたもの、とされています。
この内容が世に広まるにつれて、これが事実であるかのように、受け取られていったのでは、と思われます。
そして、ついに明治42年発刊の『富山市史』で、「史実」として記されるにいたります。
こうして、「磯部の一本榎伝承」は、通説化されていったのです。
もともとは小説に書かれたものが、一般化してしまった、ということらしい。
他には、富山城の築城から、現在にいたるまでの富山城の歴史が、紹介されています。
天守閣は展望台になっているので、眺望を楽しむのもいいですね。
この「磯部の一本榎」は、現在でも残されていて、護国神社の横の方の磯部堤にあります。
昭和20年に富山大空襲で枯死してしまって、落ちた種から育った2代目の樹。
この近くには、小百合姫を祀った「小百合観音祠堂」もあります。
「佐々成正の悪評を広めたのは加賀藩か?」という企画展をしていたので、行ってきた。
織田信長の時代、富山城主だった、佐々成正。
「武者の覚え」と称えられた佐々成正には、「小百合伝説」によって、猜疑心が強く、残虐非道なイメージの、全く違う人物像が、共に伝えられています。
「小百合伝説」というのは、
佐々成正が、徳川家康を説得するため、厳冬の立山・北アルプスを山越えをして浜松城へ入ったという「さらさら越え」で、城を留守にしている間、成正が寵愛する側室の小百合が「家臣との不義密通を行った」との密告があり、激怒した成正が、小百合はもとより、一族十数名を神通川畔の磯部堤に立っている「一本榎」で吊るし切りにした。
このとき、小百合は「私は無実です。 私の恨みで立山に黒百合が咲いたら、佐々は滅びますぞ」と、呪って息絶えたという。
無実の罪で殺された小百合は、「ぶらり火」となって、夜な夜な神通川に出没し、成正を呪った。
小百合を惨殺後、成正は連戦連敗を喫し、豊臣秀吉に降参。
さらに黒百合の花を、北政所(秀吉正室)に献上したところ、不興を買い、秀吉から切腹を命じられ、佐々家は絶えた…。 と、いうもの。
この「小百合伝説」を、成正の後、越中を支配した加賀藩(前田家)が、意図的にゆがめて広めたのではないか? と考えられてきたのです。
しかし、加賀藩の歴史資料からは、「糠塚のふらふら火」という伝承で、わずかに触れられているだけで、むしろ好意的な記述もされています。
では、誰がこのような人物像を広めたのでしょうか?
初めて「小百合伝説」が紹介されたのは、江戸中期、加賀・能登・越中に伝わる奇談・怪談を集めた『三州奇談』に登場したのが始まりだそうです。
それから、江戸後期のベストセラー小説『絵本太閤記』では独自の脚色を施し、多くの読者を獲得したことで、「小百合伝説」は人々の間に広まっていきます。
さらには、明治32年に発表された、泉鏡花『黒百合』で、それまで小百合が惨殺された舞台は、神通川畔の「柳」だったのですが、『黒百合』の中では、「一本榎」へと、変わっているのです。
「磯部の一本榎」は、古くから妖怪が出ると、恐れられていました。
泉鏡花は、『三州奇談』や『絵本太閤記』をよく読んでいましたし、富山に滞在していたこともあり、「磯部の一本榎」をよく見ていたことから、小説の場面設定のモチーフにしたもの、とされています。
この内容が世に広まるにつれて、これが事実であるかのように、受け取られていったのでは、と思われます。
そして、ついに明治42年発刊の『富山市史』で、「史実」として記されるにいたります。
こうして、「磯部の一本榎伝承」は、通説化されていったのです。
もともとは小説に書かれたものが、一般化してしまった、ということらしい。
他には、富山城の築城から、現在にいたるまでの富山城の歴史が、紹介されています。
天守閣は展望台になっているので、眺望を楽しむのもいいですね。
この「磯部の一本榎」は、現在でも残されていて、護国神社の横の方の磯部堤にあります。
昭和20年に富山大空襲で枯死してしまって、落ちた種から育った2代目の樹。
この近くには、小百合姫を祀った「小百合観音祠堂」もあります。