「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

9,姥スター ①

2025年03月10日 09時08分40秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・四月は毎年大騒ぎである

九十過ぎた私の叔母を連れて、
宝塚へお花見兼、
観劇にゆかなければならない

私も宝塚歌劇が好きで、
七十七の今もよく見るが、
叔母ときたら何しろ、
大正三年、宝塚少女歌劇創立以来の、
愛好者ということで、
演しものの変りめごとに行く

とくに四月は、
桜を見るのと、
初舞台生の口上を見るのとで、
二回か三回は行きたがるのである

何とも元気な年寄りである

で、切符の手配もし、
(これは長年の私のファン仲間である、
さる会社重役夫人が口をきいてくれる)
いよいよ、花も見ごろ、
叔母を迎えにいく手筈をし、
いそいそしている最中、
つまらぬことで、
またウチのバカ嫁どもと、
電話で言い争ってしまった

ことのおこりは、
亡夫の友人だった八十一の細木老人が、
ボケたというニュースである

長男の嫁がそれを聞いて、
早速電話してくる

「細木さんのおじいちゃま、
この頃、夜昼なしに、
ほっつき歩かれるそうです
お家のかたはもう、
困っていられるらしいです
始終、交番のおまわりさんが、
連れて戻られるらしいんですけどね・・・」

「へえ、
あの人なら、
そうかも知れまへん」

私は冷静にいう

細木老人はもともと、
昔話と死んだ人のことしかいわない、
回顧趣味の老人であった

世の中の新しいことに、
なんの関心も興味もなく、
何を見ても「ほほう!」とびっくりし、
三十分くらいすると、
もうそのことは忘れて、
またたずねるといった、
魯鈍なところがあった

見るからに老人くさく、
グチ話ばかりしていたから、
ボケもするであろう

気の毒に

「まあ、
お姑さんなら、
ボケの心配はないでしょうけど、
でもどんな拍子でどうなるか、
ウチのパパも心配してますのよ」

と長男の嫁はいうが、
ボケの心配よりも、
ほっつき歩くボケ老人を面倒見る、
その心配の方に重みがかかっているような、
口吻である

「お姑さんは、
よく出歩かれるから、
お元気だとはいっても、
何しろすべて単独行動ですものねえ、
ウチのパパ、
『ワシの名刺、
いつも持っててもらうように、いうとけ』
というてましたけど」

何が単独行動や

そんなことは言われるまでもなく、
バッグの中に三人の息子の名刺を入れ、
どこでどうなっても見苦しからぬように、
してあるが、
何しろ私の神さんモヤモヤさんは、
本人に悪意はないとしても、
人の意表をつく名人であるから、
どんな運命を用意して、
待ち受けているかしれない

「ボケになるときはなるやろうし、
しょうがおませんな、
こればっかりは・・・
私もまさかと思うものの、
そうなったらなったときのこと、
ま、あんじょうたのんまっせ
迷子札つけてもろて、
おまわりさんに連れ帰ってもらうように、
なるかもしれまへんし」

といったら、嫁はうろたえ、

「そんなことはないと思いますわよ、
大丈夫ですとも、
お姑さんみたいに、
シッカリしてられる方は、
夜昼なしにほっつき歩くなんてこと、
ないでしょうけど・・・」

「そらわかりまへん、
ボケて人のもんも自分のもんも、
わからんようになってしまうかも、
しれまへん
梅田あたりの陸橋の上から、
一万円札ばらまいて、
喜んでるようになるやら、
しれまへん」

と私はふざけてしまう

私のおふざけも悪いのだが、
この長男の嫁は真面目で、
融通の利かぬ女であるから、
この女としゃべっていると、
私はいつもからかいたくなる

「えーっ!」

と嫁は電話口の向こうで奇声を発し、

「まさか、お姑さん、そんな・・・
こういっちゃナンですけど、
そんな現金お手元においてられない、
でしょうね、
信託とか定期とかにして、
いらっしゃるんでしょうね」

「そんなもん、
いつでも現金化できますがな、
それに近頃、株でちょっとばかし、
儲けましたよってな」

「お姑さん、
株やってらっしゃるんですか」

嫁はぎょっとしたように尋ねる

「危ないことありませんか、
こわいやありませんか、
シロウトの株なんて、
お姑さん、
ウチのパパは知らないでしょう、
そんなおそろしいことを、
お姑さん・・・」

嫁は泣き声を立てている

さだめし私が全財産をスッて、
あまつさえ、
長男の財産も食いつぶすのでは、
あるまいかという心配で、
気も狂わんばかりであろうが、
私はシロウトではあるものの、
決して向こう見ずなことはしない

もと女中のおトキどんの娘婿が、
証券会社にいっている、
その縁でちょいちょい株をやるのだが、
欲はかかないので、
ちゃんと儲けているのだ

「ラジオや新聞の株式市況が楽しみでねえ、
べつにおそろしいというよなもんや、
あれへん、
老いの楽しみ、
いうてもよろし」

「えっ、
新聞にそんなもん、
載っているんですか」

嫁は頓狂にいい、
若いもんがいい目をして、
新聞のどこを読んでるのだ

「でも株で身上すった、
という話はよく聞きますから」

「それはあとさき見いひんからや
いつもよう気ぃつけてたら、
そんなことあらへん、
この間も三百万儲けましたで」

「・・・」

嫁は黙ってしまう
こういうもの知らずをからかうのは、
面白い

「そやけど、
これもボケへんうちのこと、
ボケたら梅田の陸橋から、
一万円札ばらまいて交通まひおこすか、
そのへんの牛乳箱へ一枚づつほりこんで、
お助け婆さんになるか、だす」






          


(次回へ)

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