「上手に思い出すことは難しい、それは過去から現在向かって飴のように伸びた時間という蒼ざめた思想から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える」この時間という思想の解釈が「無常ということの」の中でも論議を呼ぶ部分なのであるが、時間ではなく、時間という蒼ざめた思想と書いてあることが大切で、通常我々が考える時系列的物理的な時の進み、放たれた弓の如く一直線に進むという時間の概念という考え方では、歴史を本当に理解することはできないと言っているのである。歴史というものは、過去に起こった人間の痕跡を示すものだが、自分についての過去の事柄に思いを寄せるとき、人は思い出だすということをするのだが、同じように例えば、徒然草を読み鎌倉時代の人々や兼好に思いを寄せることも同じ態度で、そこには物理的時間というものはない。今思い出していること、その時点で厳然と歴史は自分に歩み寄ってきているということを言っているのである。小林秀雄は「感得する」と言う言葉を使っているが、その対象たる歴史的事実に直に入り込み「感得」するのである。感得とはベルグソン的には直感ないし直覚という言葉と同じことであるが、小林のこの考えは彼自身も述べているが、荻生徂徠の「学問は歴史に極まれり」という思想と良く似ている。この徂徠の言葉は、歴史を学ぶ重要性を言っているのではない。学問することは即ち、歴史に接する態度と同じであると述べているのである。また小林は自然に対する芭蕉の考え方、取り組み方の「風雅」という態度も本来はこのようなものだと述べている。上手に思い出すには、心を虚しくし、先入観や既成観念を常に疑いながら謙遜の態度で相手(歴史)に接しなければ相手は胸襟を開かず、何も教えてはくれない。注意しなければならないことは、心を虚しくし相手と一定の距離を置くのではないということで、相手の懐に深く入り込まなくてはならないのである。そういった態度で臨むならば、歴史は自ずからその秘密を明らかにしてくれる。鎌倉時代の人々が語りかけてくるのである。こういった小林秀雄の歴史概念は、歴史や時間は矢の如く一直線に先に進むのではなく、自分という視点から見ると、循環し、自己にまた戻ってくるのである。僕らを差し招く(平家物語)のである。
この歴史に対する態度を小林は論じている一方、いわゆる現代の歴史認識についても、苦言を呈している。つまり歴史は進化するものだ、発展するものだ、進歩するものだというという考え方は間違っているということはっきり言っている。多くの歴史学者は歴史は発展するものと定義する。また我々も新しいものほど良いものと考えがちである。この唯物論の思想は深く人々に浸透しているのだが、それでは、源氏物語以上の小説が出てきているのだろうか。万葉集以上の歌集が出てきているのだろうか。徒然草以上の評論文が出てきているのだろうか。多くの人々は唯物論の登場により本来人間の持つ健全な自ら考える力を捨ててしまったかのように見える。「時間という蒼ざめた思想」はこのように二つの意味で使われ、一方は誤った人々の歴史への態度、そしてもう一方は誤った歴史認識を語っているのである。
この歴史に対する態度を小林は論じている一方、いわゆる現代の歴史認識についても、苦言を呈している。つまり歴史は進化するものだ、発展するものだ、進歩するものだというという考え方は間違っているということはっきり言っている。多くの歴史学者は歴史は発展するものと定義する。また我々も新しいものほど良いものと考えがちである。この唯物論の思想は深く人々に浸透しているのだが、それでは、源氏物語以上の小説が出てきているのだろうか。万葉集以上の歌集が出てきているのだろうか。徒然草以上の評論文が出てきているのだろうか。多くの人々は唯物論の登場により本来人間の持つ健全な自ら考える力を捨ててしまったかのように見える。「時間という蒼ざめた思想」はこのように二つの意味で使われ、一方は誤った人々の歴史への態度、そしてもう一方は誤った歴史認識を語っているのである。