このところアメリカの黒人青年への警察官による暴行死及びトランプ大統領の対応のひどさについて報道されており、今さら私が取り上げても何ら新しいものはなさそうなのでここでは違う国のことを取り上げる。そうだロシアにしよう。
ここ数十年のロシア政治について調べ始めたら、これが現代の出来事かと思うようなことが連発なのだ。そのうちにプーチン大統領の個性というものがどうにも避けて通れなくなり、あれこれ調べている。
プーチン大統領、といえば真っ先に「元KGBのスパイ」という極めて特殊な経歴が真っ先に浮かぶ。そして日本人にとっては「柔道家」、さらに最近メディアで取り上げられるのが「マッチョ」なややマンガ的ともとれるイメージで、あとは「怖い」「31歳年下の彼女との間に子供がいるらしい」とか(当該2名はこの報道を否定している)、もう何だかネタ満載の超個性派である。私はこの「親密な関係がかねてより噂される31歳年下の元オリンピック金メダリスト」が現役時代好きだったのでプーチン氏に対しては「何てことをしてくれるんだ」という怒りがまず湧く。「世間知らずの若い娘にどんな甘言を弄して・・・この野郎」だ。
(硬派な分析を期待している方は佐藤優さんなどそちらをお読み下さい。)
次に女性側の親の心情に思いが至る。絶対的な権力者から好意を寄せられるほど若い娘の自尊心をくすぐるものはない。超大国の大統領、しかも独裁者である。自分の競技の世界しか知らず、美しいと自覚してさらには世界の頂点にいるとの自信がある若い娘ならひとたまりもないよねーという、親へのしみじみとした同情の念である。「お父様、気持ちの整理はついてますか?」と伏し目がちに小声で問いたいくらいだ。
元妻は離婚後21歳年下の男性と再婚したとのことで、上記事情からも私はさすがエカテリーナ二世の国、快挙といっていいのではないかと捉えている。
そんなこんなで真面目なことを中心に調べを進めると(スキャンダラスな部分はあくまでも二次的なものである)プーチン氏が大変コンプレックスの強い人物であるらしいことに気がついた。一つは女性に対しての、もう一つは政治に対してのものだ。
まずは女性に対するものから。同氏には女性を揶揄することが多いのに気づく。それも「女性とは口論も議論もしたくない」と話し合いを避ける、あるいは性的な内容だったりと、ある一定以上の年齢の男性にありがちなものというよりは何か別の理由による執拗な感じがした。結婚することで男女とも知らず知らずのうちに互いの性差の良さも悪さも見つけ、人により大小の差はあれどそれなりに受容していくものだがプーチン氏の場合には強い拒絶のようなものを感じる。氏が「恋人との間に子供を授かった」とされたのは離婚後だ。有権者の半数が女性であるとの事実に配慮したにせよ、それなりに元妻の顔は立てている。
ふと「元奥さん、譲らないタイプの気が強い人だった?」との疑問がわいた。プーチン氏の離婚前の家族構成は妻と二人の娘である。女性3人に口で敵わなかったのではないか。柔道家であるが故に自分より弱いものに手を上げることは恐らくしなかっただろう。となれば口論だが元妻が強かったことは十分考えられる。子供の頃から体育会系で法学部出身のプーチン氏が論理的に主張しても、元妻(哲学部文献学、スペイン語学出身)は違う角度から攻撃していったことが十分考えられる。調べていくと元夫人はやはり「主張する人」だったらしい。大統領就任後初の外遊で髪をオレンジ色に染めたいと強硬に主張して「大統領夫人として相応しくない」との周囲の声にも譲らなかったとの報道も見つけた。
そうなると21歳年下の男性と再婚も「自分が主導権を握りたい」ことの現われのようにも見えてきた。元夫であるプーチン氏も「黙って従え」のスタイルですべてにおいて指図していたと元妻は語っていると(夫側に)批判的なニュアンスで書いたネット記事も発見する。 夫の側は「自分が主導権を握りたいタイプ」というより、日々「主導権を握るためだけに国内外に向けて策を練る」のが仕事である。しかも世界中からの批判を一身に集め得る立場だ。家庭においてまで主導権争いをしていたのでは心身ともにもたないだろう。
ロシアではないけれどかつてアメリカに滞在した時、言葉と同程度に筆者が疲弊したのは「マッチョであることの主張(machismo)が強い」社会であるということだった。何かというと男性が「自分は男だから」とか「男性である自分は強くあるべき」との主張が様々な面で見られ、それが女性への労りに通じているのかもしれないのだが疲れてしまう。
「乙女男子」「草食系」の日本から来た私にとりアメリカは「性差以前の自分らしくいることができにくい」、「(日本とは異なる形で)性差による役割が大前提としてある」とても疲れる社会に思えた。ゲイの男性が何人かいたが、アメリカだからこそ「ゲイ」という範疇に入れられるだけで、日本なら普通に「ちょっと大人しい、物静かな男性」に区分けされるのではないか(愛情の対象についての問題はここでは取り上げない)、そんな風に感じることもしばしばあった。広大な国土、多様な民族が集まる国、すべては「獲得していかなければならない」国(換言すれば「機会の平等」の国)では「わかりやすい男性らしさ」がまず前提としてあってそれを調整、修正するためにジェンダー論が存在するのか、そんな思いすら抱いた。
そうした社会、それも男性優位の社会で女性が主張するというのは女性もまた「マッチョ的な意味での強さ」を表現しなくてはいけないのかもしれない。日本人の私からするとアメリカに限らず西洋人女性の主張の仕方は時に攻撃的過ぎ、あるいは自制心がないように感じることがある。具体的に言うと叫ぶ、大声を出す、息もつかずに主張し続けることだ。(もちろん穏やかな人もいる。)どうも日本人と欧米人の間で「強さ」の定義が違うのではないか。
欧米人女性が強くて日本人女性が弱い、あるいは主張しないとは思わない。「強さ」についての考え方、主張の仕方のあらまほしき形が違うのである。日本人女性にとって「強さ」の定義とは「逆境に耐え抜く力」だろう。「耐えに耐え抜き、ままならぬ人生の道を歩みながら遂には人生を自分のものにする力」が賞賛される。朝の連ドラによく見られる人生のパターンで、微笑みこそ強さの証明とされる。もちろん主張もするが賞賛される特質の第一位は「耐え抜く力」「自制心」だ。上善如水、戦う相手は自分だ。
一方、欧米女性の「強さ」とは「主張する」であり、戦う相手は外であり社会(それも男性優位社会)ではないか。当然主張の仕方(戦い方)は攻撃である。優しさがないとは思わない。優しい女性は欧米でも当たり前だが大勢いる。しかし一度主張を始めるとヒステリックなまでに攻撃し続ける女性がなぜああもいるのだろう。それはマッチョな形での強さを要求する社会が基盤となっているからではないか。そんな風に思う。
(「プーチンさんの胸のうち (2)」に続く)
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