昼休み、新野輝樹(にいの てるき)は長引いた会議の後、急ぎ足で21階へ向かった。環境エネルギー部の部長に昼食へ誘われていたからである。会議が長引くかもしれないと予め伝えてあったので「10分待っても来なかったら俺も待たずに昼飯に行くから、別の日に仕切り直せばいいさ。」と長沢部長も応じていて、気は楽だったもののやはり部長を待たせるのは気が引ける。今は12時16分だ。部に着くと人気はなく、やはり部長の姿はなかった。
「頼母さん、部長はもう昼に行っちゃった?」ただ一人部内にいた頼母静夏に声を掛けると、「はい、さっき出掛けましたね。『新野君が来たら、今日は残念だけど後で連絡するって伝えてくれ』とのことでした。」しかたなく新野も昼食に出ようかと思ったがひとり残る頼母がポツンと見えた。
「頼母さん今日はどうしたの、昼に出ないの?」
「はい、今日はお昼の電話当番なのでお弁当です。」
新野の部署は会議室のすぐ横で、電話当番も会議室で昼食を取るため気づかなかったが環境エネルギー部では電話当番は自席で昼食を取っているのだった。
「そっか、それじゃ今日はつまらないね。」
「まあ、それほどでもないですよ。私、元々お弁当派ですし。本も読めるから結構電話当番好きですよ。」
頼母がしっかり者だとは知っていたものの、社交的な性格だと思っていた頼母がお弁当派で読書好きとは意外である。案外内省的なのかもしれない。源氏物語のような小説をひとり読んでいるのだろうか。子猫を抱えてリンゴの木の下で読書する頼母の姿がふっと浮かんだ。
「今は何読んでるの?」
頼母はすっと本を垂直に持ち上げて新野が表紙を読めるようにした。
-ロバート・キヨサキ『金持ち父さん、貧乏父さん』-
「……いや、あの、ずいぶんと…しっかりした…その、大人びた本を読んでいるんだね。」虚を突かれた新野がへどもどしていると、頼母は淡々と「こうしたものを読まないと駄目だって父と祖父が送って来るんですよ。先月はおじいちゃんからで、邱永漢の『金銭通は人間通』でした。」
「あ、そうなの。あの…お父さんは何をしている人なの?」
もしかして有名なコンサルタントとか?いや秋田在住の有名コンサルタントって?
「秋田で家電量販店を経営してます。結構繁盛してるんですよ。後を継ぐのは兄や弟ですけど、こういうのは人間生きていく上で必要だから読みなさいって。」
「そうなんだ。」
あの噂は本当だったのかもしれない。新野はそんなことを思った。頼母が入社試験を受けた時の事である。
「あなたの特技や自慢できる事、セールスポイントを挙げて下さい」という面接時にありがちな質問があった時の事である。グループ面接で他の面接者が英語力や留学経験、ボランティア活動で得た経験などありがちな事を挙げている中、頼母の答えは際立っていた。
秋田出身の自分は「あきたこまち」「こしひかり」「ササニシキ」「ゆめぴりか」の食べ比べと、その違いを英語で説明する事ができる。また「シナノゴールド」「紅玉」「つがる」も同様である。農産物を初めとする日本産、日本製品の良さを世界に広げるため、自分はこうした味の違いや魅力の発信力を高める努力を続けるつもりである…。
このような回答をし、その答えに木下総務部長(新潟出身)と降旗人事課長(長野出身)は涙を浮かべんばかりの表情で頷き、静かな面持ちで聞いていた岩下生鮮品本部長(青森出身)も「つがる」と聞いた途端、やや顔を伏せて「決まりましたな」と呟いたという。高得点で面接試験を突破した頼母は当然、生鮮品本部行きかと思いきや、待ったがかかった。事業戦略本部を司る伊達常務である。
この話を聞いて伊達常務の左目がきらりと光った。頼母には情報収集能力と活用能力があると見た。「この娘は単純な農産物マニアではない。面接官が誰であるかOB訪問で情報収集して、どう攻めるかを考えた上であの答えを準備したはずだ。」すると「考え過ぎですよ、常務。あの娘は地方出身を隠そうともしない素朴で純情な娘なんですよ、きっと。」素朴で純情な人柄を見せながら降旗人事課長は言った。「降旗君は課長止まりだな。」口にこそ出さなかったけれど伊達常務は冷ややかにそう思った。「素朴な人間が『つがる』とあの場で言うか。普通は『サン富士』だろう。敢えて『つがる』を出すところに計算があったに違いない。」そのように見てとった。そして成長著しい環境エネルギー部で頼母を鍛えようと配属した…。いまだに都市伝説のように囁かれる事もある話だが、頼母の明るく快活な様子にそれはいつの間にか消えてしまうのだった。いずれにしても頼母は優秀である。
「あれ新野さん、ボタンが取れかかってます。」
ジャケットの袖口のボタンを指し、「付けましょう。」と頼母はカバンから七つ道具を出した。
「へえ、裁縫道具を持ち歩いてるの?」
「やっぱり大和撫子なのだ。」そう思っていると、頼母は手のひらを反らし口元に当て、体全体をクネクネとしながら「女ですもの」とおどけた様子で言った。ぷっと新野が吹き出すと頼母も笑いながら「子供の頃、しょっちゅう喧嘩をして服を破いたから、おばあちゃんに持たされてたんです。」と種明かしをした。
「ああ、それで。」
大和撫子とも秋田小町とも評されることのある頼母だが、今日話していて、少女の頃の頼母が蛇を振り回し近所の少年らを泣かせているような姿(そんなことは一言も言っていない)がとても自然に浮かんできた。
そうこうするうちに手早くボタンを付け終わり、ジャケットは新野に返された。綺麗な仕上がりだ。
「ありがとう、頼母さん。そうだ、御礼に今度ランチごちそうするよ。」
「ありがとうございます。……でもお気持ちだけで結構です。新野さんとランチしたら部内の女子にいじめられますよ。」笑いながら頼母は答えた。断られるとは寸分も思っていなかった新野はかなりの衝撃を受けた。
「え、でもさ、こんなに綺麗にボタンをつけてくれたし、何か御礼するよ。」
「大した事じゃありませんし。……じゃあ、御礼は何か別の形で。何でもいいですけど。」
人が部署に戻り始めたのに気づいて、新野も昼食を取らねばならない事を思い出した。
「考えとくよ。ありがとう。」
エレベーターの中で新野はこれまでに会ってきた女達を思い出してみた。表面では女らしく振舞っていながら乱暴に物を取り扱う女。男が呆れるようなあけすけな話を平気でして大口を開けて笑う女。媚びた目線でやたらと色気を出して迫ってくる女。新野には喧嘩をしては服を破き、『金持ち父さん、貧乏父さん』を読んでいる頼母が、なぜかこれまでに会った女達よりも女らしく思える。
サブレ、チーズケーキ、マカロン、チョコ…。確実に女性社員が喜ぶ新野御用達の店の品々が思い浮かんだ。恐らくこのどれを渡しても頼母は如才なく喜んで見せるだろう。でも確実にそこですべてが終わってしまうようで、それでは何だか物足りなく感じた。
「どんな物なら頼母さんは喜ぶだろう?」
新野は考え始めた。
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