先日の武蔵丘陵森林公園の続きになります。
森林公園を出て昼食をとった後、まだ時間が早かったので、途中で見かけた「吉見の百穴」へ行ってみようということになりました。
現在は、「ひゃくあな」と呼ぶようですが、私の子供時代は、「ひゃっけつ」と呼んでいました。
百穴というのは、古墳時代末期の横穴式のお墓です。
ここは、子供の頃、一度行ったことがあるという記憶があります。
私にとっては、思い出の場所、懐かしい場所とも言えないような古い古い記憶です。
多分、私が4歳か5歳くらいの頃だったと思います。
当時、私は、この吉見という地から少し離れた行田市という場所に住んでいました。
6歳になったか、ならないかという頃、一家で東京の下町へ引っ越してきたわけですが、まだ埼玉にいた頃に、両親に連れられて、この百穴へ行きました。
当時の事ですから、どこの家にも車などなかった時代です。
電車とバスを利用して行ったんだろうと思います。
交通手段など何も覚えていませんが、百穴へ行ったことだけは覚えています。
私がもしも4歳だとしたら、弟はよちよち歩きくらいだったと思うので、母に背負われていたのかもしれません。
弟が一緒だったという記憶は全くありませんが、一緒でないはずはないので、たぶん、母に抱かれていたか背負われていたんだろうと思います。
私はこの百穴が戦時中の防空壕だったとつい最近まで思っていました。
でも、古墳なんだそうです。
このたくさんの穴の中に色々な形をしたお棺が置かれていたようです。
今でも穴を覗くと、その後が残っています。
防空壕ではありませんでしたが、戦時中には、この穴の一番下の部分を掘って、軍需工場として利用していたそうです。
この中は、広く長く通路があちこちに分かれています。
戦争中に関係しているという記憶は、この軍需工場の事が頭の片隅に残っていたからだろうと思います。
私が、この百穴の事を覚えているのは、私にとって、強烈な出来事があったからです。
今は、この百穴は観光料金を払って中に入りますが、たぶん、当時は無料で、現在のように観光地化されてはいなかったと思います。
なにせ、62~3年前のことです。
子供の私は、この不思議な穴を両親から離れて一人でひとつひとつ覗きながら歩いていました。
すると、ある一つの穴を覗いた瞬間、中から男の人が出て来ました。
その人は、ひげも髪もぼさぼさで、腰をかがめたままのそっと暗い穴から現れました。
当時は、浮浪者という言い方をしていたのですが、今でいうホームレスの人が、色々な物を持ち込んで、この穴に住んでいたらしい。
ひげもじゃのその男性は、私が覗くと、
「何の用だ!」
と言って、私を威嚇しました。
私はびっくりして、その場を去り両親を探しました。
すぐに両親は見つかり、
「あそこに怖いおじさんがいる。早く帰ろう!」
と言った記憶があります。
それだけの記憶が、この百穴にあります。
この場所も、一時期は、多くの観光客が訪れたようですが、今は頂上のお店も閉鎖されていて、観光客が少なくなってしまったのを感じられました。
私が住んでいた行田市周辺は、現在は「さきたま古墳群」と言われ、数か所にいろいろな形の古墳が残っています。
当時、私は父と朝の散歩で、丸墓山と呼ばれる古墳の一つに登っていました。
草ぼうぼうの小さな山でしたが、今はきれいに整備されているようです。
私の生まれた地、いつか、孫たちを連れて、古墳巡りをするのも良いなぁと思っていますが、ツブが
「こんなところ、つまらない」
と言いそうだな(苦笑)
森林公園を出て昼食をとった後、まだ時間が早かったので、途中で見かけた「吉見の百穴」へ行ってみようということになりました。
現在は、「ひゃくあな」と呼ぶようですが、私の子供時代は、「ひゃっけつ」と呼んでいました。
百穴というのは、古墳時代末期の横穴式のお墓です。
ここは、子供の頃、一度行ったことがあるという記憶があります。
私にとっては、思い出の場所、懐かしい場所とも言えないような古い古い記憶です。
多分、私が4歳か5歳くらいの頃だったと思います。
当時、私は、この吉見という地から少し離れた行田市という場所に住んでいました。
6歳になったか、ならないかという頃、一家で東京の下町へ引っ越してきたわけですが、まだ埼玉にいた頃に、両親に連れられて、この百穴へ行きました。
当時の事ですから、どこの家にも車などなかった時代です。
電車とバスを利用して行ったんだろうと思います。
交通手段など何も覚えていませんが、百穴へ行ったことだけは覚えています。
私がもしも4歳だとしたら、弟はよちよち歩きくらいだったと思うので、母に背負われていたのかもしれません。
弟が一緒だったという記憶は全くありませんが、一緒でないはずはないので、たぶん、母に抱かれていたか背負われていたんだろうと思います。
私はこの百穴が戦時中の防空壕だったとつい最近まで思っていました。
でも、古墳なんだそうです。
このたくさんの穴の中に色々な形をしたお棺が置かれていたようです。
今でも穴を覗くと、その後が残っています。
防空壕ではありませんでしたが、戦時中には、この穴の一番下の部分を掘って、軍需工場として利用していたそうです。
この中は、広く長く通路があちこちに分かれています。
戦争中に関係しているという記憶は、この軍需工場の事が頭の片隅に残っていたからだろうと思います。
私が、この百穴の事を覚えているのは、私にとって、強烈な出来事があったからです。
今は、この百穴は観光料金を払って中に入りますが、たぶん、当時は無料で、現在のように観光地化されてはいなかったと思います。
なにせ、62~3年前のことです。
子供の私は、この不思議な穴を両親から離れて一人でひとつひとつ覗きながら歩いていました。
すると、ある一つの穴を覗いた瞬間、中から男の人が出て来ました。
その人は、ひげも髪もぼさぼさで、腰をかがめたままのそっと暗い穴から現れました。
当時は、浮浪者という言い方をしていたのですが、今でいうホームレスの人が、色々な物を持ち込んで、この穴に住んでいたらしい。
ひげもじゃのその男性は、私が覗くと、
「何の用だ!」
と言って、私を威嚇しました。
私はびっくりして、その場を去り両親を探しました。
すぐに両親は見つかり、
「あそこに怖いおじさんがいる。早く帰ろう!」
と言った記憶があります。
それだけの記憶が、この百穴にあります。
当時、こんな階段があったのかどうか、記憶にありません。
階段を上って頂上まで行くと、お店がありました。
階段を上って頂上まで行くと、お店がありました。
この場所も、一時期は、多くの観光客が訪れたようですが、今は頂上のお店も閉鎖されていて、観光客が少なくなってしまったのを感じられました。
私が住んでいた行田市周辺は、現在は「さきたま古墳群」と言われ、数か所にいろいろな形の古墳が残っています。
当時、私は父と朝の散歩で、丸墓山と呼ばれる古墳の一つに登っていました。
草ぼうぼうの小さな山でしたが、今はきれいに整備されているようです。
私の生まれた地、いつか、孫たちを連れて、古墳巡りをするのも良いなぁと思っていますが、ツブが
「こんなところ、つまらない」
と言いそうだな(苦笑)